陛下と名前
結婚後の陛下とおしゃべり。
月が美しい夜のことだった。
他愛ないおしゃべりをしていると、不意に陛下が押し黙ってしまった。あまりに唐突だったので、お腹でも痛くなったのかと思って声をかけた。
「陛下?どうしました」
麗しい顔をむうっとしかめて、陛下がこたえた。
「…私は陛下ではない」
どうやら陛下は、過度な政務のせいで、自分を見失ってしまったらしい。
自分で自分を自分じゃないと言い切ってしまった陛下は、まるで目の前に座る女が悪いことをした張本人であるというように顔をしかめたまま私を見ていた。そしてそのまま、申し開きがあるなら聞いてやるぞというように、ふんと息を吐いた。
自分を見失ったばかりか、自分の嫁に架空の罪を押し付けるようになってしまったらしい。政務が忙しいのはどう考えても私の責任ではない。おじいちゃん宰相の裁量である。
「陛下、疲れておいででしょう」
「陛下ではない」
「ええ、そうでしょうとも。本日は早めにお休みになった方が」
「なぜお前はいつも陛下なんだ」
なぜおまえはいつもへいかなんだ。
私は、陛下のお言葉を一度噛み砕いて、よく咀嚼し、十分に味わってから飲み込んだ。十分に味わったはずのそれは、まるで味のしない木の実を食べているようだった。
つまり、まるで意味がわからなかった。
可哀想に、激務により自分を見失い、自分の地位を誰かに押し付けるに至るまで追い詰められていたのだろうか。このままでは、「自分探しの旅に出かけてくる!」などといまどき青春真っ盛りの少年も言わないような事を言い出しかねない。
「あの…ご存じないのかもしれませんが…私は王妃であって国王陛下では…」
陛下は虚を突かれたような顔をした。今自分が聞いたのは本当に自分が知る言語だろうかと不思議そうな顔を隠そうともしていない。ただ一言申し上げていいなら、そんな顔をしたいのはどう考えても私の方である。
「…それくらい知っている」
「はぁ」
「お前は、私の伴侶だ」
陛下がいったい何を言いたいのか全くわからない。もしかしたら、このやり取りはものすごく遠回りの愛情表現なのかもしれない。私が知らない間にこの国の愛情表現が“訳の分からないことを言われても甘んじて受け入れる”に変わった可能性もないと言いきることはできない。もしそうなら、私は彼の言葉を素直に受けとめるべきである。
それともまさか陛下は意味不明なことを言うことで倦怠期を脱しようとしているのだろうか。結婚してまだ1ヶ月。世間一般で言えば新婚熱々なカップルと言えなくもないが、この国王陛下は、私たちがすでに倦怠期に差し掛かっていると言いたいのだろうか。
それならば、私は公爵家の魔女秘伝の、夫婦生活円満対策をとらねばなるまい。喧嘩編、仲直り編、子作り編と様々バリエーションは豊富だが、そのなかでも、倦怠期編は特に力を入れて教わったような気がする。
「陛下…私たち、少し距離をおいた方がいいかもしれませんね」
脳内の秘伝の書を捲って一番最初に現れた言葉をそのまま言ってみた。文脈から言うと恐らく陛下も私の頭がどうかしたと思うだろうが、倦怠期解消のためには致し方ない。
陛下はぎょっとしたように目を見張った。やはり私の頭がダメになったと思ったのかもしれない。しばらく挙動不審ぎみに視線を動かしていた陛下は、しょぼくれて俯いた。
「それほど名を呼ぶのは嫌か…」
「は?名前?」
「わかった。呼び方はそのままでいい。…距離はおかない」
「ちょっと…え?呼び方?」
話が予想外の方向に吹っ飛んだ。
つまり私が様々に巡らせていた考えは全て勘違いということか。この国王陛下は、倦怠期を脱したいのではなく、私に名前を呼んでもらいたかったのか。「なぜおまえはいつもへいかなんだ」は、「なぜお前はいつも私を陛下と呼ぶんだ」と解釈しなければならなかったのか。
「…ヴェルノ?」
半信半疑のまま名前を呼ぶと、俯いていた陛下がぱっと顔を上げた。きらきらがいつもより余計にきらきらしている。正直にいうとちょっとうっとうしいくらいきらきらしている。今なら光の妖精さんが仕えていると聞いても驚かないくらいきらきらしている。
「呼んでくれるのか」
「はぁ」
「…!距離は置かないが、いいのか?」
「はぁ…」
距離を置かなくてもいいから、今度からはもうちょっとわかりやすく文脈に沿ってお話ししてくださいね、ヴェルノ。
テンションが振り切れた陛下が、相談に乗ってくれていたおじいちゃん宰相に喜び勇んで事の次第を報告するのは、また別の話。
“私”は言葉を深く吟味するのが苦手で、陛下は言葉少ない上文脈無視するので、基本的にあんまり噛みあいません。




