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風来鮊との戦闘では疲労というほど体は動かしていないが、極度の緊張から喉が渇いていた。
一歩間違えば体ごと真っ二つの戦いを‟喉が渇く”程度で済ませる辺りにジグの潜ってきた修羅場の数が察せられる。
ジグは口を付けず、直接流し込むようにして水筒を呷る。
彼が使用しているのは子牛の革を使った、言わば水袋だ。ジグのいた大陸では水を生み出すなどという便利なものはなく、水分補給が生命線である兵にとって水筒とは剣以上に大切な物であった。
容量の大きさは言うに及ばず、耐久性と気密性に加えて携行性も重視される。
子牛の革はそのほとんどを満たしている優秀な品だが、唯一気密性にだけ難がある。素材の都合上、毛穴や縫い目から水が染み出すためだ。
その欠点を補うため、ジグの愛用している水袋は二重構造になっている。袋状の内臓……つまり胃袋を内袋として使い、外袋を革で作ることによって丈夫で気密性の高い水袋を使用している。
通常の水袋よりも値段は張るが、いざという時には浮袋として渡河にも使える優れモノだ。
なお、サイズの小さいものの内袋には膀胱などが使われる。
ハリアンではブリキの水筒が主に使われており、シアーシャや他の冒険者はこれを使用している。
しかし魔術で水を生み出せるこの大陸の人間はわざわざ水を入れる必要性を感じないらしく、酒や薬湯などを入れている者がほとんどらしい。
「……贅沢な話だ」
やっかみ半分に水袋の口を閉めたジグがこぼす。
ちなみに亜人は構造自体が人とは違い口も大きいため、直接流し込みやすい水袋を使用している者が多い。また地方によっても使用される水筒の形は違うらしく、イサナは葫蘆とかいう植物の実を乾燥させて中をくりぬいた物を腰に下げていた。
小休憩を終えて戻る途中、増援として派遣された西区画担当の冒険者たちとすれ違ったので、もう必要ないことを伝えておく。彼らは無駄足を踏まされたというのに文句ひとつ言わずに「無事なら良かった」とだけ残して持ち場へ戻って行った。
少し申し訳なさを感じつつも屋敷へ戻ると、手の空いていた職員に風来鮊の鋸尾を押し付けてからシアンたちへ報告を済ませる。
「そう……ですか」
報告を聞き終えたシアンが、冒険者が無事なことに安堵の声を漏らしながら背もたれに身を預ける。前の主に合わせた大椅子は小柄な彼女に不釣り合いなほどに大きい。
周囲では他の職員たちが難しい顔で今後の対応を話し合っている。
今回現れた魔獣はそれほどに厄介な存在らしい。
「風来鮊……ハリアン周辺ではわずかな目撃情報があるのみで、まともな戦闘記録はほとんどないはずでしたが……これは資料の大幅な改定が必要ですね」
カスカベが冷や汗を伝わせてそう漏らした。
資料の追記ではなく改定と口にしたことが気になったので、カスカベの方を見る。
「この魔獣は資料では四等級上位……つまり削岩竜と同等の戦闘力を持つと記録されています。しかしジグ様の話を聞いた限り、とてもではありませんが……」
同じ強さには思えないと、言葉にせずとも伝わってくる。
シアンや他の職員も同意見のようだ。
おそらくだが、単純な強さだけならそう大きく離れているわけではない。
体格や外殻の差から防御力は言うに及ばず。削岩竜とて突進の威力はすさまじいものがあるし、体感だが最高速度だけならこちらの方がわずかに早いはず。
ただ単純に、それら全てをひっくり返せるほど飛行するという特性が厄介なだけだ。
「魔獣の撃退、御苦労さまでした。回収した検体はハリアンへ移送後、しかるべき報酬が支払われます。またそれに際して研究者からいくつか質問事項があると思いますが、それも含めての報酬ですので、ご協力をお願いします」
色々考えるべきことはあるが、まずはこちらが先だとばかりにシアンが事務的な通達をする。
これも含めての情報提供ということであれば是非もない。直接相対した者としての所感を伝えるだけでよいならと頷く。
「了解した。参考までに、希少な魔獣の検体を提供した場合の報酬額を聞きたい」
話を聞くに風来鮊の検体が提供されたことはないようなので、あくまで参考にしかならないだろうが、それでもどのくらいの金額になるかは気になる。
意地汚いと思われようが、財布の残高が継戦能力に直結してくるジグにとっては死活問題なのだ。
シアンは困ったように頬を掻くと、曖昧な笑みを浮かべて同僚を見る。
「えーっとぉ……何分、私が勤め始めてからはあまりこういった事例もないもので……誰か、分かりますか?」
シアンが助けを求めるが、彼らも首を振るか肩を竦めるだけ。
ストリゴに来ているのは比較的若い職員ばかりで、一番上でも三十そこそこだ。体力の都合上、という建前で年嵩の職員は皆ハリアンに残っているので仕方がないことだが。
「ベイツさんの武勇伝では数百万だと豪語していたんですが……ずいぶん酒が入っていたので、大分盛られている可能性があります」
あまりに誰も口を開かないので、仕方なしとばかりにカスカベが言う。
なんとも信用度のアレな情報にジグは肩を竦めると、あまり期待しないでおこうと心に決めた。最低でも何人かの酒代くらいにはなるならば、それでいい。
その日はそれ以上何事も起きず、無事に終えることができた。
この場合の何事も、とは魔獣の襲撃はあったが被害が出なかった場合を指すものであり、決して平和に終わったわけではない。
それでも大した損耗もなく一日を終えられたことは間違いなく、住民の暴動なども起きなかった。
強いて問題を上げるなら女性冒険者が襲われたことくらいだが、ここに来ている面子に栄養状態の悪い暴漢程度に後れを取る者などいない。無事に鎮圧され、防衛圏の外へ追放された。
見せしめも兼ねた事実上の死刑にさしものストリゴ住民たちも慄き、表立っては手を出してこないようになった。完全になくならない辺りはある意味大したものだと思う。
夜、荒れ果てた街を遮るものの少ない月明かりが照らす頃。
屋敷の一室で夕食を済ませたジグとシアーシャが体を休めていた。
「それでですね、あんまりに魔獣が作業の邪魔をしてくるものだから頭に来ちゃって……」
その時のことを思い出したシアーシャが腹を立てて頭を揺らす。
濡れ羽色の長髪が艶やかに波打つさまは美しいが、髪を梳いているジグとしてはやめてもらいたい。
「吹っ飛ばしたのか?」
つむじを軽く指で押して止めると、大人しくなる。
大人しくなった彼女の髪に櫛を通していく。わざわざ梳く必要があるのか疑問に感じる程に真っ直ぐな髪だ。それでもやって欲しいと言われれば断れないのが雇われの性というもの。
髪を掻き分ける櫛か、あるいはジグの手つきが気持ちいいのか。シアーシャが猫のように顎を上げて目を細める。
「……いえ、我慢しました。せっかく整地した場所を台無しにするのも業腹ですし」
「そうか。御苦労だったな」
「そう言うジグさんこそ。聞きましたよ? なんか空飛ぶ座布団みたいな魔獣と遭遇したって」
髪を梳きながら離れていた間に起きたことを話していく。
シアーシャが東区の瓦礫撤去や整地をしている際にも魔獣が来たようだ。
現れたのは南区のように厄介な魔獣ではなく、大したことはない。ただその移動方法に大きな問題があった。
東区に来たのは砂鮫を始めとする、地中を移動する魔獣たちだったのだ。
エルシアたち高位冒険者には役者不足もいいところの小物ばかり。しかし彼女たち相手には力不足でも、せっかく整えた地面を荒らすには十分過ぎた。
もぐらなど比ではない速度で掘り起こされていく地面。そのまま放置すれば道は荷馬車などが通れば嵌ってしまうほどに穴だらけにされてしまうだろう。
慌てて処理するエルシアたちだが、いくら実力があっても手が多いわけではない。逃げる砂鮫を追いかけるには人数が足りず、いいように掘り返される。
ザスプが比較的被害の少ない風の魔術で倒すが、それでも追い払える頃には酷い有様になっていたという。何とも哀れな話だ。
「未確認の魔獣ってそれですか?」
「あれもほとんど情報がない、未知に近い魔獣だが……違うようだな」
手を止めたジグが目を細める。
確かに風来鮊は未知の多い魔獣だが、カスカベの言っていた異形と呼ぶには違和感がある。
元より異大陸に来たジグからすればほとんどの魔獣は異形に感じるが、一応の規則性はあるというのがこの大陸の認識だ。
魔獣の脅威に怯え、魔獣の恩恵に与る。それはこの大陸において当たり前の生活。
そんな魔獣を見慣れた彼らをして異形と呼ばれるモノ。
「……」
そして思い出すのは、風来鮊が逃げる直前に見せたあの反応。
始めはウルバスたちが加わったことで形勢不利と見て逃げたのかとも考えたが、どうにも違和感がある。
逃げるのはいい。不利を悟って逃げるのは生物として正しいし、賢い。
だがその直前……まるで何かを警戒しているかのような仕草が気になった。追撃の魔術をいとも容易く振り払い、斬り払ったあの芸当。なるほど四等級以上の強さを持つ魔獣として相応しい。
そんな魔獣が、ジグたち程度の人間相手がまとまったくらいで警戒するか?
あの逃走は命からがら逃げたのではなく、十分な余裕をもって成された。仮に倍の魔術が放たれたところであの魔獣は逃げおおせてみせるだろう。
何を警戒していた?
何に―――怯えていた?
「……」
手が止まっていることを咎めるように頭を擦り付けるシアーシャ。
詫びるように手を動かしながらも、ジグの頭からその考えが離れることはなかった。
ちなみにペルシア語で水袋はカークと言うらしいですよ。
彼はハリアンの水袋……干上がらない程度にイジメましょう。




