わだつみのこどもたち(6)
その人物が一葉夫婦の暮らす家にやって来たのは、羽衣島を出てから幾月か経って、ようやく本島での慌ただしい暮らしにも慣れてきた頃のことだ。
「すっかり職人の女房が板についたようだね、一葉」
前掛けと襷掛け姿でバタバタと立ち働き、そろそろ夕飯の支度をしなきゃと外に出たところで突然声をかけられて、一葉は驚いてしまった。
自分の前には、懐手をした細身の男がすらりと立っている。
羽衣島で生まれ育った人間でありながら、ごくたまにしか島で見かけることがないという、変わり者だ。
「七夜じゃないの。どうしたの?」
しかもさらに驚くことに、彼はどういうわけか、傍らに一人の男の子を連れていた。
二太や三太よりも少し上か、というくらいの年齢のようだが、一葉にはまったく見覚えがない。つまり、羽衣島の住人ではないということだ。
誰? という疑問と、なんでまた子ども、という困惑がそのまま顔に出てしまったが、七夜はまるで気にした素振りもなく、にこにことした笑いを貼りつけている。島だろうが町中だろうが、この男はどこの景色にもするっと馴染んで違和感がない。
男の子は七夜の隣に黙って立っているだけで、自分から口を開くことはなかった。挨拶はしないが、物怖じする様子もなく、じっと一葉を見つめている。
妙に目に力のある子どもだわ、と一葉は心の中で思う。
暗さと明るさが同居しているかのような。彼からは、このくらいの年頃の男の子に見られる無邪気さや負けん気や好奇心などが、ほとんど感じられない。それがなぜだか、ひどく痛々しくも見える。
その男の子には、ひっそりとした影の気配があった。
「どうしたの、とはご挨拶だね。俺のようないい男に会えて、もうちょっと嬉しそうな顔くらいしたらどうだい」
「なんであたしがそんな顔しなくちゃいけないのよ」
七夜とは、ただの顔見知りというくらいの関係である。珍しいものを見るような気分はあるが、これといって会えて嬉しいというほどではない。目を瞬いて問うと、七夜は嘆くように天を仰いだ。
「あーあ、これだから決まった男がいる女は嫌なんだ。普通なら誰だって俺の姿を見れば、『あらよく来てくれたわねえ』って満面の笑みで歓待して、シナのひとつでも作るってのにさ」
「相変わらずね」
いつものことながら臆面のないことを堂々と言う七夜に、一葉は鼻白んだ。
「あんたは確かにおそろしいほど整った綺麗な顔をしてるけど、この世の女のすべてが自分に惚れて当たり前だなんて考えるのは、いい加減やめなさいよ」
「いや、すべてではなくても、ほとんどの女は俺に惚れるでしょ。そうでないのは、他に想い人がいる女だけだよ。つまらないよなあ、あっちでもこっちでも」
実際、ぶつぶつと不満を漏らす七夜の背後では、通りを歩く女たちがちらちらと視線を向けては頬を赤らめている。これだけ注目を集める容姿をして、一体何が「つまらない」のかと一葉は呆れた。
彼のすぐそばでは、男の子が完全に醒めた顔で知らんぷりを貫いていて、その対比がなんとも可笑しい。
「で、その子は何なの? あんたの隠し子……にしちゃ、大きいわね」
「笑えない冗談はやめてよ。こいつはちょっと訳ありで、俺が預かっているんだ」
七夜はそう言って、男の子の頭にぽんと手を置いた。
子どもは反発するでもなく、かといって頷くでもない。無愛想というより、ほとんど自己主張をしない性質であるようだ。
しかしなぜか人を逸らせないものを持っている。不思議な存在感のある子だという気がした。
「あんたに子どもの世話ができるとは思わなかったわ」
「いやあ、こいつは見かけほど幼くはないよ。これから少しずつ、俺の仕事を覚えていってもらおうと思ってさ」
「仕事……って、なんだっけ」
そういえば、と思って一葉は首を捻った。
七夜は本島で仕事をしている関係で、こちらとあちらを行ったり来たりすることが多く、そのために羽衣島にいることがあまりない、というのは知っている。
しかし、その「仕事」が具体的に何であるかは聞いた覚えがなかった。
「色男に生まれたからには、世の女たちを喜ばせてやるのが俺の仕事だよ」
七夜はにっこり笑って、とぼけた答えを寄越した。
言う気はない、ということなのだろうと察して、一葉は追及を諦め、ため息をついた。海賊島で育ったのだから、一葉にだって、触れていいものとそうではないものとを嗅ぎ分けるくらいの分別はある。
「それで、なんの用? たまたま通りがかった、ってわけじゃないんでしょ」
ようやく最初に戻ってそう問いかけた時、家の中から信吾が顔を出した。
「一葉、お客さんかい?」
遠慮がちに口を開いて、気がかりそうに七夜と一葉とを交互に見比べる。七夜のすぐそばにいる男の子も視界に入らないはずがないのに、彼の目がそちらに向くことはなかった。
七夜はなにしろ目立つ顔をしているから、無理もない。
「羽衣島の知り合いよ、信さん」
答えてから、あらぬ不安を抱いているらしい信吾のために、付け加えてやった。
「あたしにとっては、信さんのほうがずーっといい男だから、心配しなくて大丈夫」
笑いかけたら、信吾が顔を赤くした。七夜がまた「あーあ」と嘆くような声を出す。
「だから新婚のところに行く役目なんて嫌だって言ったのに……本当にまったく、あっちでもこっちでもさ」
意味の判らないことを、不満げにぶつぶつ呟いた。
***
「頭からの文を持ってきたんだよ。今もこっちのことを気にしてるだろうから、ってさ」
二人を家の中に招き入れると、上がり框に腰を下ろして、七夜が懐から折り畳まれた紙の束を取り出した。男の子は土間のところで、作りかけの竹籠や削るための小刀などをしげしげと眺めている。
「文?」
二人分の白湯を差し出してから、一葉は首を傾げた。
「頭って……」
千船ではなく、千早のことだろうか。
しかし、手渡されたものを受け取り、ぱらりと開いてみた一葉は、そこで眉尻を下げてしまった。
そこには見事な手跡で、びっしりと美しい文字がしたためられている。困ってしまって、信吾のほうを振り返ってみたが、そちらも申し訳なさそうに首を横に振った。
「あの……七夜、悪いんだけど、あたし、字は……」
別に一葉だけが特殊というわけではなく、羽衣島でもここのような本島の下町でも、住人は無筆であることが多い。普通に暮らす分には、そんなものは必要ないからだ。
簡単な文字だけならともかく、ここまで流暢に記された文が読めるはずがない。
「だからそのために、俺がここに来たんじゃないか。そこまで含めて命じられた使いなんだ、ちゃんと読んでやるよ」
七夜には、この文が難なく読み解けるらしい。
顔がいいことよりもそちらのほうがずっとすごいのではないかと一葉は思ったが、彼は自分の顔について口にする時のような自慢げな素振りをちらとも出さなかった。やっぱり変わった男なのだ。
「これ、千早が書いたの?」
島の頭になるべく育てられた千早は、他の島民たちと違って、幼少の頃からそういった知識も叩き込まれている。とはいえ、これほど……と驚きながら出した一葉の問いに、七夜は「いや」と笑って手を振った。
「あの人も手筋は悪くないんだけど、癖があって、ちょっと読みにくいんだよね。それに大雑把で、文面は素っ気ないし。だからこれは、身内に代筆してもらったんだ」
「え? 千早の身内って、でも」
伏せっている千船が、こんなに長い文を書けるとは思えない。訝しげに問い返して、はっとした。
目を大きく開けて見ると、七夜は何も言わずただ口の端を上げている。それで合点がいって、自分の唇も綻んだ。
ゆるゆると、喜びの感情が胸の中に広がってくる。
そうか、それで、「あっちもこっちも」か──
「二人で頭を突き合わせて、何を書こうどこから書こう、ああでもないこうでもないって悩みながら仕上げた文なんだから、身を入れて聞いてよね。ああそうだ、それよりもまず……」
そこで気づいたように、七夜が一葉と信吾を見た。
「とりあえず最初に、これを言っておこうか。あんたの親父さん、元気でやってるから心配いらないよ」
一葉と信吾は顔を見合わせ、それから七夜に目を戻した。
一葉は自分の胸に当てた手をぎゅっと握りしめ、信吾は真面目な表情になって背中を伸ばす。
「あんたが出て行ってから、羽衣島ではちょっといろいろあってね」
「いろいろ?」
その言い方に含むものがあることに気づいて、緊張の混じった声で訊ねたが、七夜はなぜかちらっと土間の男の子に視線を飛ばした。
そこにいる子どもはいつの間にかまっすぐに姿勢を正し、神妙な顔つきをこちらに向けている。
「その話は長くなるから、また後にしよう。でもとにかく、昔からのやり方を踏襲するだけじゃいけないんじゃないかってみんなが危機感を抱きはじめて、最近は島全体であれこれ試行錯誤しているところなんだ。このご時世、何が起こるかわからないんだし、平和を守り抜くためには変革していくことも必要だろう? それであんたの親父さんのように経験豊富な人材には、積極的に次の世代を育成してもらおうってことになってさ」
思いもかけない話に、一葉はびっくりした。
「育成って」
「まあ要するに、まだちょっと海賊船に乗るには早いかな、っていう年頃の連中に舟の扱い方のいろはを教える、指導役だね。千早がやってくれないかと頼んだらしいよ」
「指導役?」
またびっくりだ。
舟なんてものは、ある程度大きくなったら無理やり乗せて頭ではなく身体で覚えるもの、誰かが教えることもないから自分で見て勝手に学べ、というのが羽衣島で代々受け継がれてきたやり方だったはずなのに。
「甘やかしすぎだって意見もあったけどね。でも俺は、いいんじゃないかと思ってるんだ。経験者に基礎からきっちり教えてもらえるってのは、誰にとってもこれからの財産になるはずだから」
「それを、お父ちゃんが?」
唖然とした。
あの無口な父が、子どもたちに舟の乗り方を教える姿は、なかなか想像が難しかった。厳しくも怖くもないが、愛想というものもまったくない。そもそも子どもというものも、得意ではなかったはずだが。
七夜がくすっと笑った。
「わりと苦労してるみたいだね」
だろうなあ、と一葉も思う。
「でも、けっこう楽しそうでもあるよ。どうしたらわかりやすく説明できるかって、いろいろ考えて工夫してる。あれで案外、子どもたちには懐かれているようだし。『源じい』なんて呼ばれてさ」
爺扱いはまだ早いのではないかとは思ったが、源じい源じいと子らに呼ばれてまとわりつかれながら、艪の操り方を丁寧に教える父親の姿が頭に浮かび、胸が熱くなった。
きっと父は不器用ながらも一生懸命、その子たちに毎日教えているのだろう。あの少ない口数で、海の上で培ってきた自分の技術や経験を、なんとかして余さず伝えてやろうとするだろう。自身はもう舟を操れなくとも、新しい世代に受け継がれていくものを見て、きっと喜ばしく誇らしく思うだろう。
──そうやって、寂しがる暇もないくらい賑やかな毎日を送っているのだとしたら。
それは一葉にとっても安心だし、嬉しいことだと思う。
本当に、嬉しい。
眦に滲む涙をそっと袖先で拭ったら、信吾が一葉の肩に優しく手を置いた。
「七夜、千早に──頭に、伝えてもらえる? ありがとうって。一葉が心から、お礼を言っていたって。頭があの島とあそこに住む人たちを守ってくれるから、あたしは今日も安心して生きていけるって」
一葉が頭を下げると、七夜は今までとはちょっとだけ違う、大人びた笑みを浮かべた。
「ほんの数年先には、親父さんに乗り方を教わった連中が、頼まなくとも、ここと羽衣島との間を舟で往復してくれるさ。いつでも帰って、頭に直接そう言ってやりゃあいい」
「うん……うん」
涙で崩れた声で返事をして、何度も頷く。信吾のほうを向くと、彼もまた同じように何度も頷いて、微笑んだ。
「ああ、そういえば」
湿っぽい雰囲気が好きではないのか、七夜はそこで出し抜けに声の調子を変えた。顔を動かし、土間の一点を指差す。
「あれ」
その先には、出来上がった竹細工がいくつかまとめて置いてある。今度の市に出すために、用意してあったものだ。
その中のひとつを示して、七夜が面白そうに目を眇めた。
「あれ、あんたが作ったのかい?」
そこにあるのは、竹の一輪挿しだ。
一葉は少し戸惑いながら頷いた。もちろん信吾の腕には及ばないが、わずかでも手伝いになるだろうかというつもりで作った一輪挿し。市に持っていく時には、摘んだ花を挿してそのまま出すことにしている。
可憐な彩りが人の目を引くし、たまに花ごと買ってくれる客もいるからだ。
「あれが、どうか?」
「いや、羽衣島でも、あれとまったく同じものを見たなと思って。……よく、綺麗な白い花が飾ってあるよ」
七夜はなんとなく意味ありげにそう言って、にっこりと笑った。
その時、男の子もまた同じ場所に目をやって、口を一文字に結んでいることに一葉は気づいた。
彼が見ているのはそこにある一輪挿しであり、別のものでもあるのだろう。両脇に垂らされている手を見ると、拳が強く握られている。
何かを思い出し、何かに耐えているのか──まだ幼さの残る顎の線がずいぶんと固い。
「……さて、と」
七夜が顔をまた一葉のほうへと戻して、おもむろに文を広げた。
男の子がぴくっと小さく肩を揺らし、こちらを向く。
まるで、罰を言い渡されるのを待つ咎人のような顔をしていた。
一葉はその彼と目を合わせて、ゆっくりと微笑みかけた。
伝わるだろうか。何があったにしろ、何を抱えてここに来たにしろ、一葉はそれを責めるつもりも非難するつもりもない。自分もまた同じく罪人であるからだ。
大事なものを掴み取るために、大事なものを手離した。
人はそうやって生きていかねばならないこともある。時につらく苦しくとも、重いものをなんとか喉の奥へと呑み下して。
けれど間違いなく、嬉しいことも、楽しいこともある。
七夜が目を落とし、穏やかな声で文を読みはじめた。
一葉はそれに耳を傾けながら、静かに目を閉じる。
聞いたことのない、涼やかで優しい声が、そこに重なっているような気がした。心地よい潮騒の音に似て、一葉の胸を打つ。
故郷の匂いまでがしてくるようだ。
一葉が生まれ育った懐かしいあの島は、いつも海と共にあり、海に守られ、海に救われ、海に愛される。
それに恥じない自分であるために、明日もまた、頑張ろう。
明るく美しい未来の夢が、また新たな蕾をつけようとしていた。




