第10話 膝枕/名前
なるほど。何事にもキャパシティというものがあるようだ。
昼食前に僕は絶叫系と非絶叫系を交互に乗れば永遠に行けるような事を言ったが、あれは完全に過言だった。限度を超えたダメージには誰も抗えない。これは絶対の真理であり、変えようのない事実だ。
つまり、何が言いたいかと言うと……今回のこれは僕のキャパシティを遥かに超えており、体裁を保つのも不可能なくらい限界だった。
「あー……」
ベンチに腰を下ろし、声を出し青空を見上げる。
情けない。本当に情けない。
「大丈夫ですか?」
横を向く。心配そうな表情の高梨さんがそこにいた。
「あー、大丈夫……ではないかな。ちょっと時間欲しい」
強がろうとしてみたものの、この状況でそれをしたところで格好付けにすらならないので、途中で止める。
「すみません。私のワガママに付き合ってもらったせいで」
「ワガママ? なんで? 僕が自分で選んで自分で乗ったんだよ。全然そんなんじゃないよ」
「お兄様……」
見つめ合い、どちらともなく微笑む。
「うっ」
しかし、すぐに気持ちが悪くなり、再び僕は天を仰ぐ。
「お兄様」
首をやや上に向けたまま、声のした方を向く。
僕と目が合うと、高梨さんが自分の腿をぽんぽんと叩いた。
「え?」
「どうぞ、お使いください」
「……」
高梨さんの腿と顔を交互に見て、最後に空を見る。
膝枕か。まるで漫画かドラマだな。
「お兄様?」
これは、腹を括る他ないか。
高梨さんに目線で許可を得て、ゆっくりと頭を高梨さんの腿へと下ろす。
柔らかっ。それに布越しに仄かに体温を感じる。なんというか、とても妙な気分だ。
「どうですか?」
「気持ちいいよ」
「そうですか。それは良かったです」
言いながら、高梨さんが微笑む。
暑くも寒くもない程よい気温の中、僅かに吹く風が僕の頬を撫でる。心地のよい、いい日和だった。まさに昼寝日和だ。しないけど。
手持無沙汰だったのか、高梨さんの手が僕の髪を撫でる。
「何?」
「お嫌でした?」
「いや、別に……」
「じゃあ、良かったです」
そんな事を言っている間にも、高梨さんの手は常に動いており、止める気配はなかった。
まぁ、いいか。気持ちいいし。
「お兄様、今日楽しかったですか?」
「何、急に?」
「南原さんの事もあったし、今もこうして……」
そう言って、眉間にシワを寄せ、困ったような顔をする高梨さん。
「楽しかったよ」
その顔を笑顔にしたくて、僕は告げる。率直な思いを。顔を見て。はっきりと。
「え?」
「東寺や神村さん、それに高梨さんと一緒に、色々なアトラクション乗って、ご飯食べて、喋って、膝枕までしてもらって。けど――」
「けど?」
「今日はまだ終わってないよ。観覧車乗らなきゃ」
「はい。一緒に乗りましょう、観覧車」
頷いてそう言う高梨さんの顔には、僅かばかりながら笑顔が戻っていた。
その笑顔を見て、僕は――
あれ? こんな事、前にもなかったっけ?
ベンチで氷菓さんに膝枕される僕。そして、少し作られた笑顔。
……いや、そもそも、僕と氷菓さんが知り合ったのはここ数日なのだから、忘れるほど前の記憶があるはずがないのだが、なぜか以前にも同じようなシチュエーションがあったような気がしてしまう。デジャブ? あるいは――
「お兄様?」
高梨さんが僕の顔を、心配そうに覗き込んでくる。
どこかにトリップしかけていた思考が、彼女の声で引き戻された。
どうやら僕は、少しぼんやりしていたらしい。
「大丈夫、ですか?」
「うん。ちょっとぼっとしてただけだから」
「本当に?」
「本当に」
意識的に笑い、体を起こす。
「もう大丈夫」
「まだ良かったのに」
高梨さんのその言葉は、僕の事を気遣ってというより、自分がもう少ししたかったのにという風に聞こえた。
そもそも膝枕って、される側は気持ちいいけどする側はどうなんだろう? ……その内、機会があったらしてみようかな。まぁ、そんな機会、訪れるかどうか分からないけど。
「それより、飲み物買ってこようか」
絶叫系に乗ったという事もあって、なんだか無性に喉が渇いていた。
最後に水分を取ってから二時間近く経過しているし、タイミングとしてはちょうどいいかもしれない。
「いえ、ここは私が」
立ち上がろうとした僕を、高梨さんが付き出した手と共に静止する。
「え? でも?」
「念のため、お兄様はもう少し座っててください」
そう言う高梨さんの顔は真剣で、僕は半ば気圧されるようにその言葉に頷いていた。
「じゃあ、ちょっと待っててくださいね」
立ち上がり、僕から遠ざかっていく高梨さん。
それにしても、さっきの妙な感覚は一体なんだったんだろう?
デジャブ。勘違い。それだけでは説明出来ない何か不思議な感覚が確かにさっきあった。
「……」
慣れない場所や慣れない事の連続で、思っていたより疲れていたのかもな。今日は風呂に入ったらすぐに寝よう。明日、月曜日だし。
ぼんやりとそんな事を考えていると、程なくして高梨さんが戻ってきた。その手にはそれぞれペットボトルが握られていた。
「炭酸にしました。車酔いには効くそうなので」
「ありがとう」
高梨さんからペットボトルを受け取り、蓋を開ける。瞬間、ぷしゅという音がした。
ペットボトルを口に運び、ジュースを飲む。
しゅわっという感触が口と喉に広がり、甘さと共に胃へと運ばれていく。
なんとなく、気持ちの悪さが緩和された気がする。……気のせいかもしれないけど。
高梨さんも隣に座り、自分の手の中のペットボトルに口を付ける。
あちらはお茶のようだ。
「後五分くらいしたら、観覧車に向かいましょうか」
「だね」
さて、折角二人きりになったんだ。東寺のやつ、いい雰囲気作って、上手く告白に繋げていてくれよ。
「わぁー」
窓部に張り付くようにして外の風景を見る、高梨さんの口から感嘆の声が上がる。
「高い。とても高いですよ、お兄様」
そう言って僕の方を振り返った高梨さんの瞳は、爛々と輝いていた。
「高梨さんは高い所好きなの?」
「べ、別にそんな事はありませんけど、こういうのはやはり、少しテンションが上がってしまいますね」
急に我に返ったのか、高梨さんが佇まいを直し、体を正面に向ける。
ちなみに今、僕達は観覧車に向かい合う形で座っている。
座り位置の判断は、高梨さんが先に入り座ったため、結果的に僕に委ねられる事となった。一瞬、隣り合う形も頭を過ったが、結局今の形を選択した。向かい合う形を選んだ理由は特にないが、強いて言うならこちらの方が自然だと感じたからだろうか。
「密室に二人きり……。改めて考えると、なんだかドキドキしますね」
言って、照れたように笑う高梨さん。
「……」
他意はないのかもしれないが、そう実際に口にされてしまうと、余計に意識レベルが上がるので止めて頂きたい。
「お兄様、あの、私、お兄様にお願いしたい事がありまして」
頬を赤らめた高梨さんが、上目遣いで僕を見ながら、そんな事を言う。
「な、何?」
あまりに突然の展開に、動揺が隠せない。
この状況、先程の台詞、高梨さんの表情、お願いという言葉。全ての条件が、否応なしに邪な考えを僕の頭に連想させる。
いやいや、そんなわけない。そんなわけないだろ。高梨さんがそんな……。
頭の中で必死に否定の言葉を連ねようとも、本能はそれを受け入れず、ごくりと喉が鳴る。
まさか、ここで……?
高梨さんが次の言葉を口にするまでの僅かな間が、一分にも一時間にも思えた。
もの凄く長い数秒が過ぎ、ようやく高梨さんの口が開く。
「私の事、氷菓と名前で呼んで欲しいんです」
「……へ?」
明後日の方向から飛んできた一撃に、僕は思わず思考がフリーズする。
名前? 名前ってあの名前? 物や人を区別するために付けられる、あの名前?
「いいけど」
未だ混乱する思考のまま、僕は特に考える事なく返事をする。
というか、そんな事ぐらいお安い御用だ。
「本当ですか? ありがとうございます」
僕の返事に、本当に嬉しそうに笑う高梨さん。
名前、名前ね。確かに、付き合い出したのに高梨さん呼びは少しよそよそしいか。向こうはすでに晃樹君呼びだし。
よし。
心の中で気合を一つ入れると、僕はワクワク顔で待ち受ける高梨さんと目線を合わせ、意を決して口を開く。
「ひょ……」
うわぁ。これ、実際に言おうと思うと、なんだか恥ずかしいな。思えば、前付き合った彼女の時は名前呼びするまで一か月くらい掛かったっけ。それを今回は十日でやろうとしているのだから、そりゃ緊張もするよな。
深呼吸をし、一度心を落ち着かせる。
大丈夫。名前を呼ぶだけだ。しかも、相手の方から頼んできた上での行為だ。何も緊張する事はない。僕なら出来る。頑張れ、僕。
「ひょうか……さん」
「はい」
僕が名前を呼ぶと、高梨さん――氷菓さんは満面の笑みで返事をした。
「うふふ」
これだけ喜んでくれるのなら、僕も頑張って名前を呼んだ甲斐があったというものだ。
妙な達成感のようなものを覚え僕は、なんともなしに窓の外に目をやる。
観覧車はいつの間にか頂上部に到達しようとしていた。
外にいる人々がひどく小さく見える。
この距離では表情までは分からないはずなのに、彼らが皆一様に笑顔を浮かべているように見えるのは、僕が浮かれているせいだろうか。
「お兄様」
「ん?」
呼ばれ、氷菓さんの方に視線を戻す。
「また来たいですね。……今度は二人で」
そう言って、視線を斜め下に落とした氷菓さんの頬はほんのり赤らんでおり、その姿を見た僕の頬まで吊られて赤くなってしまう。
地上から離れた距離、密室、頬を赤らめ合う男女……。言葉だけ並べてみると、まるで今から何かが起こりそうな……。起こりそうな……。
「お兄様……」
潤んだ瞳が僕を見つめる。その頬は相変わらず紅潮していて、あたかも何かを催促しているようでもあった。
何を? そんな事は馬鹿でも分かる。
僕の想像を肯定するように、氷菓さんが目を瞑る。
つまり、そういう事だ。
体を乗り出し、氷菓さんの顔に自分の顔を近付ける。後少し、後少しで……。
僕の唇が氷菓さんの――額に触れる。
「お兄様?」
瞼を開けた氷菓さんと至近距離で目が合う。
目が合う。至近距離で。氷菓さんと。
ボッ。
瞬間、本当に顔から火が出たかと思った。それぐらい一瞬で顔が熱くなった。
なんだ、この完璧過ぎる顔面は。神か。神が作りたもうた芸術品なのか。……いや、今はそんな事より――
「ごめん。今はそれが精一杯っていうか、なんていうか……」
「……」
僕の言葉に、氷菓さんが呆気に取られた顔をする。
やばい。引かれた? もしかしなくても引かれた? そりゃ、そうか。日和って額にキスした挙句、訳の分からない言い訳までして……。
「ぷっ」
突然、氷菓さんが吹き出す。
「え?」
「もう仕方がないんだから、お兄様ったら」
言いながら、目を細めて笑う氷菓さん。
よく分からないが許されたらしい。良かった……。
「生まれ変わっても、お兄様はやはりお兄様のままですね」
「それってどういう……?」
「お兄様は昔も今も素敵って事ですよ」
そう言って、氷菓さんが僕の額にキスをする。
「え?」
柔らかな感触が、離れた今も余韻となって額に残る。
収まりかけていた顔の熱が、思い出したかのように再燃する。ふい打ちだった事もあり、自分でした時の何倍も顔が熱い。
「さっきのお返しです」
動揺する僕に対し、氷菓さんはいたずらっ子のような笑顔を浮かべてみせるのだった。




