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異世界ケアハウス~若すぎる達人と、お年寄りたちの英雄譚~  作者: 水縒あわし


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絶望の淵と、最初の価値



 商業都市エアストの活気に満ちた大通りは、様々な種族、様々な品物、そして様々な匂いで満ち溢れていた。


行き交う人々の力強い熱気に当てられながら、俺は今後の生活について考えていた。


まずは、安定した収入の確保が最優先だ。



 衛兵の言葉を頼りに、俺は街の中央広場に面した一際大きな建物――冒険者ギルドの扉を、意を決して押し開けた。



 瞬間、むわりとした熱気と共に、酒と汗の匂い、そして男たちの怒号が俺を包んだ。


屈強な鎧姿の剣士、怪しげなローブを纏った魔術師、身軽な革鎧の弓使い。


誰もが歴戦の強者といった雰囲気を漂わせている様に感じる。


静かな病室や図書館にいた俺にとって、その荒々しい雰囲気はあまりにも場違いで、完全に気圧されてしまった。



 それでも、ここで引き返すわけにはいかない。


俺はおそるおそる、奥にある受付カウンターへと向かった。



「あの、すみません。冒険者の登録をお願いしたいのですが」


 カウンターの向こうにいた、快活そうな栗毛の髪の女性職員は、俺の姿を上から下まで値踏みするように見つめると、にこりと微笑んだ。


若々しく、無駄なく引き締まった俺の身体を見て、有望な新人とでも思ったのだろう。



「はい、どうぞ! こちらの登録用紙に必要事項を記入してくださいね」


 渡された羊皮紙に、俺は備え付けの羽根ペンで名前を書き込んだ。


故郷を思い出し、少しだけ懐かしい気持ちで、俺は慣れ親しんだ自分の名を綴る。



 ――ヨウ・アイカワ。



「はい、できました」


「お疲れ様です。えーっと、お名前は……ヨウ・アイカワさん、ね。……ヨー?」


 受付嬢は俺の名前を読み上げると、ぷっと吹き出した。



「ふふっ、ごめんなさい。ヨーだなんて、変わった名前ね」


 その言葉に、周りで酒を飲んでいた冒険者たちがゲラゲラと笑い出す。


その時、俺の脳裏に、神様のメモにあった追伸が閃光のように蘇った。



『追伸。名前には気をつけるように、な』



(なるほど、こういうことだったのか……)



 この世界では、「ヨウ」という響きが、あまり良い意味を持たないか、あるいは単に奇妙に聞こえるらしい。


俺は内心で神様の気遣いに感謝しつつ、慌てず冷静に申し出た。



「では、ファミリーネームの『アイカワ』で登録をお願いします」


「ふーん、まあいいわ。それじゃ、アイカワさんね。戦闘経験は? 魔法は使える?」


「いえ、戦闘経験は全くありません。魔法も使えません」


 俺が正直に告げると、受付嬢の態度は一変した。


期待に満ちていた笑顔は消え、あからさまに落胆した顔で、面倒くさそうに手続きを済ませる。



「はい、登録完了。あなたは今日からFランク冒険者よ。頑張ってねー」



 最低ランクだというFランクの冒険者、アイカワ。


それが、俺のこの世界での最初の肩書になった。



 俺は「人助けに近い依頼ならできるかもしれない」と考え、最も簡単な討伐依頼――下水道に巣食う大型ネズミの駆除を受けた。


だが、結果は惨憺たるものだった。



 いざ敵の、剥き出しの牙と殺意を前にすると、俺の身体は恐怖で完全にすくんでしまったのだ。


人を助けるための手はあっても、命を奪うための術を、俺は知らない。



 命からがら逃げ帰り、依頼失敗を報告すると、ギルド中に嘲笑が響き渡った。


受付嬢の冷たい視線を受けながら違約金を支払い、俺は貴重な所持金を失った。


自分は誰かを殺めることなど到底できない、戦士ではないのだと、骨身に染みて痛感した。



 冒険者稼業を早々に諦めた俺は、次に職人や商人が利用するという職業安定所を訪れた。



「身体の不自由な方の身の回りのお世話や、お話を聞くことが得意です。二十年以上、そういった仕事をしてきました」


 俺は、自分の持つ専門技術を懸命に説明した。


だが、面接官の男は、眉間に深い皺を刻んで俺を一瞥すると、鼻で笑った。



「なんだそれは。奴隷か下男の仕事だろう? それに、治療師の資格もないのに病人に触れるなど、もってのほかだ」


 その言葉は、俺が培ってきた二十年以上の人生そのものを否定するようで、胸に深く突き刺さった。


「介護」という概念が存在しないこの世界では、俺が持っている専門技術は、何の価値も持たない奉仕活動でしかなかった。



 その後も、商店の荷物運びや食堂の下働きなど、日雇いの仕事を探し回ったが、「身元保証人のいない若造は雇えない」と、どこへ行っても門前払いされるだけだった。



 神様から貰った大切な餞別は、宿代と食費、そして討伐依頼の違約金で、日に日に減っていく。



 その日の夜、安宿の固いベッドに横たわり、天井の染みを見つめながら、俺は深い溜息をついた。


革袋の中には、もう数枚の銅貨しか残っていない。



「明日、仕事が見つからなければ、いよいよ野宿か……」


 自分の無力さと、異世界で生きることの厳しさを噛みしめる。


俺が信じてきたものは、この世界では何の役にも立たないのだろうか。



 焦りと不安に苛まれながら、俺は眠れない夜を過ごすのだった。

     


 翌朝、とうとう安宿のけちな宿代さえ払えなくなり、俺は、朝日が石畳を照らし始める頃、宿の主人に無言で背中を押され、通りへと放り出された。


革袋に残ったなけなしの銅貨数枚で、露店で売られている硬い黒パンを一つだけ買う。


それが、今日の最初で、そしておそらくは最後の食事になるだろう。



 活気あふれる商業都市エアストの中央広場。


その喧騒の片隅にある噴水の縁に腰掛け、俺は茫然とパンをかじっていた。


近くの食堂からは食欲をそそるスープの匂いが漂い、鍛冶屋からは景気の良い槌音が響いてくる。


行き交う人々は誰もが生きる力に満ち溢れ、その熱気が、まるで分厚い壁のように今の俺を世界から隔絶していた。



(もう、この世界ではやっていけないのかもしれないな……)



 味気ないパンを飲み下しながら、自嘲がこみ上げる。


俺が二十年間、必死で磨き上げてきた知識と技術は、この世界では何の役にも立たないのか。


人の尊厳を守りたいという信念は、結局ただの自己満足だったのだろうか。



 故郷の景色が脳裏をよぎる。


そして、優しく笑って送り出してくれた神様の顔が浮かんだ。



(神様、すみません。あなたの期待に、応えられそうにありません……)



 胸の奥がずしりと重くなり、天を仰いだその時だった。



 広場の一角で、甲高い女性の悲鳴と、人々のどよめきが起こった。


何事かと視線を向けると、人々がさっと輪を作るように後ずさっているのが見えた。



 人だかりの中心には、みすぼらしい身なりの老人が倒れていた。


痩せこけた身体、ボロボロに擦り切れた衣服。


白髪混じりの灰色の毛がまばらに生えた頭からは、少し欠けた狼のような耳が覗き、腰からは力なく尻尾が垂れている。獣人の老人だ。



 老人は口から白い泡を吹き、石畳の上で打ち上げられた魚のように全身を激しく跳ねさせ、意味の無い言葉をうわ言のように繰り返していた。



「おい、見ろよ……」「汚らわしい獣人だ」「何かの呪いかもしれんぞ、関わるなよ」「ほら、子供はこっちへ来なさい!」



 周囲の人々は、助けの手を差し伸べるどころか、眉をひそめて囁き合うだけ。


怯えたような、あるいは心の底から蔑んだような視線を、ただ無遠慮に向けるだけだった。


誰もが自分には関係のない厄介事だと、その冷たい表情が物語っていた。



 その光景を見た瞬間、俺の頭から、空腹も、絶望も、将来への不安も、すべてが吹き飛んだ。



 目の前に、助けを必要としている人がいる。



 苦しんでいる命がある。



 ただそれだけで、冷え切っていたはずの魂に、熱い火が灯った。


気づいた時には、俺の身体は無意識のうちに駆け出していた。



「道を開けてください! 失礼!」


 驚く人垣をかき分け、俺は老人の側に滑り込むように膝をついた。


ひどい獣臭とすえた匂いが鼻をつくが、そんなことは少しも気にならなかった。



「大丈夫ですよ、すぐ楽になりますからね」


 冷静に、かつ安心感を与えるように声をかける。


長年の経験で培った、極度の緊張状態にある本人と、そして周囲のパニックを鎮めるための声色だ。


俺はそう語りかけながら、素早く老人の状態を確認する。



 声掛けには反応は無い。


瞳孔を確認、対光反射は鈍い。


頸動脈に指を当て、弱いが異常に速い脈拍を確認。


喘鳴混じりの呼吸音……間違いない、重度の発作だ。



 すぐに襟元を緩め、気道を確保しようとする。



 だが、一人では限界がある。


処置が遅れれば、脳に回復不能なダメージが残るか、最悪、死に至る。



 俺は覚悟を決め、この世界に来てから誰にも見せてこなかった神様の力を、この衆人環視の中で解放した。



「《ドッペル》!」


 俺が短くそう唱えると、身体から淡い光があふれ、すぐ隣に、俺と全く同じ姿をした二人の分身が、音もなく出現した。



「なっ!?」「三人になったぞ!」「分身魔法だ!」「一体何者だ!?」



 周囲から上がった驚愕の声を背に、俺たちは三身一体となった完璧な連携で応急処置を開始した。



 本体の俺は、老人の頭が地面に打ち付けられないよう優しく支え、耳元で「聞こえますか、もう大丈夫ですよ。落ち着いて、ゆっくり息をしましょう」と、絶えず声をかけ続けて意識を繋ぎ止める。



 分身の一人は、的確な手際で老人の身体をそっと横向きにし、口内の泡や嘔吐物による窒息を防ぎながら、痙攣で手足を傷つけないよう安全な体勢を整える。



 もう一人の分身は、野次馬に向かって「皆さん、少し下がってください! 処置の邪魔になります!」と毅然と指示を出し、近くの果物売りの露店に駆け寄ると、驚く店主に「水を少し分けてください! 急いで!」と頼み込み、水差しと清潔な布を手に入れて戻ってきた。



 その無駄のない動きと熟練した手際は、まるで三人の人間が、思考を共有しながら動いているかのようだった。



 的確な処置の甲斐あって、老人の激しい痙攣は次第にその勢いを失い、やがて嵐が過ぎ去ったかのように、穏やかな寝息を立て始めた。


俺はそっと分身を消し、濡らした布で老人の顔を優しく拭ってやると、全身の力が抜けるのを感じながら、安堵のため息をついた。



 静まり返った広場で、人々はただ呆然と、俺が行った神業のような一部始終を見つめていた。


先程までの蔑みや無関心は消え,そこにあるのは驚愕と、そして畏怖にも似た眼差しだった。



 その時だった。ざわめきと共に人垣が左右に割れ、中から一人の紳士が、感嘆と驚きの入り混じった表情でゆっくりと歩み出てきた。


上質な服をまとった、恰幅の良い男だった。


その男が現れただけで、広場の空気が引き締まるような、不思議な威厳があった。



「私は商人ギルドの会頭、バルド・レンツという者だ」


 男はそう名乗ると、俺の前に立ち、倒れている獣人の老人と、処置を終えて座り込む俺の姿をゆっくりと見比べた。


その目は、値踏みするような商人のものではなく、藁にもすがるような、何か切実なものを求める光を宿していた。



「素晴らしい手際だった、若いの。君の名は? 少し、私の話を聞いてはもらえないだろうか」


 その声には、単なる賞賛ではない、何か重い響きが込められていた。



 空腹と疲労で霞む視界の中、俺は目の前に立つ男の、真剣な眼差しから目を離すことができなかった。


絶望の淵にいた俺の前に、運命の扉が、今まさに開かれようとしていた。



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