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彼が私をダメにします。  作者: 十帖
第三章
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君の前に立ちふさがる意志

(釣書……っ!?)


 またしても、琴は忍んでいることを忘れ、声を上げそうになった。釣書というのはあれのことか。見合いをする際お互いに取り交わす自己紹介を載せた書面のことか……。


(……っまさかレイくんのお父さん、レイくんにお見合いをしろって言ってるの……!?)


 混乱する琴に追い打ちをかけるように、神立次長の声がした。


三乃森みつのもり議員の次女がお前に一目ぼれをしたらしい。ぜひ結婚を前提に交際したいと思っておいでだ。三乃森議員直々に縁談を持ちかけられ、私に釣書を送ってこられた」


「三乃森議員って……あの衆議院議員のですか!? 以前財務大臣も務めていた……?」


 初めてレイの焦った声がした。それもそのはずだ。三乃森議員といえばテレビの国会中継でよく見る衆議院議員であり、琴もよく知っている超大物だ。


(どういうこと……縁談って……政治家の娘とレイくんが……? 何で……?)


 突然の事態に頭が追いつかない。しかし嫌な予感で琴の心臓は早鐘を打っていた。


 怪訝そうなレイの声が言った。


「解せませんね……。一目ぼれ? 代議士の御令嬢と知り合いになった記憶はありませんが……」


「先日、テーマパークでひったくりを捕まえただろう。すられた被害者が三乃森議員の御令嬢である蘭世らんぜさんだったそうだ」


 琴は先日のひったくりの被害者である可愛らしい女性を思い出した。


 あの鈴蘭のような女性は、そういえばレイに熱い視線を送っていた。その理由はひったくりを捕まえてくれたレイに一目ぼれしたからだったのかと、琴は合点がいった。


(でも、そんな……)


 絶句する琴。神立次長はここにきてからずっと変わらぬ調子で話を続ける。


「蘭世嬢はお前に熱を上げているそうでね、すぐにお父上の権力を駆使してお前が警視庁捜査一課の警部補、神立レイであると調べさせたそうだ。そして、私の息子であると」


「そんな無駄なことを……」


「恋に燃えて何もかもを巻きこもうとするなど、可愛らしいじゃないか。写真を拝見したが、なかなかの美人でもある。彼女はたしか二十三。年齢差的にもお前とピッタリだ」


「……っ縁談はお受けいたしかねます」


 レイは困惑のこもった声で突っぱねた。ここで初めて、神立次長の声に奇怪そうな色が滲んだ。


「お前には到底手の届かない天上人から見合いを持ちかけられているんだ。断る理由がどこにある?」


「断る理由しかありません。僕には真剣に付き合っている相手がいます」


 琴は小さく息を飲んだ。心臓が嫌な脈の打ち方をしていたが、レイがはっきりと断ってくれたことに喜びを感じ、全身に酸素が行き渡った心地がする。


「付き合っている相手……?」


 何とか息がつけそうだと琴は気を緩めたが、しかし神立次長はレイの言葉を聞いても特に感情を乱さなかった。まるで当初の予定に寸分の狂いも発生しないと言わんばかりの彼の様子に、再び琴の中で不安が首をもたげる。


「ああ、宮前琴のことか。愛らしい子だったな。桐沢警視長や折川くんの話を聞いた限りでは勇ましい子を想像していたが、随分と可憐で平凡で、弱弱しい子だった」


 神立次長の口から己の名前が出てきたことに、琴は強張る。レイは不快そうに言った。


「……琴のことまで調べたんですか。そしてその上で僕に見合いをもちかけるとは、貴方の神経がいよいよ理解できませんね」


「理解できないのはお前の方だよ、レイ。力がありながらそれを生かしきらずノンキャリアでおさまり出世の先が見えているお前に、代議士の娘が惚れこんでいる。そしてひったくり事件の動画の影響で、世間やネットでのお前は今ヒーローだ。それが追い風になり、三乃森議員もただの刑事に過ぎないお前に大事な娘の一人を託してもいいと仰っている。これがどんなチャンスかお前は分かっていない」


「僕は出世には興味がありません」


「出世に興味がなくとも、警察官ではいたいのだろう?」


 ナイフのように鋭く、神立次長が切りこんだ。琴は今の言葉が、レイの心に深い杭を打ったとよく分かった。レイは黙りこんだ。


「よく考えろ。お前に向上心がなくとも、脳みそがないわけではないだろう。三乃森議員の縁談を断ればどうなるか。……お前の刑事生命は断たれるぞ」


 布ずれの音がし、神立次長が立ち上がった気配がした。こちらへ向かってくるのを察し、琴は急いで扉から離れた。


「そうそう。三乃森議員は元々警察庁に勤めていてね。警察庁時代は私の上司でもあった。くれぐれも私の顔に泥を塗るような真似はしないでくれたまえ」


「貴方が……っ恥をかこうが知ったことじゃない。貴方は俺を欺き、母を貶めた! それを忘れたわけじゃないでしょう。ノンキャリアで警察に入庁したのは、俺には俺の人の守り方があると考えたからです。キャリアとして入庁し出世のために家庭を顧みず、病気の母を放っておくような……あまつさえ母が俺を捨てたと嘘をついた貴方のような冷酷な人間にはなりたくなかった」


 レイの言葉に、神立次長は何も返さなかった。リビングの扉が開く。自室のドアの前で突っ立っている琴と目が合った神立次長は、やはり感情の乗らぬ目元を和らげて言った。


「そろそろお暇するよ。お茶をありがとう、宮前くん」


「い、え……お気をつけてお帰りください……」


 盗み聞きをしていたと、絶対にばれていると琴は瞬時に察した。玄関に続く長い廊下を神立次長が通り抜ける際、琴は端に寄って頭を下げる。旋毛に一瞬、彼の冷たい視線が刺さった気がした。


「レイ。くれぐれも浅慮は控えろ」


 最後に一つ釘をさし、神立次長は家を後にした。玄関の扉が閉まった瞬間、琴はがんじがらめにされていた鎖から解放されたような気がした。知らず知らずのうちに、彼が放つ威圧感に絡め取られていたらしい。


 詰めていた息を吐き出し、玄関の鍵を閉めて向き直る。と、レイが目の前に立っていた。


「レイくん……あの……」


「さっきの話、聞こえてたよね」


 つい視線を泳がせてしまえば、それが肯定を示すものだとレイは察したらしい。琴は何と言えばよいか分からず、つま先を見つめた。


(お父さんと話して大丈夫だった? お見合いするの? ひったくり被害に遭った人が三乃森議員の娘さんだったなんてビックリ。綺麗な人だったよね、縁談……オーケーするの……?)


 突然沢山のことを知らされて、考えがまとまらない。言いたいことや聞きたいことは山ほどあるが、こんな混乱した気持ちのまま吐き出してよいものか分からなかった。


 琴が思案していると、ふと優しく肩に手を置かれた。


「驚かせてごめんね。でも心配しないで。ちゃんと縁談は断るよ」


 海のように透き通った蒼い瞳でレイは言った。琴は動揺のままに瞳を揺らした。


「で、も……断るなんてできるの? 相手は代議士の娘さんなんでしょう……?」


 断ってしまえば、レイの刑事生命が終わるかもしれないと神立次長は脅していた。それはつまり……。そこまで想像して、琴は小さな拳をギュッと握った。レイは目の端にその動作を捉える。


「断ったら……三乃森議員の機嫌を損ねない……?」


「損ねるだろうね。だから見合い相手に一度も会わずに反故にはできないと思う」


「……っ」


 握った拳にますます力がこもり、手のひらに爪が食いこむ。しかしその手はレイに掬いあげられ、一本一本ゆっくりと開かされた。そのまま、互いの指を絡めて握りこまれる。


「でも必ず断る。折を見て、諦めてもらうように訴える。だって、僕が好きなのは琴なんだから」


「――――……」


「琴は? 信じてくれる?」


 レイに真摯な瞳で射抜かれ、琴は一拍の間詰まった。しかし、絡めた指に力をこめ、レイがいつも好きだと言ってくれる曇りのない瞳で彼を見つめ返す。


「信じるよ……いつも信じてる」


 正直に言うと、不安がすごい速さで蜘蛛の巣のように張られていくのを感じる。それでも、信じようと思った。レイはいつだって呼べば助けてくれたし、応えてくれた。琴はそんなレイを信頼している。彼が断ると言ってくれているのだから、絶対に断ってくれるはずだ。


「だから……信じてるから……他の人のものになったりしないで……」


 琴の訴えにレイは瞠目した。あの控えめな琴が、はっきりレイに対し執着を見せたからだ。それはレイにとって何より心地よい束縛だった。


「……しないよ。僕は琴のものだ」


「わっ!?」


 ぺたんこの後頭部をレイに引き寄せられ、琴は彼の逞しい腕に抱きしめられる。広い胸に抱きこまれると、レイの匂いに包まれて心が凪いでいく。琴は甘えるようにレイのスーツへ頬を擦りよせた。


(ここは、私の居場所だもん……)


 片想いで不安になっていた頃や、自信がなくて結乃に嫉妬し何もできずにいた頃とは違う。レイの腕の中は自分の在るべき場所だと、以前より強くなった琴はしっかり感じることができた。


「……さて、ご飯を食べようか。僕が作るよ。何が食べたい?」


 ややあってから、名残惜しそうに離れたレイが言った。キッチンへ向かおうとしたレイの袖を、琴は引っ張って止める。


「琴?」


「待って。あの……レイくんは? 大丈夫?」


「え?」


「レイくん、お父さんと仲、あんまりよくないみたいだったから心配で……」


 長いまつ毛に縁どられた瞳を僅かに揺らしたレイに、琴は微笑みかける。


「私に話して楽になることがあったら、言ってね。……レイくん?」


 ポス、とレイの額が琴の肩口に埋まる。泡を食う琴に、レイは小さく「琴はすごいな」と言った。


「薬みたいだ。僕にだけ効く」


 大丈夫だよ、と笑ったレイに琴は再び、自分は彼に何をしてあげられるだろうかと思った。



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