第1話 恋文/告白
朝、下駄箱を開けると、見慣れた緑色のスリッパの上に見慣れない白い封筒が乗っていた。
封はされていない。
手に取り、蛍光灯にかざす。
どうやら、中には折りたたまれた手紙が一枚だけ。剃刀の類は入ってないようだ。
「何してんだ、お前」
すぐ隣から聞こえてきた声。その発生源に僕は目をやる。
「トウジか」
視線を向けると、中学からの腐れ縁で悪友の南原東寺が、僕を不思議なものでも見るような目つきで見ていた。
「ついに気でも触れたか」
「な訳あるか。ちょっと安全点検をだな」
というか、ついにとはなんだ。まるで以前から、僕にその兆候があったみたいじゃないか。僕は昔も今も至って普通。普通過ぎて特徴がないとすら言われた事のある人間だ。……自分で言っておいて少し空しくなる。
閑話休題。
「安全点検? 何言ってだ、お前」
ますます眉を潜める悪友に僕は、手に持ったそれを見せる。
「え? それって、まさか……」
「だよな、多分」
「だよなって、お前」
呆れる悪友を余所に、僕は封筒を鞄の外ポケットに入れる。
人に見られてからかわれたりトラブルになったりするのは御免だ。こういう物はすぐにしまうに限る。
「開けないのか?」
「後で開けるよ」
「んだよ、つまんねーな」
悪態を付く悪友は放っておいて、僕は靴をスリッパに履き替え、下駄箱を後にする。
時は金なり。こんな所で無駄な時間は使っていられない。
「なぁ、誰から?」
僕を追いかけ隣に並んだ東寺が、楽しそうにそう聞いてくる。
他人の恋路の何がそんなに楽しいんだが。
「さぁ、見てない」
封筒には差出人の名前は書かれていなかった。あるとしたら、中の手紙の方だろう。
「分かったら俺にも教えてくれよ」
「なんでだよ」
「なんでって……。気になるだろ、普通」
「そうか?」
人に当てられて書かれた手紙の差出人なんて気にならないだろ、別に。
「はー。そんなんだから、お前は彼女の一人も出来ないんだよ」
「生まれた時から人生勝ち組の君にだけは言われたくないね」
「勝ち組? 俺が?」
本人に自覚はないようだが、東寺にはいくら努力しても決して手に入らない最強の人生アドバンテージが生まれた時から備え付けられていた。それは――
「あ、東寺。おーっす」
「いて」
背後から後頭部をはたかれ、東寺が声を上げる。
「舞奈、てめー」
東寺の後ろに突如現れた人物こそ、彼が勝ち組たる所以、美人な幼なじみ、神村舞奈さんだ。
彼女はスポーツウーマン然をした容姿をしており、身長も平均的な男子高校生代表の僕らと同じ程度には背も高い。顔は可愛さと格好良さを併せ持った感じで、男女共に人気がある。故に、バレンタインにチョコを貰う事も珍しくないらしい。もちろん友チョコなどでなく、本命チョコだ。
「海野君もおはよう」
先程までのやりとりが嘘か幻のように、落ち着いた笑顔を浮かべ、神村さんが僕に挨拶をしてくる。
「おはよう、神村さん。今日も朝から元気だね」
「そう? 照れるなー」
あははと言って、神村さんが自分の頭をかく。
「褒められてねーよ、別に」
「あっそ」
「いて」
再び後頭部をはたかれ、東寺が声を上げる。
いつもの事なので、この光景を見てももう僕は何も思わない。精々、またやってるなくらいのものだ。
神村さんを加えた三人で、教室に向かって歩き出す。
ちなみに、二人の登校時間が違うのは、神村さんが運動部に所属しており朝練をしてきたからだ。心配しなくとも、朝練のない日はちゃんと二人で登校してきているので安心して欲しい。……なんのこっちゃ。
「そういえば、風の噂で聞いたんだけどさ」
神村さんが来た事により、先程まで僕と東寺でしていた話は一旦お流れとなった。僕としてはこのまま一生流れてくれた方がいいのだが、そう上手くはいかないだろう。
「高梨さんの様子が最近変なんだって」
神村さんの言う高梨さんとは、あの高梨さんだろう。
高梨氷菓。僕達と同じ一年。入学早々行われた学力テストでは堂々の一位を獲得。美し過ぎるその容姿は教師すら自ら道を譲るという。それでいて人当たりはよく、欠点らしい欠点が見つからない、パーフェクトヒューマンだ。
「変ってなんだよ」
「物思いに耽ってる事や溜息が増えたって、同じクラスの子が言ってた」
「そりゃ、いくらあの高梨さんでも悩みの一つや二つくらいあるだろ。一応、俺達と同じ人間なんだから」
まぁ、僕も東寺の意見に賛成だ。どんなに完璧に見えても、彼女も一人の少女。悩みくらいあるだろう。
「それが、その子曰く、そんな簡単な話じゃないんだよ」
どうやら、ここからが本題だったらしく、神村さんが人差し指を揺らしながら、僕達の注意を自分に向ける。
「高梨氷菓は恋をしてる」
「「は?」」
突然発せられた突拍子もない情報に、僕と東寺は思わず同時に声を上げる。
「なんだそれ」
「だって、その子が言ってたんだもん。あの顔は、きっと恋をしてる顔だねって」
「あっそ」
「なにその反応。ひどくない?」
神村さんにとってはとっておきの情報だったらしく、東寺の素っ気ない態度に、割と本気で抗議の意を示す。
「だって、所詮はその子の妄想だろ? 根拠のない」
「う。まぁ……」
正論を言われ、神村さんはぐぅの音も出ない様子だった。
「それより、もっと面白い話があるんだよ、実は」
「……どんな?」
まだ完全には納得しきっていない雰囲気を醸し出しながらも、神村さんが東寺の振った話題に乗ってくる。
「なぁ、晃樹」
「……」
やはりか。面白い話というフレーズに嫌な予感を覚えたのだが、どうやらその予感は見事に的中したらしい。
「え? なになに?」
先程までの不満げな空気が嘘のように、神村さんが嬉々とした様子で僕と東寺の顔を交互に見やる。
「手紙が入ってたんだよ、下駄箱に」
「え? それって……」
「ラブレターだよな? 晃樹」
「まだ開けてないから、中身はまだ不明だ」
他人事だと思って状況を楽しむ悪友に、僕はぶっきらぼうにそう言い返す。
「えー。なんで? 早く開けようよ」
「その内、一人の時に確認するよ」
「中見たら教えてくれよな」
「なんでだよ」
「そりゃ、純粋に親友の恋路が気になるからに決まってるだろ」
「今のお前の顔のどこに純粋さがあるって言うんだ」
明らかに人の恋路を楽しもうとする不純さしか、東寺の顔には見受けられなかった。
「そうだよ。人のラブレターの事に、興味半分で首ツッコむなんて最低だよ」
「そういうお前も興味津々な顔してるけどな」
「やだなー。そんなわけ……」
はい。どう見ても似たもの夫婦です。本当にありがとうございました。
南校舎西側の一階、その奥の奥。そこには、いわゆる資料室と呼ばれる部屋がいくつも並んでおり、放課後は特に人気がない。
そんな場所に少女が一人立っていた。
絹のように長い黒髪、雪のような白い肌、制服から伸びるすらりと長い手足や不安になりそうな程細い腰らはまるでモデルのようで、見る者の視線を否応なしに奪う。
「……」
かくいう僕もその例に漏れず、思わず声を掛けるのも忘れてその姿に見入ってしまう。
高梨氷菓。
それが僕を呼びだした者の名前であり、あの手紙の差出人だった。
手紙の内容は至ってシンプルで、話がある事と放課後この場所で待つという事、そして差出人の名前だけが書かれていた。
一瞬イタズラの可能性も考えたが、記された字のあまりの綺麗さに、その考えはすぐに霧散した。そう思わせるほど、そこに書かれた文字は美しかった。
気配に気づいたのか、ふいに高梨さんの視線がこちらを向く。
「――!」
目が合い、僕の体はより一層固まる。
蛇に睨まれた蛙――とは違うが、状況は似たようなものだろう。呼吸すら自分の意思で上手く出来ない、そんな状態だった。
「お待ちしておりました」
満面の笑みで発せられたその言葉が、自身に向けられたものだと認識するまで数秒の時間を有した。
それも仕方がない事だと思う。
僕のような凡人に、高梨さん程の存在が満面の笑みを浮かべるなんて、天地が引っくり返るくらい有り得ない事で、今現在も何か裏があるのではないかと頭の中のCPUが絶賛高速回転中である。
「どうかしました?」
僕の不審極まりない言動に、高梨さんが不思議そうに小首を傾げる。
そんな仕草すら絵になるから困る。
「いや、あの、お待たせしました」
どうにかそれだけを絞り出すように言うと、僕は意を決して高梨さんの元へと近づいた。
「いえ、私も今来たところなので」
なんだこれは。これではまるで、初デートの待ち合わせ風景のようじゃないか。
自分の心臓の音がやけにうるさく聞こえる。その大きさは、高梨さんにまで聞こえてしまうのでないかと不安になる程だ。
普段通りの歩き方を意識しながら、なんとか高梨さんの元へとたどり着く。
「突然お呼びだてして申し訳ありません」
「いや、どうせ暇だったし」
嘘ではない。部活に所属してない僕にとって放課後は家に帰るためだけの時間だし、家に帰ったところで特にする事はない。それに、仮に予定があったところで、高梨さんの呼び出しより優先すべき予定など僕には存在するはずがない。
「海野晃樹さん」
「はい!」
高梨さんに名前を呼ばれ、僕は反射的に背筋を伸ばした。
「ずっと前から好きでした。私と付き合ってください」
まっすぐ僕の目を見て告げられたその言葉に嘘偽りは感じられず、それが冗談や悪ふざけの類とは僕にはどうしても思えなかった。
という事は、つまり――
「え?」
告白された? 誰が? 誰に? 僕が、高梨さんに? いやいや、そんなわけ……。いや、今しがた高梨さんの言葉を信じると決めたばかりじゃないか。だったら、僕が次に発すべき言葉はただ一つ――
「……こちらこそよろしくお願いします」
なんとか絞り出したその言葉は、どれだけひいき目に見ても決してスマートではなく、我ながらひどく格好の悪いものだった。
「――っ」
だと言うのに、高梨さんは僕の言葉に歓喜極まったように口元を押さえ、あまつさえその瞳に涙すら浮かべていた。
「嬉しいです。こんな嬉しい事他にはありません」
「……」
ここまで喜ばれると逆に不安になってくる。
どう考えても僕にそれだけの価値はない。なのに、なぜ……?
「ずっと、ずっと、この時を夢見てきました。あの時から」
「あの時?」
一体なんの事だ? 僕と彼女は昔どこかで会っていた? そんなはず……。これだけの美人だ。会っていたら、記憶に残らないはずが……。
「これからどうぞよろしくお願いします。お兄様」
「おにい、さま?」
聞き間違いか? なんかお兄様とかいう、この場にそぐわない言葉が聞こえたような気がしたのだが。
「お兄様?」
高梨さんが、心配そうに僕の顔を覗き込んでくる。
距離が近い。僕が不埒な感情を抱けばすぐにでもキス出来そうな、そんな距離だ。
肌綺麗。まつ毛長い。口小っさ。
「その、お兄様というのは……?」
思考の半分以上を高梨さんの顔の一つ一つのパーツに占拠される中、どうにかその疑問の言葉を絞り出す。
「やはり、お忘れになってるのですね」
そう言って、高梨さんが寂しげな笑みをその顔に浮かべる。
お忘れ? 忘れている? 僕が、何を?
「私とお兄様は実際の兄妹なのです」
「???」
パニックだった。改めて説明されても全く意味が分からない。
「隠し子とかそういう類の話?」
「いえ、そうではなく、前世の話です」
「おぅ……」
なるほど。そう来たか。つまり、彼女はいわゆる電波ちゃんという事か。
知らなかった。そんな素振り、今まで全然なかったのに……。
「大丈夫です」
「え?」
僕の思考をどう勘違いしたのか、高梨さんが僕の両手を自身の両手で包み込むように握り、慈愛に満ちた視線を向けてきた。
「焦らなくてもいつか思い出せます。なので、一緒にのんびり待ちしましょう、その時を」
「……」
なぜだろう。その言葉には不思議な説得力があり、妄想と一蹴出来ない何かが確かにそこにはあった。彼女の存在自体が浮世離れしているという事も、その一因にはあるのかもしれない。とにかく、僕は彼女の言葉を疑わなくなってきていた。
……とはいえ、疑わなくなってきただけで、信じ始めたわけではない。そこは似ているようで全然違う。亀とスッポンくらい違う。
「さて、名残惜しいですが、そろそろ帰りましょうか」
「え? あ、はい」
驚いた。今の流れで、即解散となるとは……。全く想定していなかった展開だ。
「おうちまで送ってきますね」
「いや、こういう場合、送っていくのは僕の方……」
「そうですか。では、お言葉に甘えて」
「……」
あまりにもあっさりとした手のひら返し。その様は、初めからそのつもりだったのではと疑ってしまう程だ。
「行きましょう、お兄様」
僕の横をするりとすり抜けると、高梨さんが振り返りざまにそう僕を呼ぶ。
「はい」
返事をし、僕は一歩を踏み出す。
彼女との恋人関係が始まる新たな一歩を。




