わだつみのこどもたち(5)
一葉が家に帰ると、そこには父親がいた。
いつも朝から晩まで外に出て何かしらの仕事をしている父が、こんな時間に家の中にいることなど滅多にない。それでも一葉はなぜかまったく驚く気にならなかった。普段なら、身体の具合でも悪いのかと慌てて問いかけていただろうに、そんなことも頭にのぼらなかった。
自分でも不思議なくらいの冷静さで、この現状を当たり前のように受け止めている。
どうしてか、父はここにいるはずだ、一葉が来るのを待っているはずだと、そんな確信めいたものがあった。
父親はこちらに背中を向けていた。藁を綯い、荒縄を作っている。片手が不自由になったことに早く慣れなければと、父は以前にもましてそういった手作業をするようになった。
よほど集中しているのか、一葉が家の中に入って行っても振り返ることもない。
「……お父ちゃん」
すぐ後ろに膝を揃えて座り、声をかけたが、父の手は止まらず、背中も動かないままだった。
一葉は両手を床につき、その背に向かって深々と頭を下げた。
「──どうしても一緒にいたい人がいるの。あたしを本島に行かせてください」
床に額がくっつくほど身を伏せて、そう言った。
言い訳も弁明もしたくなかった。自分本位なのは百も承知である。けれど問い詰められるにしろ、責められるにしろ、まずはここからはじめるべきだと思った。自分のいちばんの願いを口にし、頭を下げて頼むこと。
一葉は一葉の出来ることをして、逃げず諦めず、自分にとって最善の道を模索しなければ。
口から出た声は静かだったが、両手は小さく震え続けている。しんとした静けさが全身を締めつけるように息苦しかった。
父は何も言わず、黙っている。縄を編む手の動きは止まったが、やっぱりこちらを振り向かない。今この時、父がどんな表情をしているのか、娘の言葉に失望しているのかも、顔を下に向けたままの一葉には確認のしようがなかった。
時が止まったように、二人とも動かない。ぴんと張りつめた空気の中で、先に時を戻したのは父のほうだった。
ふはっ、と気の抜けたような息を吐きだして、ようやく父はこちらを振り返った。
「……やっと決めたんだなあ、一葉」
その声には驚きも怒りもない。どこかのんびりとした安堵の混じる口調に、一葉は目を大きく開けて顔を上げた。
身体ごとこちらを向いた父は、目尻を下げて笑っている。
ああやれやれと、重い荷物を下ろす時のような顔をして、小さなため息をついた。
「一体いつになったらお前がそう言うのかと、ずーっと待ってたんだ。こんなに時間がかかるとは、正直思ってもいなかった。最近は頭だけじゃなく、腹のあたりまできりきり痛くなっていたくらいだ。俺の辛抱が尽きる前に、お前のほうからそう言ってくれて、本当によかったよ」
よかった、よかったと何度も言って、父がうんうんと頷く。
心臓が何かに絞られるようにぎゅっと収縮した。床についた手を拳にして握る。
瞳を透明な膜が覆った。
「お……お父ちゃん」
一葉の掠れた声に、父はまたひとつ大きく頷いた。
「本当のところ、だいぶ前から気づいてたんだ。いや正しくは、お喜四が生きてた頃、そう言ってたんだ。『どうやら一葉は本島に好いた人がいるようだねえ』って」
「お母ちゃんが……」
茫然として呟く。生前の母は、自分に対しては一言もそんなことを言わなかった。本島に行ってくるねと声をかけても、ああそう気をつけて、という言葉だけで送り出してくれていた。
夫婦の間にそんなやり取りがあったなんて、一葉はまったく知らなかった。
「自分で話す気になるまで、あたしたちは知らんぷりしていようねえって、楽しそうに笑ってな。そしていつか、一葉がその相手のことを話してくれたら、その時は」
父が懐かしむように目線を遠くに飛ばした。空中に据えられたその目は、在りし日の母の笑い顔を見ているのだろう。
「……その時は、必ず笑って背中を押してやろうと。一葉が選んだ男に間違いはない、きっと幸せになるだろうから、何も言わずにただ送り出してやろうと。俺とお喜四で、固く約束していたんだ」
一葉の喉が詰まった。絞り出すような声だけがかすかに漏れる。
さらに強く拳を握ったが、目からぼたぼたとこぼれ落ちる大粒の涙は自分ではどうしても止めようがなかった。
父はそんな一葉を見て、痛ましげな顔で微笑んだ。
「悪かった、一葉。お喜四があっという間にあの世にいって、俺もこんな身体になっちまってよ。お前はお前の行きたいところに行けばいいって、何度も言ってやりたかったんだけど、俺のほうからそんなことを口にしたら、お前はもっと自分を押さえ込んじまうだろう? 大人しそうに見えて、お前は昔からけっこう頑固なところがあったからな。お前が自分でその気になるまで──自分で決めて、自分の口からそう言うまで、じっと待ってるしかなかったんだ」
悪かったなあ、ともう一度言って、腹の奥に溜まっていたものをすべて外に出すように、大きな息を吐きだした。
「お喜四もきっと、あの世で気が気じゃなかっただろうさ。夢の中に出てきても、いつも心配そうな顔をしてた。でもこれで、あいつも笑ってくれるだろう。よかったよかったって。やっと一葉が自分の幸せを掴む気になってくれたって。……俺も本当にほっとした。これでようやく、お喜四との約束を果たせる」
しみじみとした声に、ますます涙が溢れて止まらない。
身を折って床に突っ伏し、ごめんなさい、ごめんなさいと繰り返し謝って泣きじゃくる一葉の肩に、父の不自由な、けれど大きく温かい手が乗った。
「これからだっていくらでも、つらいことや苦しいことはある。でもちゃんと戦って、胸を張って生きるんだぞ、一葉。……どこに行ったって、お前は海賊島の娘なんだから」
父の声は、どこまでも深く優しく、寄せては引いていく波の音に似ていた。
***
一葉がこの島を出て行くという話が広まると、あちこちでいろんなことが囁かれた。
父親を捨てていくつもりかと眉をひそめる人もいたし、あまりにも自分勝手だと非難する人もいた。でも、「何かあればすぐ舟を出してやるから」と言ってくれる三左のような人もいたし、源六さんのことは任しておきなと頼もしく胸を叩いて請け負ってくれる隣人女性のような人もいた。
一葉はそういう人たちみんなに同じように頭を下げて、自分がいなくてもなるべく父親が不便を感じないように、家の中や周りのものを気忙しく整えた。そんなことより自分の準備をしろと父親には何度も言われたが、どうせ持っていく荷物なんて少ししかない。気がかりなことは山ほどあるが、なるべく悔いのない形でこの家を後にしたかった。
そうしていよいよ明日には羽衣島を出発する、という時、その娘は賑やかな連れと一緒にやって来た。
「一葉あー、ひなを連れてきてやったぞ!」
「おれたちが案内してきたんだぞ!」
家の外で、大威張りで声を張り上げているのは二太と三太である。
つい先日枯れた花のように萎れていたのが幻だったのかと思うような元気の良さだ。一葉が驚いて出て行くと、娘が少しはにかむような顔で立っていた。その両脇に子どもが一人ずつくっついている。
「案内?」
首を傾げて訊ねると、娘が大事そうに両手に抱えていたものを、こちらに向けて差し出した。
これ──と目を瞠る。
一葉が預けた、母の着物だ。
「直してくれたの?」
そう言いながら渡されたものを検めて、さらに驚く。
洗い張りまでしてくれたのか、着物はすっかり綺麗に仕立て直されていた。元がずいぶん古いものなので限度はあるが、汚れをさっぱりと落として丁寧に繕われたその着物は、眠りから目覚めたかのように生き生きとして一葉の手元に戻ってきた。こうして眺めているだけで、これを着て元気に動き回っていた母の思い出が、鮮やかに蘇ってくるほどに。
貧相な一輪挿しひとつぽっちじゃ、とても見合わない労力がかかっている。
「一葉が本島に行くって聞いて、急いで仕上げたんだぞ!」
「今朝出来上がったから、届けにきてやったんだ!」
二太と三太は手柄顔だが、娘のほうは恥ずかしそうに縮こまっている。
一葉は子どもたちを見て、それから改めて娘に目を戻した。
元から儚げなところがあったが、以前よりもまた少し痩せただろうか。顔色もあまり良くはなく、風に吹かれたらそのまま飛ばされそうなくらい頼りない。だから二人の子どもが両側から彼女を支えるようにして守っているのだろう。
──でも、その瞳にはしっかりとした輝きがあるように思える。
何があったのか一葉には知る由もないが、何があったにしろ、娘はたぶん、いちばん苦しいところをどうにか乗り越えたらしい。二太と三太の明るい顔からでもそれは推し量れた。
ふわふわと離れていきそうだった魂を、彼女はまた自分のところへと引き寄せることが出来たのだ。
よかった、と心から思った。
「ありがとう。こんなに綺麗にしてもらって、お母ちゃんも喜んでる。あたしも、とっても嬉しい。ほんとに、ありがとうね。……ひなちゃん」
にこっと笑いながらそう言うと、娘も柔らかく目元を和ませた。
「よし帰ろうぜ、ひな!」
「じゃあな一葉! いつか本島に遊びに行ってやるよ!」
元気に別れの挨拶をして、二人の子どもが陽気に手を振る。それから何を思ったのか、その小さな手で今度は娘の手をぎゅっと握り、細い身体を回転させるようにくるりと廻った。
そして、二人で声を揃えて弾けるように笑った。
娘は少しびっくりしたような顔をしたが、すぐに楽しげに微笑んだ。
ただ子どもたちが無邪気に戯れているだけなのに、それはひどく胸に迫る光景だった。
──何か困ったことがあっても、どうしたらいいか判らずに、一人きりでくるくる廻るしかなかった娘が。
今はこうして、誰かの手と笑顔が共にある。
声も記憶も、何も持たない娘が、未知の場所で、自らの努力だけでいろいろなものを乗り切り、勝ち取り、築き上げたもの。
……その姿は、ほぼ身ひとつで本島に行く一葉に、奮い立つような勇気を与えてくれた。
***
本島へは、千早が舟に乗せて送ると申し出てくれたので、それに甘えることにした。
仕立て直されたばかりの母の着物を身につけ、わずかな手荷物だけを持って、一葉が羽衣島を出発したのは、朝のうんと早い時刻だ。
少しずつ遠くなっていく浜には、誰の姿もない。
「源さんはどうした?」
艪を操りながら千早に問われ、一葉は少し笑った。
「今日はいろいろやることがあるから、見送りに行けないって」
「しょうがねえな、親子して」
千早が呆れたような顔をするのももっともだと思う。
結局、一葉は父親に、改まった挨拶をすることも出来なかった。育ててもらったお礼と、きちんとした謝罪をしたかったのに、その雰囲気を察するとすぐに父親が逃げてしまうからだ。
俺はそういうのは苦手だから、と言い張る父は、一葉が家を出る際にも、「元気でな」と一言短く言っただけだった。
無口な父らしいと言えばそうだが、一葉の心はどうしても重くなる。決心したといっても、自分の中にはまだ揺れるものが残ったままだ。父への想い、信吾への想い、どちらが大事でどちらが上かなんて選べない。身を引き裂かれるような不安と寂しさは消えず、どちらを取ってもこの先後悔し続けるのは同じなのだろう。それを背負ったまま、一葉は信吾の隣で生きていくことにした。でも、やっぱり──
「生きていくって難しいね、千早」
舟に打ちつける水音を耳にしながら、一葉はぽつりと言った。
波が押し寄せては引くたび、舟も浮き上がり沈み込み、大きく揺れる。まるで人生そのものだ。
良いことと悪いことが交互にやって来て、迷いと悩みに揉まれながら、喜び悲しみ、それでも進んでいくしかない。
激しい流れの中、慣れた手つきで艪を操る千早は、普段なら笑い飛ばしてしまいそうな一葉のその台詞に、少し複雑な顔をした。
「まあなあ」
どうやら、自分も思うところがあるらしい。
「でも、しょうがねえだろ。難しくても大変でも、やっていかねえと。それにそう悲観することばかりでもない。嬉しいことや楽しいことだって、間違いなくこの世にはあるんだからさ」
妙に実感がこもっている。一葉はほんのちょっと意地悪したい気分になって、訊ねてみた。
「千早にとっての嬉しいことや楽しいことって何?」
「俺のことはいいんだよ」
「たとえば、どこかの誰かが元気になって笑えるようになったこと、とか?」
その途端、舟を漕ぐ千早の手の動きがおかしくなった。ガコッ、と変な音がして、舟が不安定に揺れる。別に「誰」とは言っていないのに。
「……なんのことだよ」
「大したことじゃないのよ。千早もそりゃいろいろと難しくて大変なことがあるんだろうな、と思っただけ」
「だから、なんのことだよ!」
怒ったような顔をしているが、耳のあたりが薄っすらと赤くなっている。この男にも意外と可愛げというものがあるようだ。
頭の名を背負い、羽衣島という場所に縛られることを自ら選んで受け入れている千早にも、難しいことや大変なことが、きっとたくさんあるのだろう。
だけど、せめて。
好きな相手に親切にしたり優しくしたりするくらいは、自由に出来るといいなと思う。
──海から流れてきてあの島で芽生えた種が、この先きちんと根付き、花を咲かせ、実を結ぶといいと願う。
起こってしまった不幸な出来事を、これから幸福に変えていくことが出来たらいい。
「あのね、千早」
「うん」
「あたし、これからは、海神さまに見捨てられないように、じゃなくて、海神さまに恥ずかしくないように、自分の生き方を決めたいと思ってる」
「……うん」
そうだな、と千早が目を細めた。
「俺も、そう思うようにするよ」
そう言ってから、何かに気づいたような声を出す。
「おい、一葉、あれ」
彼がまっすぐ伸ばした指の示す方向に、一葉も目をやった。
そして、見つけた。
離れていく、羽衣島の浜。そこにやって来た、ふたつの人影。
ひなが息を弾ませながら、波打ち際を走っていた。
彼女がぐいぐいと腕を引っ張っているのは、父だ。
「あのバカ……まだ身体が本調子じゃねえのに、あんなに走って」
千早が苦々しげに呟いているが、そんな声はもう一葉の耳には入らない。強引にここまで連れてこられたらしい父は、困惑した表情でひなを見やり、こちらに顔を向けた。
二人して走って来たのか、息が荒い。体力のないひなは、その場に座り込んでしまった。まったく、なんてお人よしだろう。少しばかり話をしただけの人間のために、わざわざこんなことまで。
まるで優しく背中を押すように。
父は立ったまま、じっと海の方向に視線を据えていた。
どんどん小さくなっていく舟の上に、一葉の姿はちゃんと見えるだろうか。
一葉はすっかり視界がぼやけてしまって、父がどんな顔をしているのかももうよく判らない。困っているのか、泣いているのか、笑っているのかも。
……でも、父が手を上げたのは、見えた。
上げたその手を、大きく振った。故郷の島を出て行く娘に向かって、それは激励なのか、叱咤なのか、愛情なのか。
身体が揺れるほどに大きく手を振っている。力の限り、何度も何度も。
「……お父ちゃ」
「ごめん、とは言ってやるなよ、一葉。源さんが聞きたいのは、そんな言葉じゃないはずだ」
千早がぴしりとした声で言う。一葉は震える手を口元に持って行って、小刻みに頷いた。
言いたいこと。言わなきゃいけないこと。父が聞きたい言葉。何を言えばいいのだろう。ありがとう? さよなら? 元気でね?
いいや、どれも違う。
「──いってきます!」
自分もぶんぶんと手を振って、大きな声で叫んだ。
泣きながら笑って、二人の姿が完全に見えなくなるまで、ずっと手を振り続けた。
***
見慣れたその家から出てきた人は、一葉が知る姿よりもずっと細くなっていた。
やつれたように頬がこけ、目の下も黒い。口元にいつも浮かんでいたはずの微笑は影もなく、ふらりとした足取りで外に出て、何かを探すかのように視線を彷徨わせた。それが癖になっているのだろうと思わせる、散漫な動きだった。
空虚な瞳が半分は諦めを、半分は意志をたたえて、後ろへと向けられる。
その目が、そこに立っている一葉を見つけて、大きく見開かれた。
唇が動いたが、そこから声は出てこない。表情が崩れるようにくしゃりと歪んだ。子どもが泣くような顔で、こちらに向かって一歩を踏み出す。
「一葉」
揺れる声で、名を呼んだ。
「信さん!」
一葉は思いきり駆け出して、その人の胸に飛び込んでいった。




