3話
さて、大変なことになった。
水を打ったように静まり返った謁見の間で、私は誰にも分からないようにこっそり一つ溜めた息を吐いた。
私の隣にはプレスコット公爵令嬢が立っているが、その顔色が尋常ではなく悪い。まだ幼かった頃、自分たちが持っている化粧品のどちらがより白くなれるかという馬鹿馬鹿しいことで彼女とケンカをしたことを思い出した。今ならどちらも使わずとも美白美人である。おめでたいことだ。その隣のご令嬢も、その隣も、そのまたずっと先まで、極上の紙もまだ追いつかないほど真っ白な顔をしていた。正確に言うと、あとちょっと刺激されたら倒れます、の顔である。
侍女を連れてこいと言われたので連れてきたハンナは、私の1歩右後ろに控えたまま、不自然なほど顔色を変えていない。流石というべきか、どれほどの衝撃があったにせよ、それを顔に出さずおっとりした表情を崩していないのだ。これがシェリだったらきっと大変なことになっていただろう。衝撃を受けた彼女の犬っころの様な反応を見た私が、である。
しかし、驚くほど誰も反応を示さない。衝撃を受けた瞬間、誰か一人はぶっ倒れるかと思ったのだが、意外と根性もったお嬢様方ばかりが集まっているのだろうか。もちろん陰惨で陰険で泥沼の奥深くに潜む女の園の中で過ごす我儘三昧のご令嬢が神経の細い人間であるとは思えないが、こんな異常事態を前にして正気を保っていられるほど軍人気質でもないだろうと思っていたのだが。
お隣のプレスコット公爵令嬢を盗み見る。昨日私にあれほど華麗な罵倒を叩きつけた人間と同一人物とは思えないほど怯えている。そう、怯えているのだ。此処は謁見の間、そこで私たちが目にするものなど、決まっていると言うのに。
「…美女と野獣ってか」
私のつぶやきは小さすぎてハンナにしか伝わらなかったようだ。他の人には私が苦い顔をして呻いたとでも見えただろう。
ハンナは何も言わなかったが、その穏やかな表情をより深いものにして見せた。私はこの顔を知っている。どこかの馬鹿な貴族坊やが彼女に追い縋って何でもするから結婚してくれと言ったときに、「それではここで全裸になって自作ダンスを披露しながら一生私の奴隷になるとお誓いできます?」と清々しくも言いきって、貴族坊やがマジ泣きしながら言うとおりにしようとした時の表情そっくりだ。つまり、笑いを堪えている時の顔である。
その時の事を思い出して渋い顔になったところで、私は前方に視線を戻した。
この静まりの原因である謁見の間の奥中央、真っ赤な絨毯のその先の、この国でただ一人にしかその着席を許されていない豪奢な椅子に腰かけているその人は、間違いなく―――獅子の姿を、していた。
「皆に集まってもらったのは他でもない。私のこの現状を知ってもらうためだ。実は2週間前から身体がこのように変化し、元に戻らなくなってしまった。原因は恐らく、何かしらの魔術であると思われる」
この前生誕祭で聞いた腰に来るバリトンボイス。国王陛下の声がする度に、獅子の口がぱっくり開いて、鋭い牙が見えた。どんな原理か知らないが、獅子が喋っているようだ。作りものでも着ぐるみのようなお茶目な代物でもない。
やはりこの獅子は国王陛下か。ああ、神々しいとまで言われた美貌が見る影もない。神々しすぎて、隣国からはその容姿を【奇跡の御子】と称えられたと、いつぞやの新聞に――しかも第一面にでかでかと恥ずかしい見出しをつけて――書いてあったのを思い出す。お姉様と一緒に爆笑しながら読んだものだ。あれは笑った。笑いすぎて涙が出るという現象を初めて実体験した。お姉様なんて、わざわざその記事を切り抜いてスクラップにして、気分が落ち込んだ時に眺めて元気を出しているのだそうだ。私もすればよかった。
話が逸れた。恐らく、私の後宮入りの日に悲劇が起こったのだろう。そう言えばあの日は王宮全体が右往左往の大騒ぎだったし、私と謁見できなかったのも頷ける。お渡りがなかったのもそのせいだろう。突発性獅子変化症候群に感謝感激万歳三唱だ。もちろん、口に出したら不敬罪で投獄は確定なので、賢い私はそっと口を閉じた。
「…皆、聞きたいことも多くあるだろう。そちらのほうから発言を許す」
発言を許す、と言われても、立っているのがやっとなお嬢様方に対する要求としては随分と無茶を仰る。現に、指示された一番右端の子爵令嬢は、可哀そうなほど真っ白になって震えていた。とてもじゃないが何か発言できる状態ではない。
「…では、次の者」
何の拷問かは知らないが、国王陛下は淡々と発言権をまわしていく。候補者が十数人いる中、私は最後の一人だ。どう考えても時間の浪費である。
私は順番が回ってくる間、国王陛下の珍妙な変化を観察することにした。
顔が獅子なのは見ての通りだ。立派な金茶の鬣は綺麗に撫でつけられている。まさか侍女が櫛でセットしたのだろうか。なんだそれ、想像したらシュールだな。
鋭い眼は野生動物と比べて妙に品がある。知性というやつだろうか。口を開くと、肉食動物の王者の称号にふさわしい鋭い牙が見える。
からだはずっしりした衣類に邪魔されて良く見えないが、ひじ掛けに置かれた手は間違いなく獣の毛と黒い爪がのびていた。足もだ。もふもふしたらさぞ気持ちいいだろう。
それなのにきちんと椅子に腰掛けている。よく見れば、獅子の顔の下にはちらりと肌色の首が見えた。どうやら局所的に獅子に変化したようだ。辛うじて四足歩行にはならなかったらしい。よかったよかった。
だけどこの王様、どうやって歩いているのだろう。足は見たところがっしりして、獣のそれより大きいけれども、全体重をかけて普通に二足歩行しているのだろうか。
「…次の者」
「こ…国王陛下におかれまして…は…この度のご不幸、まことに…」
この状況下で言葉を発する猛者がいるとは思っていなかったため、うっかり観察を止めてしまうくらいびっくりした。
隣のプレスコット公爵令嬢が、ガタガタ震えながら、それでも礼儀を崩さず口を開いている。さすが、公爵家令嬢ともなればこんな珍事にも礼を尽くして対処しなければならないのか。プレスコット家の教育をぜひ見習いたいものである。絶対受けたくないけど。
「口上はよい。聞きたいことは」
「…あ、その…私たちは今後、どのように…」
「このことは1週間後、国民に大々的に発表する。私のこの姿が元に戻る保証はない。もし後宮から出たい場合、申し出れば手続きなしで即受理することができる。受け取った持参金は倍にして返すと約束しよう…他には?」
なるほど、獣の王妃になりたくなければとっとと出ていけということか。獣の王様がいつまで王様を務められるか分からない。最悪陛下が早々に隠居して後宮から追い出され、その上で獣のお手付きなどと噂されたら、舞い込んでくるはずの見合い話も反故になる可能性がある。
こんな状態の陛下を国民に周知させる目的は恐らく戦争のきっかけ作りだ。最近、お隣の国がちょっかいをかけてきて鬱陶しいとお兄様がこぼしていた(あのお馬鹿さんはそういう重要なことをボロボロと喋ってしまう)。彼の言うちょっかいとは、国境での不穏な動きや度々の侵略行為であり、いずれにせよ不可侵協定を結んだ国が出来ることではない。
我が国王陛下は、この度の自分の変化がどのような原因であるにせよ、お隣の国のせいにして戦争を吹っかけることができるとふんだのだろう。都合のいいことに、お隣の国は古の魔術を得意とする人間がごろごろいる。自他称含めて、ではあるけれども。
戦争のきっかけというのは、なんだっていいのだ。こじつけでも何でも、要は正当性を主張できればいい。
目には目を、歯には歯をのやり方は、嫌いではなかった。
「あ、ありがとうございます…」
「…次の者」
プレスコット公爵令嬢の隣は私だ。つまり、今発言を認められているのは私である。
ここは黙って震えておくのがベストだろう。下手に目立つのは得策ではない。
…と、頭では冷静に考えていても、私の口はいつのまにか勝手に動いていた。どうしても聞きたいことがあったのだ。
「陛下のそのお手、書類へのサインが困難ではありませんか?どのようにペンをお持ちに?」
後ろから奇妙に押し殺されてくぐもった声が聞こえた。ハンナが下を向いて震えている。
周りの人間には、突飛すぎる主人の言葉に対する叱責を恐れているように見えるだろう。
しかし私には嫌というほど分かっている。こいつ、心の中で両手叩いて爆笑してやがる。くぐもった声は悲鳴ではなく、耐えきれなかった笑いだ。
謁見の間は暫しの間耳が痛くなるような静寂に包まれた。お偉いさん方は、不躾な質問を叱責するどころか、完全に言葉を失っている。私の質問を言語として認識できたかどうかも少し怪しい。その表情に言葉をつけて吹き出しを完成させよという問いがあったら、答えはただ一つ、「お前何言ってんの?」で決まりだ。
「……………それを聞いて、どうするのだ」
長い沈黙の後、陛下がやっと口を開いた。宰相と神官長、騎士団長を筆頭に、お偉いさん方がいまだに完全に何言ってんだこいつ状態で息を吹き返さない中、その反応は迅速だと評価されていいレベルだ。やはり国を背負う人間の器は違うと言うことだろうか。獅子になった張本人が、間違いなくこの場で一番落ち着いている。もちろん私たち主従を除いての話になるが。
「純粋な興味です」
これは9割本音である。国政に影響が出るんじゃないかと心配したのが後の1割だ。
国王のサインが必要な書類がどう処理されるのか。サインがないと偽造書類が横行しないか。めんどくさいから詳細は述べないけれども。
「……爪にインクをつけて文字を書いている」
「紙が破れませんか?」
「文字を書く爪だけヤスリで丸く削っている。その心配はない」
「ああ!それは素晴らしい発想ですね。どなたの案です?」
「私だ。あまりに不便だったからな」
「陛下がそれほどご聡明なら、この国も安泰でしょう。陛下の御代が少しでも長く続きますよう、僭越ながらお祈り申し上げております」
またもやハンナが小さく呻いた。まるで主人の言葉に感銘を受けたと言わんばかりのタイミングだったが、私は彼女の口から零れた半笑いの言葉を聞き逃さなかった。曰く、「完全に馬鹿にしていらっしゃる」。失礼な。私は心の底から陛下をほめたたえたのだ。爪を削るという発想はなかった。窮地に陥った人間の底力というものを垣間見た気がした。
しかし、傍目から見たら結構な頻度で意味もなく呻く主従だ。私が第三者だったら絶対に関わりたくない。
まだぽかんとしている周りを尻目に、陛下は小さく笑った、ように見えた。何せ獅子の顔だ。微細な表情は分かりにくい。
「他に聞きたいことは?」
どうしよう。先ほどから気になって気になってしょうがないことがあるのだが、これを聞いたら不敬罪で牢獄いきかもしれない。
流石に、ただの好奇心と引き換えに石の牢で何カ月も過ごすのは遠慮させていただきたいものだ。
「お聞きしてよろしいものかどうか…」
「許可する。言ってみろ」
「では失礼して。陛下、それ、尻尾は生えておいでなんですか?」
今度こそ耐えきれなかったハンナが勢いよく吹き出したが、それは運よく誰にも聞き咎められなかった。
獅子の形をした国王陛下が、心底楽しそうに、腹を抱えて笑いだしたからに他ならなかった。
こういうご令嬢です。プレスコット公爵令嬢とは小さな頃から喧嘩友達。




