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陽の色が変わり始める夕刻。
ハリアンのギルドは仕事を終えて帰還した冒険者でごった返していた。
皆が一日の成果に一喜一憂し、思い思いに言葉を交わしていた。
互いの無事を称え合う者や悲痛な顔で嗚咽する者など、各々が浮かべている表情は多岐に渡る。
成功も失敗も自己責任である冒険者たちにとってその光景はありふれた日常の一コマでしかない。
「今日もお疲れ様でした、アラン様。相変わらず見事な成果ですね」
依頼完了の手続きを済ませた受付嬢が判を押す。
褒める言葉とは裏腹に受付嬢であるアオイの顔は無表情そのものだが、これはいつものことなので気にする者はいない。彼女の無表情ぶりは長く冒険者をやっていれば誰もが慣れることだ。
四等級冒険者であるアラン=クローズも当然知っている。
「いえ、まだまだです。上を目指すには……まだ足りない」
アオイのそれが社交辞令の褒め言葉でないことを知りつつも、アランは首を横に振った。
四等級という立場は決して容易に至れるものではない。
だがそれ以上を目指そうとしている彼にとっては、現状への褒め言葉などいくら言われても響かなかった。アランは他者からの評価よりも、己の目標を達成することを重んじんているが故に。
「そうですね。三等級になるには目立つ成果がありません」
「……ははは、手厳しいな」
容赦のないアオイの評に苦笑いをしつつも、包み隠さず言ってくれる彼女の存在はありがたくもあった。
冒険者にとって一つ目の壁が七等級だ。
全体の半分は七等級以下であることを思えば、登録した人数と比べて一人前と呼ばれる冒険者の数が少ないことがよく分かる。ここを越えられるかどうかが今後の冒険者人生に大きな分かれ目になると言っても過言ではない。
そして二つ目の壁が今、アランたちの前に立ち塞がっている三等級であった。
決して六、五、四が容易な訳ではない。入念な準備と弛まぬ努力、時に大きな危険を切り抜けることを要求される。中には才覚一つでそれらを乗り越えられる者もいるのだが、それは例外だ。
それを踏まえた上でも、四等級と三等級の間には大きな差がある。
持ち前の要領の良さで上がってきた者、ただひたすらに努力を重ねてきた者、才覚だけで飛び越えてきた者……彼ら全てを跳ね返すのが三等級という壁だ。
この壁を乗り越えるには覚悟がいる。
自身の命を危険に晒す覚悟……ではない。そんなものは冒険者になった時点で持っていて然るべきものであり、今更改めて自問するようでは話にならない。
必要なのは求めることだ。
危険を求め、刺激を求め、自らの意思でそれらに向かって歩いていく。
身の程知らずの蛮勇ではなく、自身の力量を弁えた上であえて危険を踏み抜く……その覚悟が必要だ。
「分かっては……いるんですけどね」
アランは忸怩たる思いを抱えながら俯いた。燃えるような赤髪が下火になる。
目にはどこか荒んだ色が見え隠れし、自身の現状を嘆きつつもどうにもできない現実に苛立ちが浮かんでいる。
厄介なのが知識としてそれを知っていても何の意味もないこと。
そうあろうと心がけても、命の危機を前にすれば生物としての本能が待ったを掛けてしまうのが人間というもの。
本来持つはずの本能を克服し、一歩先へ踏み出せる者こそが至れる境地―――即ち人外の域である。
実力を持った上で踏み出した彼らこそ危険を冒す者……真の冒険者と呼ぶに相応しい存在と口にする者すらいる。
「……」
アオイが無言で思い悩んでいる様子のアランを見る。
ただの受付嬢である彼女に掛ける言葉などありはしない。気休めを口にして辿り着けるような容易い存在ではないと、彼女はこれまでの経験でよく知っていた。
有力な冒険者だけに邪険にもできないのでどうしたものかと視線を彷徨わせていると、一人の冒険者が彼に声を掛ける。
「ああ、いいところに居た。ええっと……アラン=クローズだったね?」
「はい?」
振り返ったアランが目にしたのは白い剣客。
独特の民族衣装を着こなし一振りの刀を佩いた妙齢の佳人。
イサナ=ゲイホーン。
ハリアンギルドに所属している冒険者で名を聞いたことがない者はいないほどの有名人だ。
白髪に褐色という特異な外見よりも彼女を印象付けているのはその実力に他ならない。
アランも剣の腕には相応の自負があるが、その彼をしても剣を合わせる前から勝てないと理解させられるほどの実力者。たおやかながらも立ち居振る舞いに一切の隙を見いだせず、音もなく間合いに入ってくる足捌きにはこの辺りの剣士とは技術体系の違うものが感じられる。
イサナは片眉を上げると、翠眼でアランの足回りから肩を観察する。
「……へぇ、少しは腕を上げたみたいね。口だけじゃないみたいで結構」
「イサナさん! お久しぶりです、その節はどうも」
アランは冒険者の先達へ敬意をこめて頭を下げる。
以前彼女と会った際、軽い助言を頂いたことがあった。二等級という高みにある彼女の言葉は重く、また型は違えど同じ剣を主として戦う冒険者としても強い憧れを抱いていた。
「大したことじゃないよ。私がどれだけ助言しても結局、最後は自分自身でどうにかするしかないからね」
満更でもなさそうな顔でイサナが耳を上下させる。
彼女もあまり社交的な方ではないが、純粋に敬意を持って接してくれる後輩に悪い気はしなかった。特に彼女はここ最近雑な扱われ方をしていたので。
「いけない忘れるところだった。ねぇアラン、あの傭兵を知らないかしら? あいつここ最近見かけないのよね……ほとんど毎日ここに顔出してたはずなのに」
生意気な年下の顔で用件を思い出したイサナが尋ねると、アランは怪訝そうな顔で首を傾げた。
「えっ? ジグなら確か、長期の依頼を受けてストリゴへ向かったはずですよ」
「……は?」
あまり期待していなかったが、答えがあったことにイサナは眼を丸くする。
ジグがストリゴへ向かったのは、まあいい。
近頃あの街では魔獣が頻出しているらしく、支援のためにギルドが人を募っていたのは彼女も知るところだ。実際にイサナにも話は来たのだが、同胞のこともあるので長期に渡って別の街へ行くことは控えていた。
問題はなぜアランがそれを知っているのかだ。
「……それ、誰から聞いたの?」
「本人からです。”仕事でしばらく居ない”とだけですが、他にも何人か伝えてたと……あ」
口にしてから失敗したとアランは悟るが、時すでに遅し。
元々イサナとジグが知り合いというのは認識していたが、思っていたよりも複雑な関係をしているようだ。少なくともアランよりは交友はあったのだろう。
「―――あの野郎……私にだけ連絡しないってどういうつもり?」
眉間に皺を寄せて怒っているイサナが剣呑な空気を発している。
普段は涼しげな顔をしている彼女が感情を露わにする様子に周囲の冒険者たちが狼狽している。
今にも刀を抜きそうなほどに殺気立つイサナは傍目から見ても恐ろしく、アランも首筋が粟立つのを感じて身を固くした。騒々しいギルドが鋭い怒気に中てられて一瞬静まり返り、ある程度の腕を持つ者は身構えながらその出所を探って目を剥いた。
「あっ、いや! 偶然会った時に伝えられただけですから! それにストリゴへは俺の妹も行くから声を掛けてくれただけ……かも?」
どうして自分がと思いながらもアランが取り繕い、イサナに話が行っていないのはただの偶然だと宥める。だが恐らく、ジグが彼女に話をしていないのは意図的なものだとアランは気づいていた。
彼はまめなようでいて、ああ見えて妙に面倒くさがりな部分を持っている。
仕事関係で手を抜くことはあまりないし、無暗に敵を作らないよう振舞うこともできるのだが……感情が強く関わる面倒な人間関係を敬遠するきらいがあった。
とりわけ終わった話を蒸し返されることを厭う傾向があるのは、ワダツミが辻斬りの件で彼と揉めた時のことを思えば間違いない。
「そう……かな?」
「そうですよ! 特にイサナさんは住んでいる場所もあって伝えにくいのかと!」
「なるほどね。確かに、急ぎの仕事みたいだし? 連絡漏れくらいは大目に見てあげるべきかな」
必死に適当なことを言って矛先を逸らした甲斐あってか、イサナは怒気を収めてくれた。
あとは頃合いを見てこの場から逃げてしまおうと退路を確認する―――その油断が、命とりだった。
「おめぇのそういう面倒なところが嫌だから無視して行っちまったんじゃないかね?」
なんとか収めた砂上の楼閣が崩される。
傍迷惑な声の方を見れば、騒ぎを聞いて駆けつけたベイツが禿頭を掻きながら肩を竦めていた。隣では相棒のグロウが頭を抱えていた。
「……よく聞こえなかったのだけど、もう一度言ってくれないかしら?」
神経質に耳を立てたイサナが据わった目でベイツを見た。鯉口こそ切っていないが、指がトントンと不快気に鞘を叩いていた。
「おいおい、なっがい耳は飾りかよ! 可哀そうになぁ……少なくとも、ウチにはわざわざ顔出して伝えてくれたぜ?」
露骨な挑発はいつも鷹揚にしているベイツらしからぬものであった。
面倒見のいい彼はストリゴへ送り出したセツとミリーナ、ついでにカスカベが心配で苛ついていたのだ。魔獣と一戦交えて血が滾っていたところにつまらないことで騒ぎを起こしたイサナがいたので、つい吹っ掛けていたというわけだ。
「……私、いますごく懐が寒いの。やっすい喧嘩でも買うわよ?」
「上等だ、二等級様ってのがどれだけすげぇのか……ご教授願おうかね」
二人の凄腕冒険者が睨み合いながら表へ出ていく。
アランは引き攣った顔でそれを見送ることしかできなかった。




