第2話:魔法使い
十朱さんに言い寄っていた男が戻ってきたと同時に、十朱さんはすぐにトイレに行くと行って席をたった。
男は避けられているかのような態度に一瞬顔を歪めたが、今は同じく十朱さんを狙っているかのような態度をとっている僕との話しの方が重要なのだろう。
男はドスの効いた声で僕に耳打ちしてきた。
「おいてめえ、あの女から手を引け」
その直接的な言い方に僕は思わず苦笑する。
もう少しまともな言い方くらいあるだろう?
「あの女ってのは随分な言い方だね。僕は別に十朱さんを狙ってるわけじゃないよ。ただ少しお話していただけさ」
声音に少しバカにした風な要素を加えると、男は目に見えて怒りをその表情に浮かべた。
「お前あんま調子にのんなよ?殺すぞ」
「はは。怖いね」
とか言いながら僕は全く恐怖を感じてはいない。
アメリカにいた頃、エマのせいで散々チンピラとのゴタゴタに巻き込まれたからだ。
「怖いから僕少しトイレに行ってくるよ」
そう言って僕は立ち上がり、部屋を出て行こうとする。
背後から、「絶対に戻ってこいよ」という声が聞こえたが、当然そんなものを守る気なんて僕にはない。
部屋を出て、トイレの方に向かうと、そこには律儀にも十朱さんが立っていた。
「ずっとそこに立っていたの?」
僕が尋ねると、十朱さんは僕の顔を見て、安堵の表情を浮かべた。
「はい。でも来てくれないかもしれないと思ってました」
なんで彼女がそう思ったか分からない。
彼女が出て行ってから二分と少ししか経っていない。
「大丈夫だよ。現にこうして来ただろ?」
「そうですね」
十朱さんが微かにほほ笑む。
「じゃあ早く行こうか」
僕はそう言って彼女の手をとる。
「あ・・・」
十朱さんの声に僕は足を止め振り向いた。
そこには少し頬を染め、俯いた感じの十朱さんが。
そこで僕は、不躾に彼女の手を握っている事に気が付いた。
「ああ、ゴメン。いきなり手を握ったりして」
そう言いながら僕は手を離そうとした。が、今度は逆に彼女が僕の手を強く握った。
「い、いえ。大丈夫です。男の人と手を繋ぐのは初めてで少し驚いただけです。でもそうですよね。はぐれたら大変ですしね」
「あ、ああ。そうだね」
お金持ちのお嬢様の、手とはいえ“初めて”を奪ったという事実を彼女に突きつけられ、僅かに気が重くなったが、一度引き受けた事だ。投げ出すわけにはいかない。
僕は彼女の手を引いて、カラオケ店を後にした。
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暫く歩いて、僕と十朱さんは公園に来ていた。
十朱さんに聞くと、ここで待っていれば迎えがくるらしく、ならばと思い休憩も兼ねてここで待つことにした。
僕は自販機にコインを入れ、コーラと今度はレモンティーを買った。
「はい。歩いたからレモンティーで良いかなって思ったんだけど」
そう言いながら僕は十朱さんにレモンティーを渡した。
「あ、はい。ありがとうございます」
そう言って受け取るのを確認した僕は、自分のコーラのプルタブを開け、のどにコーラを流し込む。
その時、十朱さんが僕を見ている事に気が付いた。
「ん?どうしたの?」
僕が尋ねる。
「あ、いえ、瀬亜さんはすごいなと思いまして。私が丁度喉が渇いてレモンティーが飲みたいなって思ってたら本当にレモンティーを買ってきて下さったんですから」
なるほど。そういう事か。
「別に大した事じゃないさ」
僕だってほとんど初対面の人間の好みが分かるわけじゃない。
ただ、アメリカでエマに、「人が今何を欲しているか出来るだけ予想して生きろ」と教えられ、それを意識してきたらこうなっただけだ。
「それでも凄いです。じゃあ今私の考えてる事当ててみて下さい」
いきなり十朱さんは無茶な事を言い出した。
僕は魔法使いじゃないんだが・・・。でもまあ、適当にやってみるか。
そう思った僕は、十朱さんの眼の動きや表情に変化を観察する。
「もしかして、コーラが飲みたい・・・とか?」
適当に言ったのだが、十朱さんは心底驚いた顔をした。
「凄いです!本当に分かるなんて!!瀬亜さんは魔法使いなんですか!?」
「いや、そんなはずないから・・・」
「いえ!本当に魔法使いですよ!私尊敬します!」
尊敬されてもな。と思うと同時に、こんな子供のように純粋な視線を向けられたのが久しぶりで、思わず僕は微笑んだ。
「あ・・・・」
そんな僕を見て、十朱さんは小さな声を漏らしたかと思うと、サッと顔を背けた。
そこで、僕は、昔エマから、「お前は女子の前で不用意に笑うな。女子が死ぬ」と言われた事があった。
つまりそんなに僕の笑顔がとんでもなくキモいということなのだろうと思い、極力笑顔をする事を止めたのだ。
その結果、周りからは「根暗で地味」という称号をつけられる羽目になったのだから、結局どうせと?という感じだ。
でも、十朱さんのような純粋そうな人でも思わず顔を背けるほどとんでもない笑顔なのだとしたら、流石にヘコむ。
僕は気を紛らわす為に、何か無いか辺りを見渡す。
といっても既に時刻は9時近い。そんな時間に何かあるはずが・・・。
「・・・ねえ十朱さん。バスケットって知ってる?」
「へ?バスケット・・・ですか?名前だけは知ってますが、ルールなどは全く・・・」
なるほど。大体予想通りだ。
「じゃあやってみない?バスケ」
「え!?本当ですかっ!?・・・あ、でも、私、お父様やお母様から手を痛める危険性のあるものはしてはダメだって言われてるので・・・」
一瞬メチャクチャ喜んだ十朱さんだったが、そう言ってしょんぼりしてしまった。
「十朱さんのご両親は音楽家か何かなの?」
「はい。お父様は指揮者で、お母様はバイオリニストです」
「へえー。じゃあ十朱さんも何かやってるの?」
「私はピアノを少々」
そう言っているが、手を怪我するスポーツ全般を禁止しているくらいだ。かなり本気でやっている・・・いや、やらされているのは間違いないだろう。
「将来の夢はプロのピアニストとか?」
「はい。私の夢は世界三大コンクールに出場し、その全てで最優秀賞を取ることです」
それ最早「ピアノを少々・・・」とか上品ぶって言うレベルじゃないし。マシでピアノに人生賭けてる人が掲げる夢だ。
僕だって世界三大コンクールくらいは知っている。
ショパン国際ピアノコンクールと、エリザベート王妃国際音楽コンクール、そしてチャイコフスキー国際コンクールの事だ。
そんなコンクール全てで最優秀賞を受賞するとか、常識的に考えたら不可能だろう。
「そうなんだ。じゃあ尚更バスケはダメだね」
「・・・はい」
そして、彼女は再びしょんぼりとしてしまった。
・・・全く。仕方がないな・・・。
「じゃあ退屈かもしれないけど、僕のプレーでも見る?」
まるで引っ込み思案な子供に接するように、僕は彼女にそう提案する。
「はい!見ます!」
そして、たったそれだけの事で一気に明るい笑顔になる彼女を僕はまるで太陽のようだな。と柄にもなくそう思った。
僕がバスケを提案したのは、たまたまバスケコートがあり、ボールが落ちていたからだ。
僕はそのボールを拾い、ドリブルをする。
バスケットボール特有の音が静かな夜に響く。それを心地よく思いながら、僕は一気にゴールまで駆け出す。
そして、ゴール下で思いっきりジャンプし、そのまま―――ダンク。
―――ガシャンッ!
激しい音を立てて、リングが揺れる。
「凄いです凄いです!!私初めてバスケ見ましたけど凄いです!」
かなり興奮しているのか、言っている事は若干メチャクチャだ。だけど、ここまで喜んでもらえると僕としても嬉しい。
単に真っ直ぐドリブルして、ダンクしただけだけど・・・。
僕は転がっていたボールを拾うと、3Pラインまで下がり、そのからシュートを放つ。
―――バスッ
綺麗な弧を描き、そして綺麗な音を出しながらボールなリングに沈んだ。
「あんな遠い所から入れるなんて・・・。やっぱり瀬亜さんは魔法使いですか!?」
「あんたはどんだけ僕を魔法使いにしたいんだ・・・」
「え・・・、今瀬亜さん私のこと“あんた”って・・・」
あ、しまった。つい気が緩んでしまった。
「ごめん。馴れ馴れしかったね。次からは―――」
「いえ!“あんた”でいいです!いっそのこと“咲”でもいいです!」
いや、流石にそれは・・・。
それに僕は人のことをファーストネームで呼ぶのはあまり好きじゃない。
それを言おうと思ったが、
「その代わり私は今から瀬亜君って呼びます!」
と、勝手にそう言い出す始末。
つか瀬亜さんから瀬亜君ってどんな違いが?
「まあいいや。じゃあこれからあんたの事あんたって呼ぶ事もあるかもしれないけど、基本的には“十朱”でいくから」
結局僕も妥協し、呼び方を変える事にした。
それが少し面映ゆくもあり、僅かに心臓が高鳴った。そしてそれを紛らわす為に、僕は“十朱”にボールを手渡した。
「えっと・・・“瀬亜君”?」
「禁止されてるかもしれないけど。1回も出来ないなんてつまんないでしょ?」
「――――はいっ!」
十朱はボールを持って、フリースローラインに立つ。
「私に出来るでしょうか・・・」
「大丈夫。“あんた”なら出来るよ」
柄にもなに事を今日は吐きまくってるな。
と、思いながら、それも悪くないな。と、更に柄にもない事を呟く。
十朱は、その言葉で覚悟を決めたのか、腕にに力を入れ、押し出すようにボールを放った。
かなりメチャクチャなフォームだったが、ボールはリングに向かって行き、ガンッっとリングに当たり跳ね、そしてリングの中に入っていった。
「は、は、入りましたー!!」
今日一番の歓声を挙げながら、あろうことか十朱は僕に向かって突っ込んできた。
「なっ―――!?」
いきなりの出来事に、避ける事が出来ず、僕は彼女とぶつかる。
咄嗟に彼女の手を庇い、僕は十朱を抱きしめる。そして地面を倒れた僕と十朱。
僕は十朱の上に覆いかぶさるような体勢になっている。
「おいあんた!手は大丈夫か!?」
僕は咄嗟に十朱の手を取って、確認する。
「は・・・はい。えと、瀬亜君が・・・その・・・守ってくれたので」
頬を染めながら彼女は言うが、今の僕にはそれよりも彼女の手の方が心配だった。見た所外傷もないようだし大丈夫みたいだが。
僕が安堵した瞬間、僕は背後から誰かに蹴り飛ばされ、地面を転がった。
「がっ・・・!!」
背中だから特に問題はないが、かなりの衝撃で、息が詰まる。
「瀬亜君ッ!?・・・何をなさるんですか鏡正院様!?」
・・・鏡正院?どこかで聞いた事のある名前だ。
僕は何とか体勢を直し、僕を蹴り飛ばしたであろう男を見た。
男といっても年齢は僕とあまり変わらないだろう。
恐らく彼が十朱の迎えだろう。
「咲さんを襲うとしていた暴漢を退治しただけです。それよりも私は許嫁なのですから下の名前である優聖と呼んでいただきたいとお願いしているではないですか」
男・・・鏡正院の言葉を、十朱は無視して僕の元に駆け寄ろうとした。
しかしその手を鏡正院が掴む。
「離してください!瀬亜君が苦しんでいます!」
「駄目ですよ咲さん。危険です。それに私は貴女に他の男の心配などして欲しくありません」
「ですがっ!!」
悲痛とまで言える叫びを放つ十朱さんの声をこれ以上聞いていたくなかった僕は、根性でその場で立ち上がる。
「だ、大丈夫ですよ。“あんた”が思ってるほど僕はヤワじゃありませんから」
にっこりと僕は笑う。
「・・・“あんた”?」
十朱に対する呼び方が気に食わなかったのだろう。鏡正院は顔を憤怒に染めて、再び僕に暴力を振るうべく近づいてくる。
・・・上等だ。眼にモノ見せてやる。
久しぶりに頭が沸騰するのが分かった。
それは、本来綺麗な声を紡ぐ十朱の口からあんな悲痛な叫びを出させた事なのか、それとも十朱に許嫁がいた事への嫉妬なのかは分からない。
けど今僕は猛烈にこのいけ好かない男をぶん殴りたい―――!
「やめて下さいっ!!!」
闇夜の公園に、十朱の絶叫ともいえる叫びが木霊する。
その時僕は初めて正気に戻った。
・・・そうだ。ここで僕がこの男と喧嘩したら、傷つくのは十朱じゃないか。それに許嫁との仲を邪魔しているのは僕だ。
つまりここでお邪魔なのは僕なのだ。
「ごめん。今日は今日は帰るよ」
冷静になり、羞恥で染まった顔を隠すように僕はその場を後にした。




