ひな(30)・はじまり
ひな、と自分を呼ぶ声に目を開けると、千早が優しく微笑んでこちらを覗き込んでいた。
「……千早さま」
半ばぼんやりとしながらそう言ったら、彼はますます笑みを深めた。
その左の頬には鋭い切り傷があって、そこから赤い血が筋を伝って流れている。何かを思う前にその傷に伸ばそうとした手は、そこに行きつく手前で、大きな手によって包まれた。
「ひな、もう時間がないんだ。早くこの船から降りるぞ」
「…………」
一拍置いて、我に返った。
はっとして周囲を見回してみれば、炎が自分たちのすぐ近くまで迫ってきていた。そうだ、ここは不知火の船上なのだった、と思い出す。
「もう一人の自分」が表に出ている時、どうやらひな自身の意識はかなり曖昧になるらしい。
力を放出した瞬間、目の前の蜘蛛を避けるように無理やり方向を捻じ曲げたところまでは記憶にあるのだが、それ以降のことは、あまり覚えていないのだ。透明な壁を隔てた外側から、千早と自分のやり取りを眺めていたような気がするものの、思い出そうとするそばから、夢の中の出来事のようにするすると頭の中から消えて行くようだった。
そして今さらながら、ここに彼の姿があることに驚いた。
「千早さま、どうしてここにおられるのです」
「お前を迎えに来たに決まってるだろ」
当然のようにそう返されて、戸惑ってしまう。
「迎えに? いえ、それよりも、島は。皆さんはご無事ですか。あれから、どうなって」
「そんなのは後だよ、急ぐぞ」
千早はひなの身体を軽々と肩に担ぎ上げると、笑って言った。
「──お前がどこに行っても、追いかけて、攫いに行く。そう言ったろ?」
そしてそのまま、炎の中を走り出した。
千早に担がれたまま船室から甲板に出て、そのあまりの炎の強さに言葉を失った。
轟音を立てながら、船のいたるところから吐き出される火炎は、闇をも赤く染め上げていた。
天へと昇っていく猛烈な黒煙で、ほんの少し先すら見通せないほどだ。火の粉がまるで噴出するように踊り狂っている。炎と熱風が巻き上がり、息も出来ない。
八つの頃、無自覚に力を暴走させた結果、火の海と化した父の屋敷での光景が否応なく脳裏に甦った。額にびっしりと汗をかき、全身の震えが止まらない。
千早がそれに気づいたのか、身体を支える手にぐっと力がこもった。
「海に飛び込むぞ、ひな。一度深くまで沈むから、怖いだろうと思うけど、絶対に暴れるな。俺を信じて、息を止めて、力を抜いていろ。何があっても手は離さないから」
炎の間を通り抜け、一直線に船の縁へと駆けて行くと、ひなを肩に乗せながらそこに上って、千早は断固とした口調でそう言った。
「はい」
ためらわず頷く。
「よし、大きく息を吸え。──行くぞ」
その言葉と共にふわりとした浮遊感があり、次の瞬間にはもう、どぼんという音を立てて、水中に入っていた。
顔に、頭に、着物に、冷たい海の水がまとわりつく。ごぼ、と口から出た息が小さな泡になった。着物の裾や袖が手足に絡まる。息を止めて、力を抜いて、と千早の言葉を頭の中で繰り返した。
──俺を信じて。
はい、と胸の内で返事をした。
しばらく海の底のほうへと沈んでいく感じがしたが、ちっとも怖いとは思わなかった。千早の手は、しっかりとひなを抱いたまま、いつもと変わらぬ落ち着きを保っている。外の音が遮断された音のない真っ暗な世界で、その腕さえあれば、ひなは心から安心できた。
沈んでいくのが止まると、千早はひなを抱えて、空いた片手で水を掻き分けはじめた。水の抵抗をものともせず、力強い動きで、ぐんぐんと浮上する。なるべく彼の泳ぎの負担にならないように身を任せ、少し顔を上げると、頭上に赤い色がゆらゆらと揺らめくのが見えてきた。
燃えている炎の色だ。それが次第に広がってくる。水面はもうそれほど遠くない。
海上に出ると、二人して、同時にぷはあっと息を吐き出した。ようやく空気をいっぱいに吸い込む。心臓がばくんばくんと音を立てて、頭にまで響くほどだった。
荒い息の合間に、「大丈夫か、ひな」と千早が声をかけてくる。炎と月に照らされて、彼の頬の傷からまた薄っすらと血が滲んでいるのが見えた。
「はっ……は、はい、大丈夫、です。ち、千早さま、傷に、海水が沁みて、痛くありませんか」
忙しく息継ぎしながら問うと、息を大きく吸ったり吐いたりしていた千早は、一瞬きょとんとして、すぐに噴き出した。
「お前、なんの心配してんだよ」
立ち泳ぎをしながら、乱れた呼吸のまま笑い続け、「勘弁しろ、苦しい」と文句を言う。苦しいのなら笑わなければいいのに。
「……やだねもう、せっかく助けに来てみれば、二人で楽しくいちゃついてるし」
背後からの声に振り向くと、すぐそばまで小舟が近づいてきているところだった。舟を漕いでいる七夜という青年は呆れた表情をして、その傍らにはコハクの姿があった。
「ひな、早く乗って」
そう言って差し伸べられたコハクの手を、ひなは掴んだ。
千早が身体を持ち上げて手助けをしてくれたが、水を吸った着物が重くて自由に身動きが取れない。苦労してなんとか舟の上に乗ることが出来たと思ったら、すぐにコハクに飛びつかれた。
「よかった……ひな、生きててよかった」
「コハク……」
目の前の小さな頭をそっと撫でる。彼も自分と同じように頭のてっぺんからつま先までびっしょり濡れていたけれど、腕の中でぴったりとくっついた身体は温かった。
「……ここは、まず俺と抱き合うところなんじゃないのか?」
「大人げないこと言わないの、頭」
続いて舟に上がった千早は、ひなとコハクを見て非常に不満そうな声を出し、七夜に窘められた。
──と、その時、大きな歓声が上がった。
びっくりして顔を向けると、羽衣島の浜で、島民たちがこちらを見て手を振っていた。
おおい、お前たち、早く帰ってこいよう、と笑いながら叫んでいる。
「頭、こっちはみんな、片づきました! 俺たち全員無事ですから、安心してください!」
「おう!」
三左の声に、千早が手を挙げて応えた。
それから、こちらを振り返る。
「──さあ、帰ろうぜ」
目を細めて言われた言葉に、はい、と頷く。背中に廻ったコハクの手が、ぎゅっと着物を握った。
彼の頭をもう一度撫でて、ひなは炎上を続ける不知火の船に目をやる。
すっかり炎に包まれた船は、少しずつ形を失いながら、ゆっくりと海に沈んでいこうとしていた。柱が倒れ、舳が燃え尽き、脆い黒色の塊となって、水中にぼとぼとと崩れ落ちる。立ち昇る煙と舞い上がる火の粉の中で、最後の一飲みをするために、炎が勢いを増した。
──闇夜に、紅蓮の花が咲いているようだ、と思った。
なんて美しく、なんて禍々しい色だろう。
あれは間違いなく、自分の力のもたらしたものだ。自分の意志でした行為の、結末だ。目を逸らさずに、ひなは沈んでいく船をじっと見続けた。
生きていくということは、時に厳しく、時に困難なこともある。これからだって、いくらでも、つらいことや苦しいことはあるだろう。降りかかる不幸に打ちのめされることも、悲しい別れを経験することも、もちろんあるだろう。そのたびに、泣いて、怒って、不安になって、身もだえして、歯を喰いしばらなければならないのかもしれない。
けれど、立ち向かって、乗り越えて、地に足をつけ進んでいかなければ。
人の手は小さくて、努力だけではどうにもならないことは、世の中にたくさん存在している。でも、努力でどうにかなることだって、きっと、同じようにたくさん存在している。運命は、自分自身の手によってしか、切り拓けない。
不幸と悲しみがあり、幸福と喜びがあり、それらを順に繰り返しながら、愛情を見つけ、信頼を結び、希望を見出して、そうやって人は、少しずつ少しずつ、強くなってゆくのだ。
ひなはもう、一人じゃない。
「……帰りましょう、コハク」
静かな声で言った。
帰ろう。
羽衣島へ。
わたしたちが、生きる場所へ。
***
──それから。
千早は夜が明けきる前に船を出し、羽衣島の男たちを引き連れて不知火島へ向かった。
「あれで頭はなかなか悪賢いよ」
すべてが終わってから七夜が感心したようにひなに話してくれた内容によれば、千早はその時、船に真っ赤な布をつけ、捕らえた不知火の男を先頭に立たせるよう指示したらしい。
大半は羽衣島へ行っていたとはいえ、不知火島にはまだ留守居役の男たちが残っていた。普段であれば、近づく余所の船は有無を言わさず攻撃を仕掛けてくるという不知火衆は、それを見て、すっかり油断し、千早たちの乗る船の上陸を易々と許した。
「あいつら、仲間がもう羽衣島を制圧したと思い込んだみたいでね。一旦上陸しちまえば、あとは早かったよ。そもそも向こうは本当に少数しか残ってなかったから、ちょっと脅かしただけで、すぐに降伏してきた。──頭は結局、不知火のやつらを殺さなかったんだけど、それでよかったのかもしれないよね。まあ、蜘蛛がいなきゃ、統率のとれないただの乱暴者の集団だから」
そして千早は無法者たちの身を取り押さえた後で、攫われた女たちを救出した。
ただでさえ手荒い扱いに疲弊しきっていた彼女たちは、見知らぬ男たちの来襲に、すっかり怯えて、泣きじゃくり、震えていたという。
「それで頭が、『お前の出番だ、七夜』なんて俺に仕事を押しつけてさ。あの人は、つくづく人遣いが荒いよ。いくら顔がよくて女にもてる俺だって、みんなの警戒心を解くには、そりゃもう骨が折れたんだから」
七夜はぶつぶつと不満げだったが、それでも彼の努力の甲斐あってか、女たちは船に乗って、羽衣島に来ることに肯った。
──その中には、コハクの姉、モエギもいた。
二十二になるまでずっと夫も持たず一人で弟の面倒を見ていたというモエギは、小柄だが、非常に芯の強い女性だった。受けた辱めに自らの命を絶ってしまった若い娘たちもいた中で、懸命に耐え抜いていた。
羽衣島にやって来ると、モエギはすべてを隠すことなく打ち明けたコハクの話を聞いて、憔悴してやつれきった面持ちのまま、弟と一緒に羽衣島の島民たちに謝罪し、改めて感謝の言葉を述べた。
彼らを責める言葉は、島民たちの誰の口からも出なかった。
女たちのほとんどは、自分の夫や家族らが移住した本島へ行くことを希望したが、モエギとコハクの姉弟、それから数人が、そのまま羽衣島に住み着くことになり、千早や三左は、彼女たちのために、あちこちを駆け回って住むところや身の回りのものを整えた。
コハクは現在、ひなの家を出て、姉と一緒に暮らしている。
「それで、頭にさ、俺にコハクの身柄を預けてみない? って提案したんだよ。あいつは案外、性格的に情報屋に向いてるんじゃないかと思ってね。まあ、俺ほどじゃなくても、今から仕込めば、そこそこ腕の立つ情報屋になるかもよ」
ということで、最近は七夜と行動を共にすることが多くなったコハクは、顔を合わせるたびに、ちょっとずつ明るくなって、ちょっとずつ大人の顔になっていっている。どんなことを教わっているの? と聞くと、いつもにっこり笑って誤魔化されるのだが。
──コハクはよく、曇りのない瞳をして、こんな未来の展望を、楽しそうに語ってくれる。
「俺はきっと役に立つ情報屋になるよ、ひな。そうして、見えないところから、頭とひなを精一杯支えて、助ける。償いのつもりでそう思うわけじゃない。姉ちゃんも、二太も、三太も、三の兄さんも、この島には俺の大事なものがたくさんあるからね。……そういう形で、俺は俺なりに、大事なものを守っていこうと思うんだ」
***
千早とひなが祝言を挙げたのは、それからしばらく経ってからのことだ。
その少し前に、千早は正式に頭となり、その襲名披露の場でひなと夫婦になることを島民たちに伝えて、快く了承を受けていた。だから、祝言といっても本当にこぢんまりと、身内だけで祝いの席を設けるだけ……という、予定だった。
だったのだが。
「冗談じゃないってのよ、せっかくあたしがこのために、こっちに戻ってきたのよ? なのに、そんないつもの夕飯にちょっと毛が生えた程度の宴会でなんて、済ませてなるもんですか」
と近くの島に嫁入りした十野が異様に張り切ってそう言えば、
「ええ。私もね、ひなさんと頭にはお返ししきれないほどのご恩があるから、この機にちょっとでも役に立てればと、楽しみにしてたのよ」
とモエギがニコニコと同意する。
すっかり元気になったモエギは、線は細いけれど、中身は十野とよく似た快活な女性だった。
働き者で、いつも朗らかに微笑んでいて、可愛らしい話し方をするのだが、実はなかなか押しが強い。ダテに女手ひとつで俺を育てたわけじゃないんだよ、とコハクが言っていたっけ。
「……あの、でも、わたしは別に、普段と同じで構わないのですが」
さっきから十野とモエギは、いかに美々しくひなを飾りたてるか、ということで延々と協議を繰り返している。ひなは控えめに何度か意見したが、二人はまったく聞いてくれなかった。
「ほらほら、見てモエギさん、ちょっとだけど、紅があるのよ。ひなちゃんに似合うと思わない?」
「まあ、よく手に入ったわねえ」
「七夜に頼んだのよ。あいつは、特に女の世界に関して顔が広いから」
「そういえば、うちのコハクも、近頃やけに女物の着物の柄なんかに詳しくなって」
「そりゃ危ないわ。七夜のやつ、一体コハクになにを教えてんのかしら。モエギさん、男は顔じゃないって、今のうちにあの子に言っておいたほうがいいわよ。三左だって、あんな無愛想な強面だけど、性格はそう悪くないんだし」
「……三左さんはいいの、あれで」
モエギの顔がちょっと赤くなった。
最近、三左とモエギがいい雰囲気らしいぞ、と言っていたのは千早だが、この様子ではそのうちに、もうひとつお祝い事が増えるかもしれない。コハクも三左なら納得するだろう、とひなはほんの少し口元を綻ばせた。
「着物はひなちゃんがはじめに着ていたやつでいいわよね、いちばん上等だし。うーん、あとは髪をもうちょっとなんとか」
「あら、それは私にやらせて。私、これでけっこう器用なのよ」
……それにしても、いつになったら千早のところに行けるのだろう。
千早は千早で、新しく建てた二人の家で苛々しながら待っていたらしい。祝言の席に、肝心の花嫁が友人たちに連れ去られたまま、なかなか戻ってこないのだから、無理もないとは思うのだが。
だから、
「どうよ、あたしとモエギさんの苦心作!」
と派手に前置きをして入り口に現われた十野を見て、千早がまず口を開けかけたのは、多分、文句を言うためだったのだろう。
その口が、続いて入ってきたひなを見て、動きを止めた。
いつもとは違う着物を身に着け、唇に紅を差し、ふんわりと凝った形に髪を結わえられたひなは、それきり千早が何も言わないので、不安になってしまった。
やっぱり、気に入らないんじゃないだろうか。変だと思われたらどうしよう。
千早は無言で、じっとひなを見つめている。恥ずかしいし、居たたまれなくなって視線を下に落とそうとしたら、彼は目元をゆるりと緩ませて、口を開いた。
「き」
「綺麗だなあ、ひなさん! こりゃどこぞの天女みたいじゃねえか!」
「……ちょっと待て、親父」
笑顔を引っ込め、千早はものすごくイヤそうな顔で、父親を振り向いた。どっかりと腰を落ち着け、すでにさっさと酒を楽しんでいたらしい千船は、上機嫌な様子であっさりと息子を無視した。
「いやあー、いいねえ、これが俺の嫁になるかと思うと」
「違うだろ、俺の嫁だろ! 誤解を招くような言い方するな!」
「ひなさん、悪いねえ。気の利かねえうちの息子が、褒め言葉の一つもロクに言えなくてよ。俺の育て方が悪かったのかねえ」
「だから俺が言おうとしたのをてめえが邪魔し」
「ほらほら、親子喧嘩は後回しにして。あんたはやることがあるでしょ、千早」
十野が二人の間に割って入って、千早の背中をどんと押した。
むくれた顔をして近づいてきた千早は、ひなのすぐそばまでやってくると、への字にしていた口を、ふっと柔らかい微笑に変えた。
「──ひな」
と、手を差し伸べてくる。
「はい」
ひなは頷いて、その手を取った。
家の外から、ざわざわと人の声がする。二太や三太の賑やかな声が響く。八重のお喋りがそこに混じっている。三左と、七夜と、コハクの声もちらちらと聞こえた。
「ひなー、頭ー、お祝いに来たぞー!」
ひなと千早は、目を見交わして、一緒になって笑った。
……ここからまた、はじまるものがある。




