ねえどうして一人で戦うの
(誰か降りなきゃ、女の子が乗れない……)
その事実が、サッとエレベーター内に重く立ちこめるのを琴は感じた。
またしても女の子の顔が絶望に染まる。だが、彼女の丸い頭にポンと手をやりレイは女の子を乗せた。それから折川や刑事たちへ振り返る。
「僕は階段で避難します。後のことは頼みます」
「な……っ。神立さん、降りるなら自分が!」
新人と思しき刑事が言った。乗っていた刑事は「いや俺が!」と次々に声を上げる。
結乃は力を込めてレイの腕を掴んだ。
「そうよ、他の人が降りればいいわ……。神立さんは私と一緒にいて!!」
だが、また近くの階で爆発が起こり、皆が喉の奥で悲鳴を上げた。
「こうしている間にエレベーターも止まっちゃうッスよ?」
ただ一人この状況を楽しんでいる佐古が、下卑た笑いを浮かべた。しかし、レイと目が合うと蛇に睨まれた蛙のように黙らされる。
「残念ながら佐古の言う通りです。さあ、早く行ってください。下で会いましょう」
青い宝石のような双眸を柔らかく細め、他者を安心させるような微笑みを浮かべてレイが言う。そのまま廊下へと足を踏み出したレイの広い背中を見つめ
(ああ、やっぱり……)
と琴は思った。
シャンデリアが落下してきた時もそうだ。レイは自分一人で全てを背負おうとする。他者の為なら、自分の危険を顧みない。
(私や皆を守るためならレイくんは自分を平気で犠牲にする)
付き合う前なら、きっとそれでもレイは良かったのだろう。琴や民間人さえ守れれば、自分が死んでも怖くないと思っていたに違いない。
しかし琴と付き合い始めて、琴の将来を考える場面に立たされた時、きっとレイは隣に自分が立つ未来を想像し――――無茶をしないと約束できない自分では、琴の隣にふさわしくないと思ったに違いない。
(きっと、誰かを守っていつ死ぬともしれない自分では私を不幸にするって思って……)
「そうやって、自らの危険を顧みずにただ真っ直ぐ進むなら……」
閉じていく扉。見えなくなっていくレイ。ふと、彼が振り返り、瞳を揺らす琴の姿を焼きつけるように見つめた。琴は目が合った瞬間、レイの薄い整った唇が「ごめんね」と言葉を形作った気がした。
(そんなの……)
「レイくんのバカ! いつでも死ねる覚悟を決めた人を、残していけるわけないでしょ!」
今にも完全に閉じようとした扉をこじ開け、琴は怒鳴った。驚くレイの腕を掴み、渾身の力を込めて、ハンマーでも振りまわすように身をねじり、レイをエレベーターへと引っ張りこむ。その代わり、自分が外に出た。
「琴!?」
名を呼ばれ、心に幸福感が沁み渡っていく。結乃が驚愕に目を見開くのが見えたが、琴は構ってられないと思った。
「私が階段で逃げます! 誰か! ドアを閉めて下さい!」
「冗談じゃない! どうして琴が!」
レイは憤激して言った。エレベーターのボタンの前に立っていた刑事が困惑したようにレイと琴を交互に見つめる。
「戻れ、琴! 俺が残る! もし君に何かあったら俺は……」
レイがここまで感情をあらわにしたのを初めて見た結乃は、互いの名前を呼び合う琴とレイを指差した。
「え……? 神立さんの恋人ってまさか……」
「大丈夫だよ、レイくん。私は死なない。生きることを諦めたことなんてないんだから」
「……っ琴! 頼むから言うことを聞いて戻ってくれ……」
今にも泣きそうな顔でレイが乞う。琴は折川へ扉を閉めるよう頼んだが、「民間人を一人残して行くわけにはいかない」と断られた。
だが、突如レイは結乃によってエレベーターの奥へと引っ張りこまれ――――代わりに琴は扉の外へ突き飛ばされた。
「ありがとう琴ちゃん。さようなら!」
突き放すように、結乃が叫んで扉を閉める。レイが慌ててドアに寄ったが、結乃は完全に扉が閉まるまで通せん坊をした。レイの蒼い瞳に映っていた琴は扉によって閉ざされた。
レイに押し寄せる恐怖。そして怒り。矛先は当然結乃に向き、レイはらしくもなく結乃の肩を乱暴に掴んだ。
「何をする! 琴が……!!」
「それはこっちの台詞よ! どういうことなの、神立さん! 琴ちゃんと付き合ってたんですか!? 私に黙ってるなんて……! あの子もあの子よ! 最低!」
「…………っ」
こんな命の危機にさらされた、切羽詰まったタイミングで言うことか。結乃の頭には花でも咲いているのか。
レイは思いつく限りの罵詈雑言を結乃にぶつけたい気持ちになりながら、無常にも進むエレベーターの階数表示を見つめた。琴が降りた階に近い二十階のボタンを殴るように押す。
「今は僕が琴と付き合っているかどうかなんて関係ないし、そうだとしても、黙っているように仕向けたのは僕で琴は何も悪くない。貴女を落下するシャンデリアから守った琴によくもこんな……」
「あの子が自分で神立さんの代わりになるって言ったんだもの! 琴ちゃんの意思を尊重したまでです! ねえ、放っておきましょう!? あんな子……あんな私よりも劣った平凡な子が神立さんの彼女なんて、信じられない……。きっと心の中で私のことを馬鹿にしてたのよ。ひどいわ……」
「いい加減に……っ」
「ひどいわ、か」
青筋を浮かべるレイの肩に手を置き、折川が結乃を見下ろした。
「恋人がいると分かっている人間に近寄って、横恋慕をする君はひどくないのかね?」
「それは……」
言い淀む結乃へ、折川は無表情で畳みかける。
「爆発するホテルの中、愛する人を守るため危険を顧みず身代りになってエレベーターから降りた勇気のある宮前琴が、君より劣っているとは思わないが。――――もちろん、危険な自殺行為だ。大義を掲げる我々の前では二度としないでほしい愚行だ。けれど、愛する者を守ろうとするその心は、とても気高く清らかで、神立刑事が惚れるのも無理はないだろうと思う」
レイは固く拳を握る。エレベーターが二十階につき、扉が開いた。
「いや! 神立さん、いかないで!」
結乃が縋ったが、レイはその手を冷たく払った。
「申し訳ありませんが、僕が結乃さんを好きになることは一生ありません。僕の愛する人は、今までもこの先も、琴以外にはいませんから」
「……っ言うこと聞いてくれないならお父様に言うわ! 出世の道が閉ざされてもいいの!?」
「どうぞご自由に。ですが、貴女はいい加減、自分自身の中身が空っぽだと気付くべきだ」
痛烈に言い残し、レイはエレベーターから人気のない廊下へと出ていった。
「……っ」
これまでの人生で好きな人に初めて邪険にされた結乃は、エレベーターの中魂が抜けたように座りこんだ。




