わずかな平穏を抱きしめる
レイも出かけると聞いていたため、マンションに公安の車を横付けされては、レイと鉢合わせするかもしれない。
そう危惧し、琴は最寄りの駅でレイに今から家に帰るとメールを送った。本当は電話したかったが、今声を聞くとレイに弱音を吐いてしまいそうだ。
だというのに、レイからすぐに「迎えにいく」と返信がきた。
一応、公安の車でカーテンを引き普段着に着替え終えてはいたし、ドレスなどの荷物は折川に預かってもらったため、朝家を出た時と同じ格好をしてはいる。が、束ねた髪を下ろしたせいで、ふわふわした髪が波打っているのが気になり、琴はレイが駅に到着するまでの間、コンパクトと睨めっこしながら栗色の髪を撫でつけた。
十分もせぬ間に、レイは迎えにきた。金髪碧眼に、十人が十人美形という容姿のせいか、駅がざわついたのですぐにレイが到着したと分かった琴は彼に駆けよる。
レイの姿を見ると、現実に戻ったようで肩の力が抜けた。
「レイくん、もう家に帰ってたんだね。サクちゃんと飲むなら、遅くなるのかと思ってた。あ、寒いのにお迎えありがとう」
「野郎と長々飲む趣味はないよ。琴こそ、寒くない? ごめんね、酒を飲んだから車で来られなくて……」
「家まで近いから平気だよ」
レイを待っている間に冷えた手を取られ、レイのコートのポケットに引っ張りこまれる。レイの温もりに触れた瞬間、安心感から泣き出したくなった。
「琴?」
「うん?」
「どうしたの? 手、震えてる」
思わず、レイのポケットから手を引っ込めそうになった。外は頬が切れそうなくらいの寒さだ。そのせいにしてしまえばよかったのに、咄嗟には嘘をつけず、琴は取り乱してしまった。緊張の糸が切れたせいで急に震えだしたなんて、レイには言えない。
「あ、えっと……」
視線を彷徨わせてから、琴は一度固く目をつむった。それから、レイのコートの裾を掴む。
「――――……レイくん、私の目見て」
「どうしたんだい? いつもと逆だね」
不意をつかれた様子でレイが言った。
「ダメ?」
「まさか。琴の瞳を見ると、安心するから願ったり叶ったりだよ」
レイが疲れた時や元気のない時に琴の目を見ると落ち着く意味が、今の琴はよく分かる気がした。正しいことをしているはずなのに迷いがある時、相手の澄んだ瞳の向こうにしっかりと自分が映っていれば、安心する。
レイに何も相談できない分、琴はレイの瞳を見て安心を得たかった。深海を閉じ込めたような蒼い宝石が琴を見つめる。その色を見ていると、琴は動揺から波立っていた心が凪いでいく気がした。
「……ん、ありがと」
「もういいの?」
「うん」
「そう。じゃあ、今度は僕のお願いを聞いてくれる?」
「レイくんがお願いなんて珍しいね」
目を見せて、とはたまに言われるが、それ以外にレイが何かをねだることは稀だ。いつも琴を優先し、自分のことは二の次の彼だから、たまのお願いは何でも聞いてあげたくなる。琴がレイのおねだりを待っていると、レイは蕾が綻ぶように優しく笑って言った。
「今夜は冷えるから、一緒のベッドで寝てほしいな」
「……そんなの、お願いって言わない」
むしろこっちがお願いしたいくらいだ。琴はレイの胸元にボスッと頭を埋めながらそう思った。
レイと話したことでいくらか落ち着いた琴は、気付かなかった。琴の手を繋いだレイが、琴を引き寄せた瞬間に、コートの袖から覗いた痣に気付いたことを。そしてそっと、目を伏せたことを。
気付かなかった。気付けなかった。
「ん……」
二月に入ってからというもの、寒さで目を覚ますことが多かった琴は、久しぶりにぬくぬくと目が覚めた。無意識にベッドの隣へ手を伸ばす。寝る前まで埋まっていたその場所は生温かいものの、もぬけの殻だ。
そのことに寂しさを覚えて起き上がれば、なるほど温かいはずだ。レイの部屋は暖房がかかっていた。
「起きた?」
一人で寝るには大きいベッドの上で、声のした方を向く。するとクローゼットの前でレイが着替えている最中だった。今まさにシャツを羽織ろうとしている彼を、寝起きのとろけた目で見つめる。完全に覚醒していない琴に苦笑を零し、レイがベッドに片膝をついた。
「今日の朝食は琴の好きなエッグベネディクトだよ」
「え……っ」
途端に目を輝かせた琴は、同時に視界いっぱいに広がるレイの厚い胸板をマジマジと見てしまった。浮き出た鎖骨に、さすが現職の刑事と言わんばかりに割れた腹筋、そして広い肩口。
朝から見るには刺激の強いそれに、琴は目眩を起こしそうになる。しかしレイの肩に走った傷を見て、琴は血相を変えた。
「……この傷……!」
「ん? ああ……」
レイはしくじったような顔をしてさっとシャツを羽織り、手早くボタンを留めた。だが琴は今見た物を気のせいで済まさなかった。
「今の傷、桐沢警視長の事件のホテルで……私を庇った時にできた傷だよね……?」
確信に満ちた声で琴は言った。間違いない、あれは結乃の姉の婚約披露パーティーで、佐古が撃ち落としたシャンデリアの下敷きになりそうだった琴を庇った際にできた傷だ。
「そうだったかな?」
それでもシラを切るレイに、琴はベッドシーツを握りしめた。部屋は温かいのに、頭のてっぺんから冷や水をかけられたように心は冷えこむ。
(そうだ。もし私がここで作業玉をやめたら……何か事件が起きた時、真っ先に危険にさらされるのは、レイくんたち警察官だ)
もしできることから目をそむけ、レイが怪我をする結果になったら?
きっと後悔するに違いない。怖気づいている場合ではないと琴は思った。
絶妙なタイミングで携帯が鳴る。琴は画面を確認すると、レイに一言断り、冷えこんだ廊下に出た。
「おはようございます、神立次長……」
電話口の神立次長へ声をかける。機械越しの彼は、愉快そうな声で言った。
『やあ、君にどうしても感謝を述べたくてね。これで完ぺきに蒼羽と『暁の徒』が繋がった。お手柄だよ、宮前くん。君が証拠品として小机からくすねてきた少量の覚醒剤も、リバイブだと確証を得た』
「貴方の読み通りだったんですね」
『ああ。さて、これからの君の動きだが――――もしこのまま作業玉を続ける気があるなら、蒼羽と接触を続けてほしい。君と急に連絡が取れなくなれば、蒼羽は不審に思い、君が公安の協力者だと疑い出すだろう。そうなれば警戒が強くなり、蒼羽と『暁の徒』との接触を掴むことが難しくなる。――――ああもちろん、無理強いはしないがね』
その口ぶりから、琴は神立次長が折川から昨晩の琴の様子について報告を受けたに違いないと察した。
「大丈夫です。作業玉は続けます」
『……いいのかね? ああ、それとも、私との取引は君にとってそれほど魅力的かい?』
「それもあります。……でも一番は、守りたい人がいるので」
(私を、国を、国民を守ろうとするレイくんを、起こりうる危険から守りたい)
琴が固い声で言うと、神立次長は『そうか』と抑揚のない声で言った。
『ならばこのまま続行してもらおう。我々としては当初予定していた通り、蒼羽をこちら側に抱きこみたい。蒼羽をS……スパイにし、『暁の徒』と接触する機会を設けさせ、覚醒剤の売買を理由に団体を摘発する。蒼羽にとってもそこまで悪い話ではないはずだ。覚醒剤の売人だと証拠を我々が掴んだ今、蒼羽はいずれ捕まる。それよりはスパイとしてこちらに協力した方が、蒼羽の罪は軽くなる』
蒼羽の罪が軽くなるという言葉に、琴の気持ちが持ち上がった。蒼羽は悪人だが、そう思ってはいても、琴は彼を救ってやりたいという気持ちも強かったからだ。
自分は蒼羽と付き合う気はない。だからせめて、レイによく似た孤独を背負う彼に、更生のチャンスを与えたいと琴は思った。
「じゃ、じゃあ私は、蒼羽さんにスパイになるよう持ちかければいいんですか?」
『ああ。タイミングはこちらで指示しよう。そのために、今しばらく蒼羽と接触し、彼の信頼を得てくれたまえ』
通話を切ったところで、琴は廊下にしゃがみこんだ。フローリングの冷たさが、足の裏の感覚を奪っていることも気にならない。言ってしまった、その思いが琴の脳内を巡っていた。覚悟を決めてしまった。もう引き返せない、と。
「あ、メール……」
差出人は、ホテルで目を覚ました蒼羽だった。昨日のことは他言無用であること、それから次に会う日が書かれたメール内容にざっと目を通し、了承の返事を送る。
蒼羽の危険な一面を見てしまったせいもあり、怖くてあまり会いたくはない。が、それでは任務を果たせないので、琴は腹を括った。
「琴、電話は終わった?」
着替え終えたレイが部屋から顔を出したので、琴は慌てて携帯の電源を落とした。
「う、ん。あ、レイくん、あの、来週の土曜日、私お出かけになっちゃった」
そう告げた途端、レイのアイスブルーの瞳が一瞬引きつった。
「そう……。また紗奈ちゃんとお出かけかな?」
「う、うん」
「そう。その日は、僕も蘭世さんに会ってくるよ」
「あ……」
そうだ。蒼羽以外にも、乗り越えねばならぬ困難な問題はある。目を伏せた琴を、心配しないでとレイは優しく撫でた。




