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わだつみのこどもたち(4)



 今までずっと自分一人の心に秘めていたものを言霊に乗せてしまったのがいけなかったのか、一葉はそれから頻繁に、信吾の夢を見るようになった。

 夢の中の彼は何も言わない。ただ黙って立って、一葉のほうをじっと見つめているだけだ。

 これは心底、胸にこたえた。いっそ責めたり詰ったりしてくれたら、そちらのほうがずっと楽だった。どんなに厳しい言葉でも一葉は甘んじて受けたし、ごめんなさいと謝ることだって出来ただろう。

 でも、声を出すことなくひたすら一葉を見ている信吾に対しては、何も言えずに固まってしまうだけだ。謝罪も弁明も思い浮かばない。胸が掻きむしられるようなつらく苦しい思いをしながら、自分もまた彼を見つめ返すことしか出来ない。


 そして結局一言も出せないまま目を覚まし、素っ気ない天井を眺めて、流れ落ちる涙を拭う。


 最近の一日は、いつも大体そんな風にしてはじまることが多かった。

 それでも起き上がればしゃんとして、顔を洗って朝食の準備をし、いつもと同じように身体を動かしてせっせと働いた。お喋り好きな女たちに話しかけけられたら笑顔で答え、うんうんと相槌を打ちながら耳を傾けた。たとえその話が実際は頭の中を素通りしていたとしても、表面上は普段通りに振舞っているつもりだったし、誰もそれを疑ってもいないと思っていた。

 ──が。



「大丈夫か」

 夕飯の時、真面目な表情をした父親に言われた。

 一葉は箸を動かしていた手を止め、囲炉裏の向こうにいる父の顔を見た。

「……大丈夫かって? なにが?」

 父親は利き手を悪くしてから、ほとんどのことは片手だけで日常生活を送っている。まだ慣れないために覚束ないその動きを止め、じっと一葉の顔を見つめていた。

 この目──夢の中に出てくる信吾も、こんな目をしていたっけ。


 心配そうな。そして、悲しそうな。


「ここんところ、あまり飯を食っていないだろう」

「ああ、最近ちょっと暑いせいか、あんまり食欲がないのよね。でも体調が悪いとか、そんなことじゃないから平気よ」

「顔色も良くねえ」

「そんなことないってば。お父ちゃん、気にしすぎよ。あたしはいつも通り、元気いっぱいだもの。それよりお父ちゃんこそ、無理しすぎないようにしてちょうだいね」


 笑ってそう返してから、これみよがしに持っていた椀を口元に運び、汁を喉に流し込む。

 今ひとつ味がよく判らない。近頃は何を食べても美味しいと思えなくなった。

 父親はもの言いたげに一葉を見て、もごりと口を動かしたが、結局出しかけた言葉を呑み込んで、黙ってしまった。

 沈黙が続くと家の中に静寂が満ちる。ばちばちと炎の爆ぜる音だけが響いた。

 やがて父は再び口を開いたが、次にそこから出てきたのは、意外な人物についてだった。


「あの、流されてきた娘さんな」


「え」

 一葉は大きく目を見開いた。

 あまり他人のことを話したがらない、いやそもそも自分から話題を提供することのほとんどない父親が、珍しいこともあるものだと少しびっくりした。

「お前も、会ったんだろう? 着物を直してもらうと言っていたじゃないか」

「う、うん」

 結局一葉はあの後、娘のところには行っていない。自分が顔を見せたら仕事を急かしているように思われるんじゃないか、と考えたのと、少し怖かったためだ。


 あの柔らかな笑みを目にしたら、自分はまた余計なことを話してしまうのではないか、と。


 あれから何日経ったのか、ぼんやりした頭ではよく思い出せない。五日? 十日? 娘は今もまだ千船のところに通っているのだろうか。

「あの子がどうかしたの?」

「最近、調子がよくないらしい」

 一葉はまた、え、と口を開けた。

「調子がよくないって、身体を壊したとか?」

 ぱっと頭に浮かんだのは、やっぱり病人の世話なんて、あの娘には負担が大きかったのではないか、ということだった。

「俺はよく知ってるわけじゃないんだがね。しかしどうも、千早と本島に出かけてから、急に元気がなくなったそうだ」

「本島に──」

 胸がいきなり塞がった気がした。普通に息を吸うのも難しくなって、言葉が途切れてしまう。強張った一葉の顔を、父親がまたじっと見つめている。

「あまり体力のなさそうな娘だというし、疲れが出たのかもしれんね。……そういや一葉、お前も近頃、とんと本島には行っていないようだが」

 思い出したように言われて、ますます喉が詰まった。なんでもない顔をしなくちゃ、と思うのに、意識すればするほど取り乱しそうになる。なぜ父は、こんな測るような目をして自分を覗き込んでいるのだろう?

「……別に、理由なんてないわよ。単にそんな気にならないだけ。欲しいものがあったら、誰かに頼めばいいことだし」

 引き攣ったような笑いを浮かべ、なんとかそう返した一葉に、父はただ一言、

「──そうかね」

 と言っただけだった。

 それからずっと無言のまま、二人はぎこちない食事を終えた。



          ***



 次の日、一葉は千船のところまで行ってみることにした。


 そこに娘がいるなら手伝いを申し出ればいいし、もしもいなければ、千船の様子を見ていこうと思ったのだ。一年ほど前、千船が寝込むようになってからは近所の女衆が交代で面倒を見ていると聞いていたが、娘まで体調を崩したということなら、今は人手が足りていないかもしれない。

 島内のどこかで困っている人がいたら、誰かが手を貸す。それはこの島の住人であれば当たり前に身についていることだ。母が生きていた頃は、彼女もまたちょくちょく千船のところに顔を出して、することはあるかいと声をかけていた。


 しかし行ってみると、そこにいたのは十野と二人の子どもだけだった。


 子どもは八重のところの息子たちである。この島の中でも一二を争うくらいのお喋りである十野と、喧しいという点では似たり寄ったりの二太と三太が、今日は気味が悪いくらい静かに、千船の周りでちんまりと座っている。

 まるで通夜のようではないかと縁起の悪い考えが頭を過ぎり、一葉は慌てて家の中に入っていった。


「ちょっとあんたたち、どうしたの。頭、だいぶ具合が悪いの? だったら早く誰かに知らせて──」

「いやいや、俺はなんともねえよ」


 うろたえる一葉に向かって、寝床の千船が苦笑いしながら手を振った。

 健在な頃、強く厳しく非常に頼りになる頭として島民たちを率いていた千船は、今はずいぶん頬肉が削げて覇気も弱くなってしまったが、声はしっかりと張りがあり、目には穏やかな落ち着きがある。

 今すぐにどうこうという状態ではないのを見て取って、一葉はとりあえずほっとした。


「じゃ……一体どうしたの」


 他の三人に目を向けてみるが、揃って悄然とした表情であるのは変わりない。

 いつもは陽気で屈託なく、口の動いていない時がないという十野までが唇を尖らせたままむっつりと黙っているので、胸がざわざわと騒いでくる。

 ──半年前の自分と同じく、いずれやって来る明るい明日を疑いもなく信じて、目を輝かせていた十野が。


「何かあったの? その、十野にも……」

 描いていた未来を諦めざるを得ないような出来事が、と言いかけて口を噤む。続けるのを躊躇したその先の言葉を読み取ったように、千船がもう一度手を振った。

「いや、そういうことでもねえんだよ。こいつらはただひたすら、拗ねてるだけなのさ」

「拗ねてる?」

 首を傾げてしまう。

 と、膨れていた十野が、くるりと勢いよくこちらを向いた。


「だって聞いてよ、一葉姉、ひどいと思わない? ひなちゃんったら、一人でうじうじ悩んじゃってさ、なーんにも話してくれないんだから。いやわかってんのよ、あの子が声を出せないから話せないってことは! でもそれにしたってあんまり水臭いじゃないの、これまでずっと傍にいたってのに、なんでああも一人で抱え込んじゃうのかしら本当に。何かは知らないけどそんなに重いんだったら、ちっとはあたしたちにも分けてくれればいいじゃないの。そうすりゃいつだって受け取るために手を出すわよ、あたしたちはずっとそのための準備はしてんのよ、なのにあっちがこっちに目を向けもしないんじゃどうしようもないわ。そういうところが情けないし腹立たしいしもどかしいっていうのよ。ああもうほんとにじれったいったら! それもこれもみんな千早が悪いのよ、ねえそう思うでしょ?」


 いつもよりもさらに怒涛の勢いでぶちまけられた。怒っているせいかいつもよりもさらに早口なので、何を言っているのかもよく判らない。一葉は目を白黒させたが、千船はくくっと可笑しそうに笑った。

 困惑して今度は二人の子どもたちに目をやると、そちらはそちらで泣きべそをかく手前のような顔をしてしょげ返っている。


「ひな、本島に行ってから、すごく元気がないんだ」

「飯もあんまり食わない」

「顔色だって悪い」

「夜も眠れていないと思う」

「前みたいに笑ってくれないし」

「きっと、本島で何かがあったんだ」

 交互に口を開いては、またしょんぼりと顔を俯かせてしまう。子どもながらに、本当に心配しているのだということが、痛いくらいに伝わってきた。


「……でも、おれたちには、何も言ってくれない」


 何も言わない、というのは、「口がきけないから」という理由から来るものではないのだろう。

 本人にそのつもりがあれば、声は出なくとも何かを伝えることは出来るはずだし、この子たちもここまで打ちひしがれたりはしないはずだ。

 あの娘が自分の中にあるものを、誰にも見せず、出さず、たった一人で抱え込んで、周りからの気持ちを受け取ろうとしないから。

 だから彼らは一様に傷つき、悲しんでいる。


 ──その目は、父親が一葉に向けるものと、そっくりだった。


「近くにいる人間が苦しんでいるのをただ見ているしかないってのは、案外、自分がつらい思いをするよりもずっと、しんどいもんなんだよ。切ないし、悔しいし、寂しい。誰だって、それが自分にとって大事な相手であればあるほど、そいつに楽しく笑っていて欲しいと願うもんさ。そいつが笑えば、自分も嬉しいからだ。仲間でも、友達でも、恋しい相手でも、親子でも。……そうだろう? 一葉」


 千船の静かな声が、一葉の心に突き刺さった。



          ***



 家を出て、ふらりと浜に向かった一葉は、そこで千早を見つけた。

 いつも忙しく立ち働いてばかりのその青年は、今は何をするでもなく松の木の根元に座り込んで、じっとしている。

 目線は前方の海に向かっているが、美しく輝く水面も、打ち寄せる波も、空の澄んだ青さも、ほとんど彼の目には入っていないようだった。


「……千早」


 間近まで寄って声をかけると、千早はやっと一葉の存在に気づいたように目をひとつ瞬いて、立ち上がった。気配に敏い彼にしては珍しい。今まで物思いにとらわれていたという証だろう。


「一葉か。源さんの具合はどうだ?」


 なによりも先に父親を気遣う言葉が出てくるのは三左と同じだ。利き手を悪くして船乗りをやめるまでは、いつも顔を合わせていたのだから無理もないかもしれない。海賊衆は常に危険と隣り合わせである分、仲間同士の連帯感が強い。


「たまに具合が悪くなったりすることもあるけど、あとはそう変わりないわ」

 一葉はその問いを投げられるたび返す答えを口にした。

 父親は、片手が自分の意志で自由に動かせなくなってから、稀にひどい頭痛に襲われる。しかしそれはどうも、手の負傷が原因というよりは、精神的なものから来る不調であるらしい。

 そういうことを口に出す人ではないが、父は父で、手が自由に動かないこと、舟にも乗れないことが歯がゆくてたまらないのだろう。だから朝から晩まで休むことなく働こうとする父に、一葉はあまりうるさく注意が出来ない。

 自分たち親子は、似た者同士だ。


「何か困ったことがあれば、すぐに言えよ」

「ありがとう。でも、そんなに気を遣ってくれなくても大丈夫よ」

「気を遣ってるわけじゃない。源さんもお前も、なんでも黙って自分で何とかしようとする性格だから言ってるんだ。……まったく、五平のあの図々しさを少しは見習ってほしいよ。いや、実際あれを見習ってもらっても困るんだけどよ」

 憮然とした顔でぶつぶつと訳の判らないことを言っている。一葉は軽く噴き出した。

「五平がまた何か問題でも起こしたの?」

「まあな……いずれ、あいつもどうにかしなきゃいけねえとは思ってるんだけど」

 五平は昔から島の問題児で、周りも手を焼いている。とはいえ、この小さな島の中で、露骨に厄介者扱いをするわけにもいかない。頭代理の千早としても、頭の痛い存在だろう。

「だけど今は五平のことよりも」

「ん?」

「流されてきた娘さんを何とかするのが先じゃない?」

「…………」


 千早がぴたっと口を閉じた。こちらに向かっていた視線が懊悩を孕み、ふらりと浮いて虚空へと逸らされる。


 一葉は改めて、その姿を頭のてっぺんから足の先までまじまじと眺めた。

 すらりとまっすぐに伸びた背中。しっかりと筋肉のついた長い手足。凛とした顔立ちは鋭く尖り、目元には生来の頑固さと強靭さが現れている。

 美形というのとはまた違うが、彼には十二分に人の目と心を惹きつけるものがある。子どもの頃から頭の回転が速く、大体どんなことでもそつなく出来てしまい、年上の部下にもてきぱきと指示を飛ばしたりする千早のことを、一葉は今まで、「ちょっと腹立たしいほどに隙のない男」だと思っていた。

 ……しかし、今、自分の目の前にいるのは。


 迷いも悩みも抱え、揺れる心を自分でも持て余しているような、年齢相応の一人の青年だ。


「──なんだよ」

 じろじろと見つめる一葉の視線に、居心地悪そうに千早が身じろぎする。少しだけ素直な感情が覗いて、それも意外な気がした。わりとこの間まで、触れるものを片っ端から弾いてしまいそうな、どこか張り詰めた空気を身にまとっていたはずだが、いつの間にかずいぶんと和らいでいる。そういうところが、逆に、大人びた雰囲気を感じさせた。

 以前よりも懐が深く広くなった──ような。


 その変化は、誰がもたらしたものだろう。


「なんでもない。それじゃあ、帰るわ」

「俺に用事があったんじゃないのか」

「別にそういうわけじゃないの、ただちょっと……ちょっと、海が見たくなっただけ」

 眼前に広がる海に目をやりながら、ぽとりと言葉を落とすように呟いた。


「あたし、自分がどうすればいいのか、ちっともわからなくなっちゃった。あたしはどうしたらいいんだろう。何をするのが正しいんだろう。どうすれば海の神さまに見捨てられないような答えを出せるんだろう。……それを教えて欲しくて」


 千早に向き直り、苦く笑う。

「馬鹿なことを言ってる、と思うでしょう」

 千早はぐっと口を引き結んだ後、目線を下げて小さなため息をついた。

「いや……判るよ。俺も最近はそれと似たようなことばかり考えてるからな。自分がどうすればいいか判らずに、ひたすら答えを探し求めてる」

 そう言って、真っ向から一葉と目を合わせた。


「──だけど一葉、俺はさ、その答えは『海の神に見捨てられないために』出すものじゃないと思う。自分のために、自分がこれからどうしたら後悔せずに生きていけるか、そのために見つけなきゃいけないんだと思う」


 一直線に向かってきた瞳には、強い意志の光がある。

 やっぱりこの青年は人の上に立つべく生まれたのだと、一葉は思った。

 今は少し迷っているのかもしれないが、正しい道を見つけたら、自信を持って顔を上げ、まっすぐに進んでいけるだろう。

 海神さまに愛されるのは、きっと、こういう人間だ。


 じゃあ、と目を伏せながら踵を返した。

 数歩進んだところで、後ろから「一葉」と声をかけられる。振り返る前に、千早が言葉を継いだ。

「……本島で、お前のことを躍起になって探してる男がいるそうだ」


 ぴたりと足が止まった。そのまま、固まったように動けない。


「俺の長い耳に、そういう話が入ってきたんだよ。その男は、舟に乗って港に来た人間に、『羽衣島の一葉という娘』を知らないかと、手当たり次第に訊ねて廻っているんだとさ。元気でいるのか、身体を悪くしているんじゃないか、何か困ったことが起きたんじゃないか、それだけでも知りたいと言っているらしい。食べるのも寝るのも忘れるほど必死になって、草履も擦り切れるほど駆けずり廻って、そいつは半年もの間、『一葉』って娘のことだけを、一途に待ってる」


「……っ」

 握りしめた拳が震えた。顔から血の気が引いていく。

 信さん──


「一葉」

 後ろからの声は、千船と同じように静かで、温かいものが滲んでいる。

 千船と千早もまた、よく似た親子なのだろう。何も言っていないのに、何でも知っているようなところまで、そっくりだ。


「お前はお前のための答えを出せばいい。羽衣島は昔から、みんなが互いに助け合ってやって来た。この島に住む人間はみんなが仲間だ。神はどうか知らないが、俺たちは決して仲間を見捨てない。源さんにはガキの頃から世話になったし、恩もある。今度はこっちが返す番だ、心配いらない。源さんもきっと、お前の幸せだけを望んでる。出て行ったって、いつでも戻って来ていいんだ、一葉。──島のみんながどこに行っても、いつも安心して帰ってこられるように、俺がここを守るから。そのために、俺はいるんだから」


 一葉はその場に立ち尽くしていたが、後方で遠ざかっていく足音が聞こえた。





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