獅子とアレルギー
陛下がまだ獅子の頃のお話
「っくしゅ」
なんかむずむずする、と思っていたらとうとうくしゃみが破裂した。
その後華麗に3連続のくしゃみを決めた私は、心配そうにこちらを覗き込む陛下に、思わず手のひらを向けた。マテの合図である。
「陛下、あの、ちょっと近寄らないでください」
陛下の動きが、ぴたりと止まった。私の手のひらを鼻先に突きつけられた獅子は、暫く無言で動かなかったが、私が5回目のくしゃみを豪快に響かせたところでようやく口を開いた。
「ち、近寄ってはいけないのか」
「はぁ、ちょっとま――っくしゅ、ちょっと待って下さいね」
「……」
このくしゃみの原因、もしかしたら私もアレルギーを患ったのではないだろうか。毎晩毎晩獅子の毛と過剰接触しているのだからあり得ないことではない。もしそうだとしたら、この国の後宮は終わりだ。猫アレルギーのプレスコット公爵令嬢と獅子アレルギーの私という、陛下にとっても私たちにとっても生き地獄のような空間に様変わりである。
陛下は突きつけられている手のひらの前でそわそわと落ち着かない様子だった。耳がいつになくぴこぴこ動いている。無意味に机の上に手を置いたり、引っ込めたりして、いったい何がしたいのかよくわからない。いつもならその動きを微笑ましく見る余裕があるのだが、いかんせん乙女にあるまじき液体が顔中から溢れそうな今、それさえストップをかけたくなる。
「…まだだめか?」
「だからちょっとま―――っくしゅん」
「……だめか」
7回目のくしゃみに耐えかねて顔をそむけると、陛下の気落ちした声が聞こえた。それがあまりに落ち込んだ響きをしていたので、なんだかこっちがものすごく悪いことをしているような気分になってきた。どちらかというと今私の方があなたの毛に蹂躙されているんだと思うんですが。何でしょうかこの罪悪感は。
「あの、今日は陛下、あ――ぶえっくしゅ!…あの、大変申し訳ないのですが、お帰りいただいても…っくしゅ」
「帰るのか…」
「本当にもうしわけ―――んぶっ…ちょっとあの、色々限界で、その」
「…わかった。今日は帰ろう。また明日来る」
出来れば来てほしくないです。
という心の声は涙と鼻水と共に飲みこんで、陛下を扉までお送りする。それも一定の距離を保ってだったので、陛下が何度も振り向いてきた。その度にくしゃみが出た。もう陛下の顔を見たら条件反射でくしゃみが出ているのではないかと思ったほどのタイミングだった。くしゃみをしすぎると腹筋が痛くなるなんて初めて知った。出来れば一生知りたくなかった。
「…きょうは、ほんとうに――っくしゅ、もうしわけ…」
「いい。今日はよく休め。…そうだ、お前にやろうと思って持ってきたんだった」
扉の前で、陛下が胸元から何かを取り出す。
ふわ、と目の前に突き付けられたそれに――――私の顔面が、崩壊の音を告げた。
「今日の昼に中庭で摘んで……どうした?」
「………っ!!」
そのお花、ピンポイントで、私のアレルギーを引き起こすやつです、陛下。
獅子アレルギーかと思いきや陛下が持ってきた花に過剰反応していただけだった私の鼻がようやく落ち着いたのは、夜もとっぷり更けた頃だった。大変なことになっていた顔をなんとかして部屋に戻ると、陛下がベッドにちょこんと座って待っていた。
そのまま灯を消して、ベッドに横たわる。まだひりひりする鼻を押さえると、陛下の耳が少し垂れた。どうも私の盛大なくしゃみの原因が自分だと分かって責任を感じているらしい。
「すまなかった」
「いえ、陛下の責任ではありません。私もお見苦しい姿をお見せいたしました」
ちょっと引くレベルの豪快さでくしゃみを何発もかましたのだが、陛下はあまりに気にならないらしい。神妙な声の陛下の手が私の鼻を撫でた。過敏になった鼻に肉球がむにゅ、と押しつけられるのはちょっと気持ちがいい。何度か鼻を撫でて、くしゃみのしすぎで私の鼻がもげていないことを確認した陛下は、喉の奥で低く唸った。
「私の顔を見てくしゃみをするから、私の毛が原因かと思った」
私もそう思いました。
暗闇の中で、陛下の手を鼻からどける。いい加減私の鼻がつぶれそうだ。すかさず肉球を触ったのだが、陛下は何も言わずにされるがままになってくれた。
「プレスコット公爵令嬢と私がアレルギーだったら、陛下は後宮に入ることもできませんでしたね」
「それは困る。お前に会えない」
陛下のこの無駄な恋愛スキルは教室を開いて授業料をとってもいいレベルだと思う。
「そうですか?政務がはかどって案外いいかもしれませんよ」
「…お前は宰相みたいなことを言うな」
陛下はちょっと笑って私を抱きよせた。
あの忌まわしい花の匂いはすっかり薄れて、お日さまの匂いがふんわり香った。
こいつらはこれで付き合っていないのが異常だということを理解してほしいですね




