第12話 覚醒/謝礼
瞼を開ける。
思考がぼんやりとして上手くまとまらない。
ここはどこだ? 今何時だ? そもそも、寝ていても大丈夫な時間なんだろうか?
ぼやけた視界に見慣れた白い天井が映る。
つまり、ここは自宅の自室。体の下にある物の感触からして、僕はベッドに仰向けに寝転がっているらしい。
窓から赤い光が部屋に注ぎこんで来ている事から察するに、今は夕方と夜の間くらいか。
徐々に思考がクリアになってきた。
氷菓さんと駅で別れた後、家に帰ってきて自室で着替えを済ました僕は、そのままベッドに倒れ込み寝てしまったようだ。
変な時間に寝たせいか、頭が重い。
それに、変な夢を見た気がする。幼い頃、小学校低学年の頃の夢を。
今になってなんであんな夢を見たんだろう? 夢を見るまで、公園で迷子になった事こそ覚えていたが、それ以上の事は全く記憶になかった。
女の子。記憶が曖昧で名前までは思い出せないが、可愛かった事だけは思い出した。
僕は夢の中で、彼女の事を天使のようだと称した。
天使。天使。天使……。まさかね。
「よっと」
勢いをつけ上半身を起こす。
掛け時計は六時四十分を指していた。
きっちり夕食前に起きるとは、体内時計ばっちりだな。いや、この場合、腹時計? ……ま、どっちでもいいか。
リビングに向かおうと、スマホを探す。
探し物は、枕元に無造作に置いてあった。おそらく、あまりの眠気に手に持っていたそれを、枕元に投げたのだろう。記憶にはないが、その光景が容易に想像出来た。
「ん?」
スマホを手に取り、そこでようやくランプが光っている事に気付く。
誰だろう?
電源ボタンを押し、画面を点ける。
ラインが届いていた。差出人は氷菓さん。内容は――
『いい夢見れました?』
「――!」
な、なんだ、このラインは……。なぜ僕が寝ていた事を知っている? エスパー? エスパーなのか? それとも、盗聴器の類が部屋に仕掛けられているとか?
辺りを見渡す。
怪しい物や部屋にあった物が僕の知らない内に動いた形跡はない。まぁ、既存の物に偽装されていた場合さすがに気付かないので、仮にそうだとしたら専用の機器等を用いないと見つけようがないのだが。
「ん?」
手に持っていたスマホが震え、新たにラインが届く。
『寝ぼけているお兄様、可愛かったです♡』
寝ぼけ? 寝ぼけ……。寝ぼけ!?
「もしかして!」
一つの可能性を思い付き、慌ててスマホを操作する。
「……」
予想通り、知らない通話履歴が……。相手はもちろん氷菓さん。時刻は二時間前となっていた。こんな通話、記憶にない。つまり、僕は寝ぼけて電話に出てしまった?
「あー」
なんか、変な事言ってないかな。可愛いって何? 電話で何を言ったんだ、僕は……。
怖い。怖いけど、確認せずにはいられない。
僕は震える手でスマホを操作、氷菓さんに電話を掛ける。
二回目のコール音の途中で、電話が繋がる。
『おはようございます、お兄様』
「……おはよう」
見栄を張っても仕方ない。起き抜けという事はどうせバレているし、堂々と行こう。
「なんか、電話くれたみたいだけど……」
堂々とは一体……。
『うふふ』
電話の向こうから笑い声が聞こえた。
それだけの醜態を僕が繰り広げたのか、それとも今の僕の様子がおかしかったのか、どちらにしろ恥ずかしい事には間違いない。
『ごめんなさい。別に、大した用ではなかったんですけど、大分肩濡れてたようだったのでちゃんと着替えたのかなって』
「あぁ。そこは大丈夫。すぐ着替えたから」
『そうですか。それなら良かったです』
「……」
正直、そんな事が聞きたかったわけではない。僕が本当に聞きたかったのは――
「さっきの電話で僕、もしかして変な事言った?」
そう。本当に聞きたかったのはその事。寝ぼけて出たという数時間前の電話の件だ。
『うふふ。可愛かったですよ』
「だから、何が!?」
言葉が具体的でない分、余計に怖い。ホント、何言ったんだ僕。
『別に、大した事は言ってないですよ。ただ、ふがふがしてて可愛かっただけで』
「ふがふが……」
それならまぁ、別にいいのか。いいのか?
『それよりお兄様』
「ん?」
『どんな夢、見てたんですか?』
「――!」
なんの変哲もない普通の質問のはずなのに、その質問に僕はなぜか動揺してしまう。見ていた夢の内容のせいか、はたまた先程の一つ目のラインのせいか、もしくはその両方……。
「昔の夢、だよ」
『へー。小さい頃の夢って事ですか?』
「そう。小学校低学年の時の」
『可愛かったんでしょうね、その頃のお兄様』
「……」
言葉通りに受け取るべきか、あるいは――
いや、考え過ぎか。変なタイミングで寝たせいで、思考が妙な方に働いているな。
『お兄様?』
僕が急に黙ったからだろう、氷菓さんが不思議そうな声を上げる。
「あ、ごめん。まだ眠気が残ってるみたい」
嘘ではない。それが黙った理由ではないだけで。
『そうですか。そろそろ夕食の時間だし、もう切りますね』
「うん。じゃあ、また明日」
『はい。また明日』
通話を終え、スマホを耳から離す。
ふいに室内に静寂が訪れた。時計の針の音だけがやけに大きく聞こえる。
七時少し前。
今後こそ下に行くか。
ベッドから立ち上がり、扉に向かって歩き出す。
まずは洗面所で顔洗って、それから飯だな。
さて、今日のおかずはなんだろう。肉かな。肉だといいな。まぁ、魚でも美味しいから別にいいけど。野菜は出来れば少なめでお願いしたい。いや、食べられるけどね。別に、食べられるけどね。
そんな風に今晩のおかずに思いを馳せつつ、僕は扉の取っ手に手をかけた。
「晃樹はさ、もうキスとかしたのか?」
二時間目と三時間目の間の休み時間。なんの脈絡もなく、東寺がふとそんな事を聞いてきた。
「なんだ急に。藪から棒に」
しかも、会話の途中でふいに聞いてきたとかではなく、僕の席にやってくるなり開口一番発した言葉が今のそれだった。いくらその事が前々から気になっていたとしても、さすがにぶっ飛び過ぎだ。
「いや、高梨さんと付き合い始めて、もう二週間だろ? そろそろ進展したかなって」
「しても言うか」
「なんでだよ。いいじゃん、減るもんじゃないし」
「そういう問題か」
たく、人の恋愛事情なんて知ったところで、何が面白いんだか。
「そういうお前はどうなんだよ、神村さんと」
「あー……」
僕の質問に、露骨にテンションを下げる東寺。
「なんかすまん」
触れてはいけない話題だったらしい。あまりに今まで通りだったものだから、以前と同じように考えていたが、実際はそうではないようだ。
「いや、別に何かあるってわけじゃないんだけど。逆に今まで通り過ぎるというか、何事もなかったかのような感じで助かってるはずなのに、なぜかこっちが戸惑うっていう……」
「贅沢な悩みだな」
「うっ」
まぁ、言いたい事は分かるが、関係がぎくしゃくしてないのだから、本来は喜ぶべきだろう。
「分かってるんだ。分かってはいるんだけどさ……」
頭では分かっているが、感情がそれを許さないってやつか。難儀な話だ。
「神村さんが部活引退するまで待つんだろ?」
「まぁな」
その辺の話は東寺から詳しく聞いている。二回目の告白を神村さんに予約した事も含め。
二回目の告白か……。同じ相手にもう一度告白するって、どういう気持ちなんだろう? まぁ、東寺の場合、完全に断られたわけではないから多少状況は違うかもしれないけど、一回目の告白と勝手が違う事は確かだろう。
一回でも大変なのに、それを二回もしなければいけないなんて、本当にご苦労なこった。
そもそも、一度も告白した事のない僕にはその気持ちが分からない。自慢ではない。むしろ、そういう事の出来る人に憧れや羨望すら覚える。なぜなら、それだけ自分から人の事を好きになれるというのは、素敵な事であり誇れる事だと思うから。
「頑張れよ」
「お前こそ、なんだよ急に」
「いや、なんとなく、深い意味はないんだけどさ」
意識して発したわけではなく、ふいに口を突いて言葉が出てしまったのだ。
なんやかんや言って、僕も六年来の悪友の恋路にそれなりに思い入れがあるという事なのだろう。これでは人の事言えないな。
「まぁ、額面通り受け取っておいてやるよ」
「何をー。偉そうに」
お互い言い合い、少しの間睨み合う。そして――
「「ぷっ」」
どちらともなく吹き出し、
「「あはは」」
同時に笑い合う。
そんな僕らにクラスメイトの視線が一瞬集まったが、すぐに興味を無くしたように元の位置に戻る。なんだこいつらかという反応だろう。誰なら良くて誰なら悪いというわけではなく、反射的に声の発生源を確かめただけといったところだろう。
「あ、そういえば――」
話が一段落した事もあってか、東寺が何やら思い出したように、自分の席まで行き、そしてすぐに戻ってくる。
「お前にこれを渡そうと思ってたんだ」
そう言って東寺が、僕の前に差し出してきたのは、二枚の紙切れだった。
「なんだこれ」
受け取り、それをまじまじと眺める。
紙には、店名と持ち帰り用チケットという文字が書かれていた。
どうやら、このチケットを見せると、ガトーショコラを一つ貰えるらしい。
チケットに書かれた店名はCheri。最近、女子高生の間で評判のこじゃれたカフェだ。
僕自身はまだ行った事はないのだが、噂はよく聞く。店内は然程広くないが、全体的にシックな装いで、とにかく雰囲気がいいらしい。デートにはもってこいという話で、いつか僕も行ってみたいと思っていた。もちろん、恋人と。
「貰い物だけど、この前の借りの返済代わりって事で」
この前の借り? あぁ、遊園地デートの言い出しっぺが誰かってやつか。まぁ、金額的には妥当なところかな。
「じゃあ、有難く頂戴しとくよ」
二枚のチケットを僕は早々に財布へとしまう。
「おう。高梨さんでも誘って楽しんできてくれ」
「そうだな。氷菓さんに聞いてみるよ」
早速、今日の昼休みにでも聞いてみよう。
……考えてみると、氷菓さんの好みってあまり聞いた事なかったな。何が好きで何が嫌いか、いい機会だし聞いてみるのもいいかもしれない。
「ちなみに、トウジはこの店行った事あるのか?」
「舞奈に連れられ何度か。けど、客層がカップルか女の子かって感じで、居心地はそんな良くなかったかな」
「いや、神村さんと行ってる時点で、お前も立派なカップルだろ」
「まぁ、な」
とはいうものの、東寺の気持ちも分からないでもない。結局のところ、傍からどう見えるかではなく、自分自身の気持ちが大事という事なのだろう。
「ちなみに、お勧めは?」
「お勧め? うーん。ココナッツケーキかな。チョコとかチーズの王道もいいんだけど、独特な甘みがたまんないんだよな」
「へー」
こちらから聞いたのだ。注文する時の参考にさせてもらおう。まぁ、参考にするだけで、実際に注文するかどうかはまだ分からないけど。




