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異世界ケアハウス~若すぎる達人と、お年寄りたちの英雄譚~  作者: 水縒あわし


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誇り高き獅子と、若き介護士



 商人ギルド会頭、バルド・レンツと名乗った男の真剣な眼差しに、俺は、空腹も疲労も忘れ、ただゴクリと唾を飲んだ。


この男は本気だ。その瞳が、有無を言わせぬ力でそう語っていた。



 張り詰めた空気が、二人と、そして遠巻きに見守る野次馬たちの間に流れる。



 グゥゥゥ……。



 その静寂を破ったのは、俺の腹の虫が立てた、あまりにも盛大な音だった。



 一瞬、広場が凍りついた後、バルドは眉間の皺を深くしたまま、ぷっと吹き出した。


そして、肩を揺らして豪快に笑い出した。



「ははは! そうか、そうだな! 腹が減っては話はできん、か。見事な腕前を見せた後だ、無理もない」


 その笑い声で場の緊張が和らぎ、俺は顔から火が出るほど恥ずかしくなった。



「立ち話もなんだ。まずは腹ごしらえとしよう。ついてきなさい」


 有無を言わせぬ口調でそう言うと、バルドは俺に背を向け、悠々と歩き出した。


俺は戸惑いながらも、その大きな背中を追うしかなかった。



 案内されたのは、ギルドのすぐ隣にある、いかにも高級そうな料理店だった。


重厚な木の扉、磨き上げられた調度品、そして静かに流れる音楽。


これまで俺がいた世界のどことも違う、落ち着いた空気がそこにはあった。



 通された個室で、俺は数日ぶりにまともな食事にありついた。


温かいスープが空っぽの胃に染み渡り、ふかふかのパンが涙が出るほど美味い。


香ばしく焼かれた肉の塊を、俺は礼儀だけはなんとか保ちつつも、夢中で口へと運んだ。



 バルドはそんな俺の様子を、時折ワイングラスを傾けながら、微笑ましいような、それでいて何かを鋭く見定めるような目で見守っていた。



 俺の食事が一段落したのを見計らって、バルドが静かに口を開いた。



「さて、腹も満ちたところで、改めて聞かせてもらおうか、若いの。君はいったい何者だ? あの手際は、ただの流れ者のものではない」


 俺は一度ナイフとフォークを置くと、言葉を選びながら、正直に話せる範囲で自分のことを語った。



 名前は『アイカワ』と言うこと。


遠い場所からこの街へ流れてきたこと。


そして、どんな仕事にもありつけず、今日にも路頭に迷うところだったこと。



 俺の話を黙って聞いていたバルドは、ふむ、と一つ頷くと、今度は彼自身の悩みを語り始めた。



 彼の父親であり、商人ギルドの先代会頭であるゲルトという人物が、病の後から一年以上も寝たきりの状態にあること。


かつては『エアストの心臓』とまで呼ばれた辣腕の商人だったがゆえに、今の不自由な自分を許せず、心を固く閉ざしてしまっていること。



「父は、誇り高い男でな。誰の世話になることも、弱みを見せることも、何より嫌うのだ。これまで何人もの腕の良い治療師や世話係を雇ったが……皆、父の罵倒と頑固さに根負けして、一月と持たずに辞めてしまった」


 そう語るバルドの顔は、街の名士のものではなく、ただ父を想う一人の息子の、悲しげなものだった。



「だが、君は違った」


 バルドの声に、再び力がこもる。



「あの獣人の老人に対し、君は処置を施した。相手の身なりや立場など、まるで関係ないというように。君のあの眼差しは、わしが雇ってきた者たちが浮かべていた、憐れみや義務感とは全く違っていた。あれは……相手を、一人の人間として尊重する者の目だ」


 そこまで言うと、バルドは椅子から立ち上がり、俺の前に来ると、深く、深く頭を下げた。



「どうか、私の父の世話をお願いできないだろうか」


 商人ギルドの会頭が、流れ者の若者に頭を下げている。


信じられない光景だった。


住み込みでの仕事、生活の完全な保障、そして冒険者の依頼では見たこともない額の金貨が報酬として提示された。



 だが、金銭的な魅力以上に、俺の心を震わせたのは、別のことだった。



(俺の技術と信念を……必要としてくれる人が、この世界にもいたんだ)



 絶望の底で、一条の光が差し込んだようだった。



「……お引き受けします」


 俺は力強く頷いた。


そして、こう付け加えることを忘れなかった。



「ですが、一つだけ条件があります。まずはお父様の様子を直接見せていただき、お話を伺いたい。その上で、私に何ができるかをご提案させてください。それが、私の仕事のやり方ですので」



 その言葉に、バルドは驚いたように目を見開くと、次の瞬間、心底嬉しそうに破顔した。



 話がまとまると、バルドはすぐに俺を豪華な馬車に乗せ、エアストの高級住宅街にある自身の屋敷へと向かった。


滑るように進む馬車の中から見える壮麗な街並みは、まるで別世界のようだった。



 やがて馬車は、巨大な鉄の門を持つ、壮麗な屋敷の前で止まった。



 重厚な扉の前で、バルドが俺を振り返る。


「父は一筋縄ではいかんぞ。おそらく、酷い罵声を浴びせられるだろう。……覚悟はいいか?」


 その問いに、俺は静かに、しかし力強く頷いた。



「大丈夫ですよ。慣れていますから」


 その落ち着いた瞳には、二十年以上のキャリアに裏打ちされた、バルドにはまだ分からない自信と、新たな仕事への決意が宿っていた。



 ゆっくりと開かれる扉の向こう、薄暗く静まり返った屋敷の奥へと、俺たちは静かに足を踏み入れていった。



 レンツ邸の二階、その最も奥にある重厚な扉の前で、バルドは足を止めた。


豪華な装飾が施された廊下は静まり返り、これから対面するのが実の父親とは思えないほどの、異様な緊張感が空気を支配していた。


バルドがごくりと唾を飲む音が、やけに大きく聞こえた。



「……父は、この奥だ」


 絞り出すような声に、俺は静かに頷いた。



 ゆっくりと扉が開かれると、むわりとした薬草の匂いと、澱んだ空気が流れ出してくる。


部屋は広く、調度品はどれも一級品なのだろうが、カーテンが閉め切られているせいで薄暗く、どこか生気がない。



 その部屋の中央に置かれた巨大な天蓋付きベッドの上で、一人の老人が半身を起こしていた。


ゲルト・レンツ。


その人だった。病で痩せこけてはいるが、その双眸に宿る光は少しも衰えていない。


まるで手負いの獅子のような、鋭い威厳がそこにはあった。



「父さん、入るぞ。新しい世話係を連れてきた」


 バルドがおずおずと声をかけると、ゲルトの鋭い視線が俺を射抜いた。



「また若造か! バルド! 貴様はわしの言うことが聞けんのか! 金で雇われただけの輩に、わしの身体を触らせるな! とっとと消え失せろ!」


 嗄れているが、腹の底から響くような怒声だった。



 息子であるバルドが「まあ、そう言わずに……」とうろたえる一方、俺は罵声を浴びながらも、ただ静かにゲルトという人間と、彼が置かれている環境の全てを観察していた。



 《共感》の力が、彼の魂の叫びを俺に伝える。


動かない手足への絶望。


日に日に衰えていく身体への憤り。


そして何より、他人の世話にならなければ何もできないという、耐えがたい屈辱。


その心の痛みが、身体の至る所から発せられる鈍い痛みと混じり合い、彼を苛んでいた。



 俺はバルドに目配せすると、一度静かに部屋を後にした。


重い扉が閉まり、怒声が遮断される。



「すまない、アイカワ君。いつも、この調子なんだ……」


「いえ。バルド様、お願いがあります。どうか一週間だけ、私に全てをお任せいただけませんか」


 俺の静かな、しかし確信に満ちた言葉に、バルドは驚いたように俺の顔を見つめ、やがて力なく頷いた。



 再び、俺は一人で部屋の扉を開けた。


ゲルトの怒声が再び飛んでくる。



「まだいたのか、この若造が! 出ていけと言ったのが聞こえんかったのか!」


「ゲルト様、失礼します。まず、部屋の窓を開けてもよろしいでしょうか」


 俺は怒声に答えず、静かに問いかけた。


ゲルトは一瞬虚を突かれたように黙り、やがて吐き捨てるように言った。



「……勝手にしろ」


 許可を得て、俺は分厚いカーテンを大きく開けた。


途端に、柔らかな陽光が部屋に差し込み、溜まっていた埃がキラキラと舞う。窓を開け放つと、心地よい風が流れ込んできた。



「澱んだ空気は、人の気力まで奪ってしまいますから」


 独り言のようにつぶやき、俺はベッドへと向き直った。



「少しだけ、失礼しますよ」


 そう一声かけてから、俺はゲルトの身体を動かすのは最低限に留め、ベッド周りの環境整備から始めた。


汗でじっとりと湿ったシーツの皺を、皺の無いように丁寧に伸ばしていく。


そして、持参したいくつかのクッションを巧みに使い、ゲルトの背中や踵の下に差し込んで、身体の圧力がかかる部分を減らしていった。



「な、何をする! わしの身体に気安く触るな!」


 ゲルトは悪態をつき続ける。


だが、彼の内心では、明らかな戸惑いが生まれていた。


ずっと背中に感じていた不快な蒸れと、岩が乗っているような鈍い痛みが、ほんの少しだけ和らいでいる。


その事実を、彼のプライドが認めようとしなかった。



 一通りの身の回りの事を終えると、俺はベッドのそばに椅子を置いて静かに腰を下ろした。


そして、ゲルトの目を見て、はっきりと語りかけた。



「……ゲルト様。もしよろしければ、あなたがこのエアストを、どうやってこんな立派な商業都市へと育て上げたのか、そのお話を聞かせてはいただけませんか? 俺はこの街に来たばかりで、この街の歴史を何も知らないのです。ぜひ、教えていただきたい」


 その言葉に、ゲルトの罵声が、初めてぴたりと止まった。


その目は驚きに見開かれ、俺の顔をまじまじと見つめていた。



     ◇



 一週間後の夜、俺はバルドの書斎で報告をしていた。



「一週間の約束でしたが、どうかもう少しだけ、私に時間をいただけないでしょうか。ゲルト様は今、心を開き始めています。今が一番大切な時期なのです」


 俺の言葉に、バルドは「もちろんだとも!」と力強く頷いた。


息子の彼が、父の変化を誰よりも感じているのだろう。



「つきましては、ゲルト様の未来のために、いくつか必要なものがあります」


 俺は懐から数枚の羊皮紙を取り出し、バルドの前に広げた。


そこには、いくつかの木工品の、簡素だが設計図が描かれていた。



「このような物が欲しいのですが、どこかで売っているでしょうか? もし無ければ、腕の良い職人の方に製作を依頼していただけませんか」


 バルドは不思議そうな顔で、見慣れない物が書かれた図面を眺めていた。



「ふむ……このような物に、心当たりは無いな。だが、分かった。街中の職人に当たってみよう。君を信じるよ、アイカワ君」



     ◇



 あの日から、俺の日常に、新しいリズムが生まれた。



 それは、決まった時間に訪れるのではない、もっと自由で、ゆるやかな繋がりを紡ぐためのリズムだった。



 朝一番、陽光が部屋に差し込み始める頃に「おはようございます、ゲルト様」と挨拶し、新鮮な水差しを枕元に置くだけで一度下がる。


昼前には、部屋の空気を入れ換えるために数分だけ立ち寄り、「今日は風が心地よいですね」とだけ声をかける。


そして午後、ゲルトが退屈し始める時間を見計らって、書斎から持ってきた古い商業記録を一人で読みながら、「この頃の取引は、大変だったのではないですか?」と、ぽつりと問いを投げかける。



 何かを強要せず、ただ静かに存在することでゲルトの孤独な時間に寄り添う日々。


その根気強い繰り返しが、彼の心の氷を少しずつ溶かし、俺たちの間にかすかな信頼の糸を紡ぎ始めていた。



 そんな生活が数日過ぎた、ある朝のことだった。



「ゲルト様、本日は温かいお湯で身体をお拭きしませんか? 血行が良くなりますし、何よりさっぱりすれば気分も晴れますよ」


 俺の提案に、ゲルトの眉間に深い皺が刻まれた。



「病人のように扱うな!」


「それは違います」


 誤解をさせぬよう、言葉を選ぶ。



「これは病人のためではありません。ゲルト様が、あなたらしくあるためのものです」


 俺は穏やかに、しかしはっきりと返した。



「ご心配なく。この部屋には、私とゲルト様だけ。他には誰も入れませんよ」


 その言葉に、ゲルトはしばらく俺の顔をじっと見つめていたが、やがてふいと顔をそむけ、「……好きにしろ」とだけ呟いた。



 俺は手際よく準備を整え、清拭を始めた。


ゲルトは、またあの屈辱的な時間が来るのだと、固く目を閉じて身構えた。


これまでの世話係たちは、まるで物を扱うように、ただ、彼の身体を拭くだけで、無遠慮に肌を晒し、そのたびに彼のプライドを深く傷つけていった。


「失礼します。まずはお背中から。タオルが温かいか、ご確認ください」


 だが、アイカワのやり方は全く違った。


一つ一つの動作の前に、必ず穏やかな声で説明がある。


温かいタオルが背中に触れる。


その心地よい温度に、ゲルトは思わず身体の力を抜いた。


アイカワはタオルケットを巧みに操り、身体が冷えぬよう、肌が露出する時間を可能な限り短くなるように留めている。


拭う、乾かす、そしてすぐに覆う。


その一連の流れに一切の淀みがなく、ゲルトが覚悟していたような屈辱を感じる暇もなかった。



(……なんだ、この若造は)



 ゲルトは驚きを隠せなかった。


これまでの者たちとは、まるで違う。


そこにあるのは、流れ作業のような「世話」ではない。


ただ一つの身体を、最大限に敬い、いたわるための、洗練された「技術」だった。



 清拭と並行し、俺は毎日、地道なマッサージを続けた。



「少し失礼します」


 拘縮して石のように硬くなった手足に、俺はそっと《癒やしの手》を発動させて触れる。


淡い光が、俺の手からゲルトの身体へと流れ込んでいく。


その効果は劇的なものではない。


だが、日々のケアを通じて、彼の身体を苛み続けてきた長年の痛みや痺れが、まるで薄皮を剥がすように、ゆっくりと、しかし確実に和らいでいった。



 身体が楽になるにつれて、ゲルトの口数も増えていった。


昔の武勇伝だけでなく、時には「あのバルドめは、昔から石頭でのう……」「このまま朽ち果てるのを待つだけかと思うと、どうにも……」といった、息子への不満や、今の自分への不甲斐なさが、ぽつりぽつりと漏れるようになった。


俺はそれを、ただ黙って受け止めた。



 そうして、数週間が過ぎたある日の午後。



「本日は、少し特別なことをしましょう」


 俺はそう言って、足湯の準備を始めた。


使用人たちに大きなたらいと湯を運ばせると、俺は部屋の扉にしっかりと鍵をかける。


準備をしながら、何気ない口調で尋ねる。



「そういえば、このお屋敷にはお風呂は無いのですか?」


「……階下に、自慢の浴場がある。今のわしには、関係のない場所だがな」



 ゲルトが、寂しげに呟いた。



 俺は何も言わず、ベッドの端に腰掛けたゲルトの足を、ゆっくりと湯の入ったたらいへと浸した。



「……う、む……」


 一年以上ぶりに湯に触れたゲルトの口から、思わず感嘆の息が漏れる。


足先からじわりと全身に広がる、忘れていた温かい感覚。


その心地よさに、彼は恍惚としたように目を閉じた。


それは長らく忘れていた、生きているという実感だった。



 気持ちよさそうに目を閉じるゲルトに、俺は優しく語りかけた。



「血行が良くなりましたね。顔色も良い。……もう少しお身体が動くようになったら、階下の自慢のお風呂にも、いつかご一緒させてください」


 その言葉は、ゲルトの心に、未来への小さな希望の灯をともした。



 足湯がきっかけとなったのか、その数日後からのゲルトは、まるで別人のように生き生きとし始めた。



「そうだ、アイカワ! 北のドワーフ共との取引の話をしてやったかな? 奴らは中央山脈の鉱山利権を盾に、ふっかけてきおったのだ! だがわしはな、そんな手には乗らん! 逆に東の港町との独占交易権をちらつかせてだな、奴らの喉元にナイフを突きつけるように……」


 ベッドの上に半身を起こしたゲルトは、マッサージで少し動くようになった指を動かし、目を輝かせながら語る。


その声はもはや嗄れておらず、かつての『レンツ家の獅子』を彷彿とさせる張りと力強さに満ちていた。



「それで、その交易権というのは……」


 俺が相槌を打つと、待ってましたとばかりに話が続く。


扉の外を通りかかったバルドが、父の元気な声に驚いて足を止め、その懐かしい光景に静かに目頭を熱くしていることなど、部屋の中にいる俺たちは知る由もなかった。



     ◇



 あの最初の対峙から、一月と少しが経過した。


 週に一度の足湯と、日々の昔話は、ゲルトの何よりの楽しみとなっていた。


彼の部屋から罵声が聞こえることはなくなり、代わりに穏やかな会話と、時には豪快な笑い声さえ響くようになった。


血色を取り戻した父の顔を見て、バルドはその変化に驚きと感謝を隠せないでいた。



 だが、俺はまだ満足していなかった。


ゲルト様の為の次の一手には、まだ最後のピースが残されている。



 ――バルドに製作を依頼した、「ある物」の完成が。



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