第15話 父親/面接
「たまにはいいですね、こうやって絵画を鑑賞するのも」
第二展示室を出ると、氷菓さんの様子はすっかり元に戻っていた。
もしかしたら先程の表情は僕の見間違いだったのかもしれない、思わずそう思ってしまう程いつも通りだった。
「こういう機会でもないと、なかなか来ないしね」
氷菓さんはどうだが知らないが、僕には美術鑑賞なんて高尚な趣味はないので、美術館に来るのなんてそれこそ何年ぶりだろうといった感じだ。
階段を降り、一階へ。
ロッカーから荷物を回収し、美術館を後にする。
聞くべきか聞かざるべきか悩んだ末に僕は、結局お父さんの事を氷菓さんに尋ねる事にした。
「氷菓さんとお父さんってその、仲はどうなの?」
「……いいとは言い難いですね。原因はどちらかと言うと、私の方にあるんですが」
「氷菓さんに?」
それは一体、どういう意味だろう?
「幼少の頃の私は何も知りませんでした。自分には現世の記憶があると口にする事がどういう結果を生むのか、そんな当たり前の事さえも」
当時の事を思い出しているのか、氷菓さんが寂しそうな表情をその顔に浮かべる。
「私に限った話なのかもしれませんが、現世の記憶があると言っても、単に記憶があるだけで知性まで一緒に受け継いでるわけではないんです。なので、その頃の私は年相応の知能指数しか持ち合わせてなくて、両親に無邪気に自分には現世の記憶があるとさも当然のように告げたのです」
突然そんな事を言われて、両親はどう思うのだろう? 子供の戯言? 悪ふざけ? なかには過剰な反応を見せる親もいるかもしれない。氷菓さんの両親は果たして――
「初めは二人共、まともに取り合ってくれませんでした。当然と言えば当然です。子供は突拍子もない事を言う生き物です。子供特有の発言と思ったのでしょう。しかし、私が具体的な話をすると、父の方は反応が変わりました。そんな事を言うんじゃないと怒りだしたのです。それは、私の事を思っての発言だったのかもしれません。しかし、当時の私は一番大事なものを否定されたような、そんな気持ちになったんです」
お父さんの気持ちも分からないでもなかった。自分の子供が急に訳の分からない事を言い出したら、僕もどういう対応を取るか実際その時になってみないと分からない。
「それから私は、現世の記憶の事を誰にも言わなくなりました。だけど、父に一度芽生えた感情は消える事はなく……。父は父で言い過ぎたと思ったのでしょう。その一件以来、私に対して必要以上に気を遣うようになりました。そうなってしまったら最後、後は関係がぎくしゃくするばかりで、十年以上経ってもそのわだかまりはお互いの中に残ったままなのです」
なるほど。それが氷菓さんとお父さんの間にあるしこりの原因、大本か。
「あれ? でも、僕にはいきなり現世の記憶の話してきたよね」
幼少期に学んだんじゃなかったのか。
「お兄様はお兄様なので」
「……」
うん。訳が分からない。まぁ、その話は一旦脇に置いておくとして。
「家を出たのはそれが理由?」
「そうですね。家から高校が遠かったというのも理由の一つですが、決して通えない距離ではなかったので、父との関係が家を出るきっかけになったのはまず間違いないと思います」
「なるほど……」
これは僕が思っている以上に、デリケートで難しい問題なのでは?
聞く前に気付けという話だが、こういうものは得てして実際に行動に起こしてから気付くものなのだ。大事な物は失ってから気付く的な? ……違うか。
「お父さんと仲直りしたい気持ちは?」
「……あります。けど、上辺だけを取り繕っても意味ないですから」
確かに。全く持ってその通りだ。しかし、そうなってくると僕に出来る事って……。
「すみません。気を遣わせてしまって」
「いや、そんな事……。こっちこそごめん。こういう時、気の利いた事の一つも言えず」
「いえ、ただ話を聞いてもらっただけで私は……」
「……」
「……」
そのまま僕達は、お互い黙り込んでしまう。
頭に思い浮かぶ言葉はたくさんある。けれど、そのどれもが在り来りなもので、それを氷菓さんに伝えるのはなんとなく憚られた。
「お兄様はその、お父さんと仲いいんですか?」
そんな僕の逡巡を知ってか知らずか、先に口を開いたのは氷菓さんの方だった。
「父さんと? 仲は悪くはないかな。いいかって言われると微妙だけど」
そもそも、父親と仲がいいかと聞かれて、仲がいいと答えられる男子高校生がこの世界にどれだけいるのだろう。もちろん、中にはそういう素敵な家族も存在するかもしれないが、歩いていて道端で財布を拾うくらいには珍しい事だと思う。……いや、実際に聞いて回ったわけではないから、本当のところは知らないけど。
「喧嘩はするんですか?」
「最近は全然。昔はしたけどね。僕にも、それなりに反抗期というものがあったりなかったり?」
今となっては、なぜあんな事でイライラしていたのか分からないが、当時の僕にはどうしても許せない事だったのだろう。まぁ、大半が話し掛けてくるタイミングとか言葉のニュアンスとか、本当に些細な事だったんだけど。
「いいですね。私にもそんな風に言える時が来るのかな」
「氷菓さん……」
こんな風にして悩む彼女に、僕が今掛けられる言葉は――
「やっぱり、仲直りするには腹を割って話すしかないんじゃないかな」
結局、最終的に僕の口から出た言葉は在り来りなものだった。しかし、それが一番確実で、間違いのない方法、ではないだろうか。
「分かってるんです。けど……」
「僕が付いてるから」
そう言って僕は、氷菓さんの空いている方の手を握る。
もしかしたら、放っておいてもその内時間が解決してくれるのかもしれない。でも、なんとなく氷菓さんはそれを望んでないように思えた。出来るだけ早く自分の手で解決したいんじゃないか、そんな風に僕には思えた。
「お兄様……」
僕が付いているからなんだという話だが、いないよりはいた方が幾分か楽な気持ちになるのではないか……。というか、なったらいいなと思う。
「分かりました。お兄様がそこまで行ってくださるなら、一度ちゃんと父と話してみます」
「うん。それがいいよ」
良かった。これで万事解決――とはさすがにいかないだろうが、僅かでも前進してくれたら僕も嬉しい。
「というわけで、明日ってお兄様はお暇ですか?」
「明日? 別に予定はないけど……」
なんだ? 今の話の流れでなんで明日の僕の予定が……?
「では、昼の二時に今日と同じく狩田駅に集合という事で」
「それはいいけど、どこへ行くの?」
「決まってるじゃないですか、私の家ですよ」
「……へ?」
いえ? イエ? 家?
「はい!? なんでそんな話に……」
そりゃ、いつかは行かないととは思っていたけど、まだ心の準備が……。
「付いててくれるんですよね、私の側に」
そう言うと氷菓さんは、悪戯っ子のような笑みをその顔に浮かべながら、握られたままの僕らの手を持ち上げてみせた。
あー。なるほど。そういう事か。うん。確かに言った。付いていると。だったら――
「分かった。行くよ、明日。氷菓さんのウチに」
「ありがとうございます。心強いです」
最初は驚いたが、腹を括るのに然程時間はいらなかった。だって、握られた手は今も尚、緊張のためか僅かに震えているのだから。
是橋駅は狩田駅から電車を乗り換え、六駅ほどの場所にある駅だった。
狩田駅もそれなりに大きな駅だが、是橋駅はそれと比べるまでもないくらい規模が大きい。お店も色々と入っているし、何より新幹線が停まる。それだけである程度、駅の規模は想像出来るだろう。
改札を通り、邪魔にならない所で辺りを見渡す。
こちらの方向にはあまり来ないので、見る物全てが珍しい。
実際、この駅を訪れるのは三回目くらいか。こう言ってはなんだが、地元民としては特別な用か知り合いがいない限り、降りる事のない駅ではある。
「こっちです」
ここまで一緒に電車に乗ってやってきた氷菓さんに促され、東口へと歩き出す。
当然と言うべきか、狩田駅で顔を合わせてからここまで氷菓さんの顔・声・動き、その全てがどこか固く、彼女が緊張している事は火を見るよりも明らかだった。
隣に並び、氷菓さんの手を取る。瞬間、驚いたように僕の顔を見た氷菓さんだったが、すぐに視線を前方に戻し、そして少し俯いた。
「ありがとうございます」
そう口にした氷菓さんの口角は僅かに上がっており、同時に表情以外の部分から見て取れた緊張感も合って幾分か和らいだように、少なくとも僕の目には映った。
「そういえば、氷菓さんの家ってやっぱり大きいの?」
氷菓さんの心に最低限の余平常心が戻ったと判断した僕は、昨日からずっと気になっていた事をようやく尋ねる。
「そうですね。小さくはないと思います。豪邸という程は大きくはありませんが」
「僕の家と比べたら?」
「……二倍くらいでしょうか」
「……」
なるほど。氷菓さんの言う豪邸というのは、いわゆる庭にもう一軒同じ建物が建つくらいの敷地が存在するあの豪邸の事を指すらしい。僕から言わせてもらえば、そこまで行かなくても十分豪邸ではあるが、まぁその辺りは価値観の違いだろう。
それにしても、二倍か……。今から心の準備をしておかないと、動揺のあまりまともな会話すらままならない状態に陥りそうだ。
構内を出ると、そこは無数のビル群だった。
背の高い建物があちらこちらに乱立しており、自分の住んでいる所がいかに田舎だったかを思い知らされる。
「この辺りには映画館もあるんですよ。帰りに寄って行きましょうか?」
「帰る時にそんな余裕があればね」
これから彼女の両親と初顔合わせするというだけでも緊張するのに、更に彼女と父親の仲直りもそこでさせなければならないとなると、考えただけでも胃が痛い。
氷菓さんの手前、出来るだけ表に出さないように気を付けているが、僕の方こそ緊張で心臓がどうにかなりそうだ。どちらか一方でも大変なのに、同時に両方だなんてホント、どんな罰ゲームだ、一体。
「今ってどんな映画やってるんだっけ?」
自らの気持ちを変えるためにも、あえて氷菓さんの話に乗っかる。
「小説原作の恋愛ものとか、海外産のファンタジー映画とか、漫画原作のラブコメとか……」
氷菓さんが挙げたのは、どれも比較的放映前から期待されており、テレビでもよく紹介されている作品ばかりだった。
「まぁ、その辺が無難かな」
面白いかどうかは別にして、大外れはしなさそうだ。わざわざ映画館に出向いてお金を払うのだから、ギャンブルはあまりしたくない。
「お兄様は、日頃どんな映画をご覧になるんですか?」
「原作ありの日本産の映画が多いかな。ジャンルで言ったら、ミステリー、ラブストーリー、ラブコメ……。バトルものはあまり見ないな、映画館では」
別に嫌いというわけではないので、テレビでやっていて、尚且つ時間が合えば普通に見る。とはいえ、わざわざ録画してまでは見ない。そんな感じだ。
「氷菓さんは?」
「私も似たような感じですね。じゃあ、『セツコイ』とかどうです? クラスの子が話してて少し気になってたんですよね」
『セツコイ』は、『切ない恋と雨模様』という小説原作のラブストーリーで、若い女性を中心に今話題になっている映画だ。題名の通り、内容は少しビターで決して明るい内容ではない――との事。まぁ、とはいえ、カップルにも人気らしいし、二人で見るのを躊躇するようなものではないだろう。
「なら、全部上手く行ったら、打ち上げがてら映画を観に行こうか」
「打ち上げって、体育祭や文化祭じゃないんですから」
そう言って、クスクスと笑う氷菓さん。
良かった。多少は肩の力が抜けたようだ。
ビル群を抜け、周りの景色はいつの間にか住宅街のそれに変わっていた。
こういう風景を見ると、いよいよという感じがする。
「後、どのくらいで着くの?」
「十五分くらい、ですかね」
「そっか……」
後十五分。それが僕に残されたタイムリミットらしい。
気分はまるで、受験に臨む受験生のようだ。面接があるという意味では、まさにそのものって感じだな。
「氷菓さんは面接で緊張するタイプ?」
「面接、ですか? 私は別に……。というか、急になんですか?」
「いや、今の状況が受験前の気持ちに似てるなって……」
僕の中で勝手にそれらが結びついただけだから、氷菓さんからしてみれば、いきなりどうしたという感じだろう。
「あぁ……。二対二の、いわゆる圧迫面接ですね」
あえて明るく振舞おうとしてか、氷菓さんが笑顔でそんな事を言う。
「圧迫……」
考えてみれば、僕は氷菓さんのお父さんの顔を全く知らないわけで、ゴリゴリのヤクザみたいな人が出てきたらどうしよう。いや、氷菓さんのお父さんだしそれはないか。もしそうだとしたら、母親側の遺伝子がどれだけ強いんだって話になってくる。まぁ、たまにそういう家庭もあるけど。ガチマッチョな格闘家の娘が美人とか。
「あの、お父さんってどんな感じの人なの? その、雰囲気とか見た目とか」
「……父はどちらかと言うと物静かな印象で、体の線は細めですね」
ふー。これで、ガチマッチョの線は消えたか。まぁ、まだヤクザ然としている可能性は消えてないが。
「じゃあ、お母さんは?」
「母はいつもニコニコしてて人当たりがよく、大抵の人とすぐ打ち解けるタイプの人間ですね」
「そうなんだ」
氷菓さんの話を聞き、僕はほっと胸を撫で下ろす。
お父さんはともかく、お母さんの方はこちらが余程の失礼を働かない限り、特に問題なくやっていけそうだ。
「ただ、間違った事や危ない事には厳しく、声を荒げる事はないですが、笑顔のまま静かに諭してくるので、怒るとある意味父より怖いです」
「そうなんだ……」
まぁ、こちらが変な事をしなければいいだけの話なので、そこはあまり気にしなくてもいいだろう。一応、その辺の分別は弁えている――つもりだ。
「後、見た目ですが、スタイルはそれなりに良くて、顔は娘の私から見ても美人に分類される造りをしてると思います。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。内面含めて、まさに大和撫子といった感じの女性です、私の母は」
実の娘にそこまで言わせるのだから、氷菓さんのお母さんは相当凄い人なのだろう。これは違う意味で圧倒されそうだ。




