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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第三章
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揺れる天秤に恋心をひとつ

「……とり、ひき……?」


 神立次長からの提案を、琴はオウム返しした。縁談を断るリスクを叩きつけられてからの提案に、琴の心は揺さぶられる。


 琴の天秤が左右にふれているのが手に取るように分かるのだろう。もしくは計算づくの提案か。神立次長はことさら優しく言った。


「ああ。作業玉になってほしい。もし君が作業玉になってくれるなら、レイと蘭世嬢との縁談を破談にするよう、できる限り取り計らおう」


「作業玉……って……何ですか?」


「公安警察が国家体制を脅かす事件を防ぐ組織だとは知っているね? 作業玉とは、その公安捜査官の思い通りに行動してくれる協力者のことだよ」


「公安警察の捜査に協力しろっておっしゃるんですか……?」


 一般人の自分が?


 琴はぎょっとして、ついのけ反った。ストン、と座布団に座り直した琴を見て、神立次長はおかしそうに喉で笑いを転がす。


「その顔、懐かしいね。妻に『作業玉になってくれ』と頼んだ時と今の君は同じ顔をしているよ」


「……っレイくんのお母さんは公安の作業玉だったんですか!?」


 初めて聞く真実に、琴は目をむいた。神立次長は、記憶に想いを馳せるように遠くを見つめて言った。


「私と結婚する前はね。当時私が捜査官として潜入捜査をしていた頃、潜入先のカルト団体の教祖に見初められ言い寄られていたのがレイの母親のエリーだった。それが縁で、私はエリーと知り合ったんだよ。彼女は非常に優秀な協力者だった」


 そう語る神立次長の瞳に、琴は初めて人間らしい温かみが灯ったように見えた。再び彼が前を向いた時には、ポーカーフェイスに戻っていたが。


(……この人、もしかして……)


「……お母さんが作業玉だったと、レイくんは知っているんですか?」


「話したことはないね」


「レイくんに、お母さんについて、嘘しか話したことはないんですか……?」


 琴は押し殺した声で言った。テーブルの向こうから、冷たい視線が刺さった。


「作業玉についてだが」


 神立次長は指を組み、琴の質問には答えず話を戻した。


「どうだろうか。悪い話ではないだろう。やってみる気はないかね」


「……もし頷けば、何をさせられるんですか?」


 秘密主義の公安が扱う話を聞いてしまえば、断りづらくなるに決まっている。それを理解しつつも、琴は好奇心を殺せず尋ねてしまった。神立次長は仕立てのよいダブルスーツの懐から、一枚の写真を取りだして言った。


「この写真の男に接触して、ある情報を得てほしい」


 琴は神立次長に目配せしてから、その写真を受けとって見た。写真は隠し撮りのようで、黒いスーツ姿の男に囲まれた中心に、目線の合っていない強面の男が映っていた。


(男前だ……)


 くしゃくしゃした暗い灰色の髪に、襟足にはエクステだろうか、羽がついている。大きく肌蹴た首元にはタトゥーが刻まれており、琴は一発で写真の人物が堅気の人間でないと分かった。高いわし鼻に、深いアイホールの奥には吊り上がった目。口角は片側だけ歪められ皮肉っぽい笑みをかたどっている。


 三十代前半だろうか。写真に映る男は、毒のように危険な魅力に溢れていた。


「この人は……?」


蒼羽真そうばまこと――――我々が追っている犯罪組織に辿りつく、鍵となるかもしれない男だよ」


 訝しそうな顔をする琴へ、神立次長は愉快そうに言った。


「君は桐沢警視長の妻を殺害した犯人である佐古が、反警察団体と手を組んでいたことを、覚えているかな」


 忘れたくても忘れようがない。ウェイターとして潜りこんだその組織の末端の手により、琴はホテルの爆破テロに巻きこまれたのだから。


「その団体は『暁のあかつきのと』と名乗っていてね、危険な思想を持ち、事件やデモを起こしていたため公安がマークしていた……が、幹部の尻尾がなかなか掴めず煩わされていてね……レイが佐古を追う過程でその団体の存在に辿りついたのは幸運だった」


 そういえば、折川がずっと追っている存在だとホテルで言っていたな、と琴は思い出した。あの鉄面皮の折川がレイに深く感謝していたのは、探していた団体の手がかりが掴めたからか。


「だが、逮捕した佐古をしぼっても、幹部に繋がる情報は何も出てこなかった。当然と言えば当然だ。佐古は団体の末端から覚醒剤を買っていた客に過ぎず、あの爆破テロも利用されたに過ぎない。そしてウェイターにいたっては口を割らず獄中で自殺してしまった」


「……っ」


 琴は口元を押さえた。ウェイターの顔をしっかり覚えていたからだ。知った人物がもうこの世にいない事実をつきつけられ、琴は小さく震えた。


「お陰で捜査は振り出しに戻ったように見えた……が、手掛かりが一つ残っていた。佐古が団体から買っていた覚醒剤だ」


 佐古が覚醒剤ほしさに桐沢警視長夫人から金を巻き上げていたこと、覚醒剤を使用していることを秘密にするため彼女を手にかけたことを思い出し、琴は複雑な気持ちになった。


「佐古が使用していた覚醒剤は通称『リバイブ』といって、最近流通しはじめたものだ」


「え……っ」


 リバイブという単語に反応し、琴は目を見開いた。それはつい先日、ファンタジーランドで遭遇したひったくり犯の口から出た覚醒剤の名前だったからだ。


「リバイブは注射痕に花弁のような形が残るのが特徴でもある。……覚醒剤や麻薬の流通ルートは複雑でね、海外のマフィアから大量に買いつける大卸おおおろし、百グラム単位の覚醒剤を末端の売人に卸売する中卸なかおろし、そして佐古に売りつけたような末端の売人がいるが、流通の全体像をとらえることは非常に難しい……が」


 神立次長は、琴の手から蒼羽の映った写真を抜き取り、トン、とテーブルに置き直した。


「リバイブはそうそう手に入る代物ではない。そして先日逮捕したリバイブ使用者が、蒼羽の店で密売人からリバイブを買ったと証言した。この意味は分かるかな?」


 先日逮捕したリバイブ使用者とは、レイがファンタジーランドで捕まえたひったくり犯に違いない。琴は何となく声をひそめて言った。


「じゃあ……この蒼羽って人が、反警察団体のメンバーの一人だとおっしゃるんですか……?」


「いや、蒼羽は犀星会さいせいかいの幹部の一人だ。その可能性は低い」


「犀星会って……あの暴力団の……!?」


 琴は肝を冷やした。写真の男が堅気でないと予想はついていたが、世間を騒がすような暴力団の組員だったとは。


 顔色を悪くする琴に構わず、神立次長は続けた。


「可能性があるとすれば、蒼羽が中卸としてリバイブを『暁の徒』に売りつけているということ――――蒼羽は売人と客として、かの団体と絡んでいる可能性がある」


 反警察団体と、暴力団。蒼羽がどちら側の人間でも、琴には画面の向こうの人のように感じられた。口頭で説明を受けても、現実味がない。が、もし組員でありつつ、公安のマークしている団体とも関わりがあるとしたら――――……。


(限りなく危険な人物なんじゃ……)


「もちろん、蒼羽の店に来ていた客がリバイブを他の客に売っただけで、蒼羽は無関係という可能性もある。だから君には――――」


 トントン、と神立次長は蒼羽の写真を指で叩いた。


「蒼羽と接触し、奴がリバイブと、そして反警察団体と関わりがあるかどうかを探ってほしい」


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