18話
以前陛下が持ってきたきんきんきらきらの首飾りよりもきんきんきらきらした陛下が私の部屋に来たのは夜も更けた頃だった。意気込んでいた私がちょっと恥ずかしくなるくらいあっさりやってきた。
どうして大した装飾品もつけずにきんきんきらきらできるのかさっぱり分からないまま、「お忙しいでしょうからぜひ本宮にお戻りくださいませ」と言った私に、陛下はちょっと笑った。その笑顔は知らないはずなのに、耳に入ってきたのは、あの聞きなれた、低くて優しい笑い声だった。
「お前はいつ来てもそう言う。心配するな、仕事はちゃんと片づけてきた」
とんだハイスペックイケメンである。いや、イケメンという言葉で片付けるのもおこがましい。きんきんきらきらと言った方がまだ近い。笑った口元を模写して100人に見せたら100人が「理想の形」というであろう美しさである。今まで散々【奇跡の御子】のネーミングセンスを馬鹿にしてきたけれども、これはあながち間違っていないかもしれない。ここまでくると、逆に気持ちが悪い。顔面格差社会もこればっかりは是正できまい。
「この姿でお前に会うのは初めてだったな」
「いえ、今年の生誕祭で、遠くから拝見いたしました」
「言葉は交わしていないだろう。お前は確か、私の開式のあいさつが終わった瞬間、テラスに出てそのまま戻って来なかった」
「…お気付きだったんですか」
「あまりに鮮やかな身の翻し方だったからな。名は知らなかったが印象に残った」
陛下が耐えきれなくなったように低く笑った。
今年の生誕祭はお姉様に引っ張り出されて渋々顔を出したのだ。目の色を変えたとっちゃん坊やたちに一瞬で嫌気がさして、開始早々気分が悪くなったふりをしてテラスに出たのはいい思い出である。まさかその一部始終を見られているとは思いもしなかったけれども。
「そういえば、そうだ。その後だったな。城下に忍んで出掛けたのは」
「はぁ」
「あの綺麗な方向転換の令嬢には、赤い薔薇が似合うだろうと思った。気付いたらその首飾りを買っていた」
この陛下を誰かどうにかしてやってくれ。なんでそんなセリフがぽんぽん出てくるんだ。いったいどこでそんな天然スキルを磨いてきたというんだ。恋愛偏差値の高さは嫌というほど分かったからもう許してくれ。イケメンは卑怯だ。どうして長い髪を掻きあげる仕草がこんなに様になるんだ。男のロン毛は断固拒否という私の信条さえ揺らぎそうではないか。
「獅子の目ではあまりうまく色を認識できなかったが、今はよく見える」
「お色が?」
「獅子の性質だろうな」
ふと、陛下が自分の掌を見詰めた。
そこには、見なれた黒い爪も、すべすべぷにぷにの肉球もなかった。もふもふの毛もなかった。どこかの芸術家が爪の先まで完璧に計算して作ったような手で握って開いてを何度か繰り返している陛下の横顔には、立派な茶金の鬣も、ひくひく動くひげもついていなかった。陛下はもう、獅子ではなかった。
私を必要としていた、傷ついた獅子の王様では、なかった。
「―――お戻りになって、ほんとうによかったです」
ころん、と石が坂道を転がるように、言葉が出てきた。どうしてこれが今出てきたのかわからなかった。本来なら開口一番に言わなければならなかったことかもしれないし、一生言わなくてもよかったことだったかもしれない。胸の鉛が、少しだけ重さを増した。
陛下は自分の手から私に視線を移した。その目が意外そうに瞬いている。
「お前は、私が獅子のままの方がよかったのではないか」
「……え」
息が、詰まった。
私は、その問いかけに対する反論の言葉を持っていなかった。
言葉を無くす私に気が付いているのかいないのか、陛下は笑いながら、自分の髪を撫でた。職人が一本一本丁寧に縒って作られた糸の様な美しい髪の毛は、いくら長くても、いくら立派でも、私が顔を埋めて眠った鬣には見えない。
「お前は私の鬣が好きだったし、肉球を触るのも好きだっただろう。尻尾が生えた時にはついに気が狂ったのかと思った」
「…お見苦しいものをお見せいたしました」
ああなんだそっちか、と拍子抜けした。そしてすぐに、思いなおす。そっちかって、じゃあ私は“どっち”を想定していたんだ。
私はいったいどういう意味で、「獅子のままの方がよかった」と捉えた?私はいったいどういう意味で、「獅子のままの方がよかった」と思っている?
「いや、尻尾が生えてきても正気を保てていたのは、お前がああして騒いでくれたからだ」
「でしたら、私も少しはお役に立てていたんですね」
「……」
陛下が小さく首を傾げて何か悩み出した。
ちょっとまて、この流れは身に覚えがある。早急に彼の思考を止めなければなんだか大変なことに―――。
「いや、そうじゃない。お前がいたから、私は生きていられた」
もうやだこの王様。
結局何をしに来たのか分からなかった陛下は、天然無自覚恋愛偏差値を見せつけるだけ見せつけておいて部屋を後にした。獣から人間になったからか知らないが、「本宮で眠る」と言ってきんきんきらきらを振りまきながら出ていったのである。
どっと疲れた。これでベッドにでも上がられようものなら私はたぶん絶叫しながら中庭に避難していた自信がある。
「今夜は、こちらでお眠りにならないんですね」
気を利かせてくれたシェリが、よく眠れるようにとお茶を淹れてくれている。ハンナは早々に自分の部屋に引っ込んでいた。
陛下がお渡りするようになって夜に呼びつけられたことがなかったからか、シェリは些か眠たそうだった。小さく欠伸を噛み殺す様はまるで生まれたての子犬の様だ。愛らしい髪飾りが頭の左右についていて、それが耳に見えてますます犬っぽさを助長している。言わずもがな、プレスコット公爵令嬢からのプレゼントだった。
「気分転換だったみたいだからね」
「でも、お忙しいってお聞きしていますから、お仕事をしに帰られたのかもしれませんよ?」
「仕事はもう全部終わったってさ。いやぁ、あんな見た目で仕事早いってほんと神様は理不尽だよね」
シェリがお茶を渡してくれる。シェリのお茶はいつだって、いつだって美味しいのだ。
後ろに下がって立ちすくんだ子犬が、戸惑ったように言葉を探す気配がした。陛下が今夜部屋に留まらなかった理由を探しているのだろう。そんな事はしなくていいのに。私の可愛い子犬が、こんなことで心を痛めなくていい。逃げようとみっともなくもがく主人を助けようとしなくてもいい。
会って言葉を交わした今、もう誤魔化すことはできないのだと、痛感したばかりなのだ。
のどに流し込んだ液体の味は、胸の鉛が邪魔をして、相変わらずさっぱり分からなかった。どうしてこれを気のせいだと思おうとできたのか不思議なほどに、重たくて苦しくて、痛い。
「今、後宮には私しかいないからね。暇つぶしっていっても私のところにくるしかないんだよ」
暴露します。
私は、あなたが暫く政務に追われて後宮の管理に手が回らないことを望んでいました。
だってそれなら、あなたが後宮に新しく入って来るお嬢様方のところへ通うのが、少しでも遅くなるから。
「お嬢様……」
懺悔します。
私は、最初あなたを獅子と見分けられなかったとき、実はとてもほっとしたのです。
だってそれなら、あなたが一生獅子のまま生きていくことになっても、罪悪感がわかないから。
「大丈夫だよ、シェリ。私は…」
告白します。
私は、本当はあなたが獅子の姿から戻らなければいいと思っていました。
だってそれなら、あなたはずっと、ずっと私の傍にいるしかないと知っていたから。
「私の野望を、叶えたいだけだよ」
白状します。
叶わないとわかっていながら。
ふさわしくないとわかっていながら。
―――私は、あなたを一人占めしたくて、たまらない。
“野望”という言葉は、いったい何を指していたのか




