黄昏の図書館と、疲れた神様
不定期更新になりますがお付き合い下さい( 'ω')
ピッ……ピッ……。
無機質な電子音が、等間隔に時を刻む。
鼻の奥をツンと刺す消毒液の匂い。
視界の端に映る点滴のパックから、透明な液体がゆっくりと落ちていくのが見えた。
意識が浮上するたびに、俺――相川陽は、自分が白い部屋の天井を見上げているのだと理解する。
(ああ、またこの天井か……)
見慣れたシミの位置で、今日も自分が生きていることを確認する。
だが、その命がもう幾ばくもないことも、誰より分かっていた。
身体はまるで鉛の塊だ。
指の一本すら、自分の意思では動かせない。
痒い場所を掻くことも、寝返りを打つことさえも。
介護福祉士として二十年以上、俺は動かせない身体を抱えた人たちの手となり、足となってきた。
それが今はどうだ。
このもどかしさを、これまで何人の利用者が感じてきたのだろうか。
今さらながら、その辛さの一端を、我が身をもって知ることになるとは皮肉なものだ。
(まだ、俺の番じゃないと思ってたんだがな……)
四十三歳。早いかと問われれば、確かに早すぎるのだろう。
だが、不思議と恐怖はなかった。
多くの人生の終幕に立ち会ってきたせいか、人の命にはそれぞれの長さがあるのだと、ただ静かに受け入れていた。
脳裏に浮かぶのは、数えきれないほど握ってきた、皺の刻まれた手、手、手。
『ただ生かすのではない。その人らしく、尊厳をもって生き抜くための、最後まで手伝いをするのが我々の仕事だ』
青臭い理想だと笑われたこともある。
だが、俺はこの信念だけは、決して曲げずにやってきた。
それでいい。俺の人生は、きっと間違いじゃなかったはずだ。
窓の外が、茜色に染まり始めている。
美しい夕焼けだ。病院の窓から見るには、少しだけ、もったいないな……。
そんなことを考えていた、その時だった。
ピッ……ピッ……と規則的だった電子音が、突如として甲高いアラーム音に変わった。
ピーーーーーッ!
けたたましく鳴り響く警告音。
それが何を意味するのか、俺には痛いほど分かった。
途端に、部屋の外が騒がしくなる。
「急げ!」 「モニター!」
バタバタと複数の足音が近づき、勢いよく病室のドアが開かれた。
白い影がいくつもベッドを取り囲む。
「相川さん! 分かりますか!」
誰かが俺の名前を叫んでいる。
だが、霞がかかったように声が遠い。
視界も、まるで水中からのようにぼやけている。
「心停止! 心マッサージ開始!」
ドクン、と胸に鈍い衝撃が走る。
一定のリズムで加えられる圧迫。
ああ、これが心臓マッサージか。
利用者にしたことはあっても、自分がされる側になるとはな……。
薄れゆく意識の片隅で、そんな場違いな感想が浮かんだ。
「先生、Vfです! 除細動器の準備!」
「離れて!」
一瞬、身体がビクンと大きく跳ねた。
だが、もう痛みも熱も感じない。
ただ、自分の身体が、まるで他人事のように動いているのを眺めているだけだった。
(ああ、もう……いいんだ。みんな、ありがとう……)
懸命に俺を生かそうとしてくれる医療チームに、心の中でそっと呟く。
もう、声にはならなかった。
やかましかったアラーム音が、ひどく遠くに聞こえる。
視界が急速に暗転していく。
様々な人の顔が、走馬灯のように駆け巡り、そして、ふっと消えた。
やがて、全ての音が止んだ。
静寂が、部屋を支配する。
疲労の滲む、落ち着いた声が聞こえた。
「……ご臨終です。午後六時二十三分」
相川陽の人生は、ここで静かに幕を下ろした。
はずだった。
◇
死んだはずだった。
無機質な電子音と、懸命な誰かの声が遠のいていくあの感覚。
身体という重い枷から解き放たれ、意識が闇に溶けていく、あの静かな終焉。
それが、俺の最期だったはずだ。
だが今、俺――相川陽は、温かい光に包まれているのを感じていた。
痛みも、苦しみもない。
まるでぬるま湯の中にたゆたうような、不思議な浮遊感。
最後に感じた病院の冷たさとは似ても似つかない、穏やかな感覚だった。
ゆっくりと瞼を開く。
(……ここは)
最初に目に飛び込んできたのは、どこまでも高く、果てしなく続くように見える書架の列だった。
天井は見えず、ただ夕焼けのような優しい光が満ちている。
その光の中で、金色に輝く無数の塵が、まるで雪のように静かに、ゆっくりと舞い落ちていた。
鼻をつくのは、もうあの鼻腔の奥にこびりついていた消毒液の匂いではない。
古びた紙とインクが混じり合った、どこか懐かしい匂い。
そして、耳。
あれほど騒がしかったアラーム音も、人の声も聞こえない。
絶対的な静寂が、この場所を支配していた。
ここは、どこなのだろうか。
俺は状況を把握しようと、ゆっくりと歩き始めた。
自分の足で、地面を踏みしめている。
手足を動かすと、思い通りに動いた。
病室のベッドの上では、指一本動かすことさえ叶わなかったというのに。
ただ、妙に身体が軽かった。
生前の、鉛を飲み込んだような重さがない。
まるで魂だけで歩いているような、不思議な感覚だった。
書架の迷路を抜けた先、少し開けた空間の中心に、それはあった。
いや、それは「いた」。
小山のように積まれた無数の書物の陰に、一人の老人が、静かに腰を下ろしていた。
着古したように見えるシンプルなローブを纏い、長く豊かな白髭を、時折、骨ばった指でゆっくりと梳いている。
その姿は、まるで研究に疲れ果てた学者のようだった。
そして何より、その老人の周囲には、言いようのないほどの深い孤独と、永い時をかけて染みついたかのような疲労の気配が漂っていた。
多くの利用者と接してきた俺には、それが痛いほど伝わってきた。
身体が、自然と動いていた。
介護士としての二十年以上の習慣が、そうさせたのかもしれない。
「大丈夫ですか? ひどくお疲れのようですが……」
俺の声に、老人はゆっくりと顔を上げた。
その瞬間、俺は息を呑んだ。
瞳。
その双眸には、夜空に輝く星々をすべて溶かし込んでかき混ぜたような、深淵の色が宿っていた。
そして、その奥には、人が一生かかっても到底たどり着けない、永劫の時を生きてきた者だけが持つ、底なしの疲労が澱んでいた。
老人は驚いたように少しだけ目を見開くと、俺をじっと見つめ、やがて静かに口を開いた。
「……わしは、かつてこの世界を創った者だ。そして、お主の魂をここへ招いた張本人でもある」
その声は、静かでありながら、空間そのものを震わせるような不思議な響きを持っていた。
(世界を……創った?)
突拍子もない言葉に、俺は思考を停止させられる。
だが、目の前の存在が持つ圧倒的な存在感は、その言葉がただの戯言ではないと、魂に直接語りかけてくるようだった。
俺が言葉を失っていると、老人は――神は、話を続けた。
「日本の国、東京という街で生を受け、相川陽と名付けられた……」
「えっ……」
神は、俺の人生を淡々と語り始めた。
まるで、一冊の本を読み上げるかのように。
ごく普通の家庭に生まれ、学生時代を経て、介護福祉士を志した日のこと。
初めて利用者の「死」に直面し、自らの無力さに打ちひしがれた夜のこと。
それでも『その人らしく、尊厳をもって』という信念を貫き通した、二十年以上のキャリア。
そして、自らが病を得て、静かに最期を迎える、ついさっきの瞬間まで。
その語りは、俺自身よりも、俺の人生を正確に捉えているかのようだった。
神は語り終えると、その深淵の瞳で、俺の瞳を真っ直ぐに見据えた。
「相川陽、享年四十三。……その魂の履歴、相違ないな?」
俺に、否定する術はなかった。
自らの人生と、そして「死」を、これほど明確に突きつけられては、もう何も言えない。
ただ、圧倒されながらも、静かに頷くことしかできなかった。
俺が肯定したのを見て、神はどこか安堵したように、ふっと息をついた。
「そうか……。数多の魂が生まれては消える中で、お主の魂はひときわ強く輝いて見えた」
神は、自らの疲労の原因を語り始めた。
永すぎる時の中で世界を維持するうちに心身をすり減らし、そして何より、永劫の孤独に苛まれている、と。
「多くの終焉に立ち会い、絶望をその身に受けながら、それでもなお他者の尊厳を守り抜こうとするその輝き……。それは、わしがとうの昔に失くしてしまった光だった」
その声には、羨望のような、あるいは郷愁のような響きが混じっていた。
一拍の静寂の後、神は居住まいを正し、改めて俺に向き直った。
その瞳から、先ほどまでの圧倒的な威厳は消え、ただ深い疲労の色だけが浮かんでいた。
「相川陽よ。お主に頼みがある。大層なことではない。ただ……少しの間でいい。この老いぼれの、話し相手兼世話役になってはくれまいか?」
その言葉は、創造神としての命令ではなかった。
それは、助けを求める一人の老人の、あまりにも切実な願いとして、この静寂の図書館に響き渡った。
俺は、神の言葉に、ただ静かに耳を傾けていた。




