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獅子と私  作者: sin
本編
11/31

11話



「ヴェルノが獅子になったら、私のお家で飼いたいです。毎日ブラッシングして、おさんぽをして、お庭で一緒に日向ぼっこをしましょう。鬣をみつあみに編んで、可愛いリボンもつけて差し上げますよ」



結局、足が痺れるほどの時間が経って、私が口にできたのはたったのそれだけだった。解決には至らない。気休めにすらならない。下手をすれば馬鹿にしているともとれるかもしれない。


もっと他に言い様はあっただろう。隣の国の中に呪いを解く方法を知っている人間がいるかもしれないとか、何も絶対に獅子になるわけじゃないとか、慰めの言葉は無数にあったはずだ。だけど、何の力も持たないただの小娘に気安く大丈夫だなんだと励まされることを、この人は望んでいないだろうと思ったのだ。




陛下は私を抱き締める手の力を緩めることなく、暫く黙っていた。

これは打ち首かと覚悟を決めた頃、不意に、とても安心したような、穏やかな声が聞こえた。




「…そうか」







その夜、陛下は、初めて私を抱きしめて眠った。

迷子になった子供が母親を見つけた時のように、一生懸命縋りついて、離れなかった。私は、意識が落ちるまで、彼の背を小さく叩くことしかできなかった。













陛下のお腹が獣の毛におおわれたのがその翌日。

ベッドに横たわってもふもふのお腹を見せてきたので、「破廉恥です!」と言いながら誘惑に耐えきれず思う存分もふもふしたら、笑って抱きよせられて、そのまま眠りに落ちた。お日さまの匂いに紛れて、少しだけ、獣の匂いがした。






陛下の背中が獣の毛におおわれたのがそのまた翌日。

上着を脱いだ陛下の、鬣から続くなだらかな背中が、柔らかい茶金の毛で埋まっていた。手触りがよくてしばらくずっとさわさわしていたら、こちらに背を向けて横たわっていた陛下が、笑いを耐えたような声で「破廉恥はどっちの方だ」と言ってきた。「乙女の寝室で上裸になる方だと思います」と返すと、とうとう陛下は声を上げて笑った。

立派な鬣に顔を埋めて眠った。背中についた手が柔らかな毛に触れていた。獣の匂いが少しだけ、濃くなったような気がした。






陛下の腰元から尻尾が生えてきたのがその翌日。

それを聞いた瞬間私の興奮は頂点に達した。奇声を発しつつ尻尾を追いかける私に若干引き気味な陛下が引き攣ったように笑った。鬣に見合った立派な尻尾で、上下左右に自在に動いた。「どんな気分ですか」と聞くと、「指を動かす感覚に似ている」と返ってきた。

尻尾を追いかけまわすのに必死でいつの間にか眠っていた。獅子になった陛下と一緒に、家の庭で日向ぼっこをする夢を見た。優しい、匂いがした。





陛下が言葉を発することが出来なくなったのが更にその翌日。

鋭い牙がのぞく口からは、力の無い咆哮が出てくるだけだった。低くて優しい笑い声がもう聞けないのかと思うと、少しだけ残念だった。それでも獅子の声をこんなに間近に聞いたのは初めてだったので、若干興奮しつつ「がおーって言ってみてください」とお願いすると、陛下は一瞬押し黙った。無神経だったかなと止めようとした瞬間、陛下の口がぱっくり開いて、信じられない迫力の咆哮が飛び出てきた。がおーどころの騒ぎではなかった。仰天した兵士が部屋になだれ込んでくるくらいの迫力だった。何でも無いですよと兵を下がらせてから、そういえば、今この瞬間に陛下が野生化したら、言葉を交わすこともなく喰い殺される可能性もあるんだなと思い至った。

陛下が眠るのをためらう仕草を見せたので、私の膝を貸して差し上げた。陛下は何かを言いたそうに口を開いて、結局小さく喉を鳴らして、静かに眠りに落ちた。








そして、その翌日。戦争出陣を明日に控えた夜更けのことだった。

陛下は、完全に四足歩行の獅子になって、私の前に現れた。




「…陛下」



呼びかけると、いまだに知性の残る瞳がこちらを見上げた。―――まだ、自我があるのか。

獅子の隣に立っていた宰相が、疲れきった顔を私に向けた。悔しそうな、絶望しているような、放心しているような、不思議な顔色だった。



「陛下にはまだ自我が残っておいでですが、いつ何が起こるか分かりません。陛下のご意志で、西の離宮に隔離させていただくこととなります」

「……かく、り」

「お望みになれば面会は出来ますが、最後のご挨拶にと、陛下が」



獅子が音もなく近寄ってきた。

大きい。尻尾がゆったりと揺れている。悲しんでいるのか、嘆いているのか、笑っているのか、何一つ分からない。

私はしゃがみこんで、鬣で飾られた獅子の首を抱き込んだ。獣独特の匂いが鼻をかすめる。何を言えばいいのか分からなくて黙っていると、獅子が小さくすり寄ってきた。私の頭に鬣を押し付けて、優しく喉を鳴らした獅子は、もう未練はないとばかりに私を振りほどいて、その場を立ち去った。













部屋に戻ると、ハンナがお茶菓子を用意していた。

シェリが用意したであろうお茶からのぼる湯気が、その隣で揺れている。


私は手をひかれるまま、椅子に座った。ハンナが黙ったまま私の肩に毛布をかける。寒くないと言おうとして、両手が震えていることに気がついた。

思わずハンナを振り返る。魔女はいつものように笑っていた。その肩越しに、唇を引き結んでぶるぶる震えるシェリの姿が見えた。



「気が落ち着くお茶ですわ。お飲みください」

 


言われるままにお茶を飲んだ。生温いお湯を飲んでいるようだった。シェリが淹れてくれるお茶はいつだって美味しいはずなのに、喉につかえた何かが邪魔をしてうまく飲み下すことができない。



「…ハンナ」



口を開いたのは無意識だった。



「―――私は、あの人に、何ができた?」



なんでもいいから吐き出したかった。答えを求めているわけでもなかった。

後ろに控えるメイドを見ずに、空っぽのベッドを見る。人が2人眠ってもなおスペースが有り余っていた大きなベッドを見たら、喉のつかえがどんどんせり上がってくるような気がした。



「何も」



魔女が、静かに答えた。



「何もできませんでしたわ」



シェリの引きつった泣き声がする。

部屋は酷く静かだった。不意に息苦しさを覚えて、ベッドからお茶に視線を移す。立ち上る湯気がゆらゆらと揺れている。その揺れが、お茶のカップに移って、机に広がり、視界の全体が揺れ始めるのにそう時間はかからなかった。薄い水の膜を通して、いろんなものが、ゆらゆら揺れる。




「…そっ、か」





喉のつかえが、出口を見つける。

私は、少しだけ、声を出さずに泣いた。









ただ、無力であったがために

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