千早(30)・発現
海が月の光を受けて、黒々とぬめるように輝いている。
舟に乗った千早は、漕ぐのは七夜に任せて、腕組みしながら唸った。
「よくもまあ、あんな所を見つけたもんだよ」
七夜の舟は、海側に崖が一部分せり出してその先の視界を遮っている場所に、巧妙に隠されるようにして停められていた。なるほど、あそこなら島からも近辺を通る船からも見えないわけである。
千早は今までこの島のことなら大体なんでも知っていると思っていたのだが、悔しいことに、その認識は改めなければならないようだ。
「そこはそれ、俺はこの島の情報屋だからね。頭の知らないことも知っていなくちゃ、おまんまが食べられないってね」
七夜は軽くそう言って、慣れた様子で艪を扱いながら、置いてあった大きな布きれをばさりと放って寄越した。
「頭、なるべく身を低くして、これ被っててね。まだかなり距離があるとはいえ、こんな月明かりの晩は、見通しが良くて厄介だ」
千早は素直に頷いて、布を頭から被り、身を伏せた。現在、千早たちの乗る舟はぐるりと島を迂回して、不知火の船の斜め後ろからそろそろと近づいている途中だ。
幸い、船の上にいる連中は、羽衣島の浜の方ばかりを気にしていて、自分たちの後方にはまるで関心を払っていないが、何かの拍子にこちらに目を向けられて、海に浮かんでいる舟を見咎められたら困る。
目を眇めて不知火の船を窺っていた七夜が、「……なんだよ」と呆れたようにぼそりと呟いた。
「あいつら、船に縄梯子を垂らしたまんまじゃないか。手抜きもいいところだよ。相当、俺たち舐められてるね。……ん?」
七夜の声が少しだけ上がったと思ったら、舟が突然動きを止めた。
頭を低くしていた千早には状況がよく判らなかったので、どうした、と問うことも出来ず、ただじっとしているしかない。すぐに、自分が被っている布の中に七夜がするりと身を滑らせてきた。
「……見つかったのか」
紐で背中にくくりつけた刀に手を伸ばしながら、緊張した声を出したら、「しっ」と鋭く遮られた。
気配を殺して耳を澄ましていると、かすかに、どぼん、という水音が聞こえた。
今、なにか落ちなかったかあ、という不知火の男の声がする。
まずいな、と千早は奥歯を噛みしめた。松明を海上に向けて調べはじめられたら、こっちの舟の存在を気づかれる危険が増える。
しかし不知火の男たちは、すぐに水音よりも別の方向に目を向けたようだ。
羽衣のやつらが揉めてるぜ、という声が風に乗って耳に届く。
「おい、お前ら、なにやってる?!」
という不知火の男の怒鳴り声に、
「話し合いがこじれて、頭が島の若いやつに殴られた。そうすんなり結論が出せるようなもんじゃないだろう」
と返ってきた声は、三左のものだった。
どうやら、こちらに不知火の注意が向かないように、そして千早の姿が見えないことを疑われないようにと、いろいろ工作をしてくれているらしい。
不知火衆からどっと揶揄するような笑い声が沸いた。なんとか、連中の興味が逸れた様子に安堵する。けどその口実はどうなんだよ三左、とちょっと憮然としてしまったのはさておき。
「……頭、さっきの水音ね」
七夜が抑えた声で耳打ちした。
「ああ」
「船尾から、誰かが海に飛び降りたんだ。いや、誰かっていうか──あの体の大きさからして、子供だ」
「子供?」
問い返すと同時に、布からちらりと目だけを出して、海を窺う。
細めた目をじっと凝らして見つめていると、確かに波の合間に、小さな頭が見え隠れしているのを捉えることが出来た。しかしその泳ぎ手は、暗いから方向が掴めないのか、見当違いのほうへと向かっている。
あのままだと、この先の渦に巻き込まれる。
「七夜、あいつに近寄れるか」
訊ねると、「……言うと思った」とすぐ間近で盛大な溜め息が吐き出されたが、それ以上は何も言わず、七夜は再びそっと舟を動かし始めた。
渦に巻かれる手前で、千早はその子供を捕まえた。泳ぐ背中に手を伸ばして着物の後ろ襟首を掴むと、有無を言わせず舟の上に引っ張り込み、すぐに布を被せる。
「……騒ぐなよ」
人差し指を唇に当てて低い声で釘を刺すと、荒く呼吸を繰り返しながら、コハクは大きく目を見開いた。
「ち……ち、はや」
肩を大きく上下させて、がたがたと噛み合わない口から、声が漏れる。ずぶ濡れの全身からはぼたぼたと水が滴り落ちていたが、その目からも、大きな水滴が次から次へと流れ落ちていた。
「ご……ごめ、ごめんなさい、俺、俺……」
「謝るのは、島に戻ってからにしろ」
コハクがどうして不知火の間者をさせられたのか、その理由について、千早も薄々見当はついている。叱り飛ばすように言葉を遮ってから、その子供の薄っぺらい肩を掴んだ。
「ひなはどうした? お前、一緒に船に乗ったんだろ」
「ひ……ひな、ひなは」
しゃくり上げながら、それでもコハクは懸命に言葉を絞り出した。青ざめた顔をして、どうやっても涙声になってしまうのを、必死になって抑えようとしていた。
「ひなは、まだあそこにいる。も……もうすぐこの船は沈む、って、言ってた。だから、島に戻れって。謝って、すべてを打ち明けて、助けてほしいと頼め、って。か、頭、お願いだ──お願い、します。どうか」
コハクはぼろぼろと涙を落としながら、舟の床に震える手をつき、濡れそぼった頭を下げた。
「ひなを、助けてください……!」
「……コハク」
その肩を掴んだままの手に力を込めて、千早は彼の小さな身体を起こしてやろうとした。
が、その時。
──きいん、と耳鳴りがした。
いきなり、ぐにゃりと視界が歪むような不快感に覆われた。
今まで経験したことのないような、異様な体感が背中を走り抜けていく。額に冷や汗が滲んだ。自分のすぐ前に視線を移すと、コハクが目を瞠って動きを止めていた。この奇妙な感覚は、千早だけが感じているものではないらしい。
ばっと被った布を払いのけて、背中の刀に手をかけた。その瞬間、目に入った光景に息を呑む。
不知火の船体に、幾つかの亀裂のような閃光が走っていた。なんだ? と思う間もなかった。
一瞬置いて、ずん、という重い音がして──
その光の筋から、ごうっ! と強烈な炎が迸った。
地鳴りのような唸りを立てて噴出する火は、まるでそれ自体が命を持っているかのように、ものすごい速度で船全体を縦横無尽に舐めつくそうとしていた。
こんな燃え方は、今まで一度だって見たことがない。いいや、こんな炎は、およそあり得ない。火花が散ったかと思えば、すぐに爆発するように勢いを増す火炎は、容赦なく不知火の船の隅々まで、その舌を延ばそうとしていた。
緋色の火柱が闇を焦がす。
不知火の男たちは、突如として自分たちの船を襲った謎の猛火に、あっという間に恐慌状態に陥った。逃げまどい、叫び声を上げながら、次々に海の中へと自分の身を投げ込んでいく。
大型船の傍らにぴったりと寄り添うようにして停まっていたのが仇となり、四艘の小舟にも、船の火はすぐに燃え移った。そこに乗っていた男たちが、舟をひっくり返すほどの周章狼狽ぶりで、どぼん、どぼんと海に飛び込む。
船を失った不知火衆に、もう戻る場所はない。異変に気づいた羽衣島の浜では、三左をはじめとした男たちが、刀を抜いて、不知火の男たちが向かってくるのを待ち構えていた。
「不知火の人間を、浜に一歩も上げさせるな!」
三左の大声に呼応するように、おお! という、男たちの鬨の声が続いた。
羽衣島の男たちが、果敢に海の中にまで攻め入って、動揺の抜けない不知火の男たちに斬りかかっていく。重い胴鎧を身に着け、重い刀を腰にぶら下げて泳ぎ、応戦することすら満足に出来ない不知火衆は、いくら数の上では優勢であっても、もはや彼らの敵ではなかった。
「……勝てるよ、頭」
珍しく上擦った声で、七夜が言った。
「ああ、俺たちは勝つ。七夜、もっと舟を寄せてくれ。あと少し近づいたら、泳いでいく」
「あいよ」
もう様子を窺いながらこそこそと進む必要もない。布をすべて取っ払い、速度を上げた舟に堂々と立つ。
月光を浴びた千早の姿に気づいたのか、海の中の男たちが何人か、罵声と共にこちらへと向かって泳いできた。
その男たちを蹴とばして沈めながら、千早は七夜とコハクを振り向いた。
「やれるか、七夜? コハク、お前も戦えるか」
「俺はあんまりこういうの得意じゃないんだけど、まあ、なんとかやってみるよ。ここで待ってるからね、頭。ちゃんとあんたの可愛い子を連れて、戻ってくるんだよ」
背中の刀を抜いて、七夜がにっこりと笑う。懐から取り出した小刀を、無造作にコハクに向けて放った。
コハクは震える手でそれを受け取って、ぎゅっと握った。
「……頭……」
「言っておくけどな、俺はもし今、時間が戻ったとしても、流れてきたお前を拾って助けるぜ。ひなだって、三左だってそうだ。どれほど甘いと言われようがな」
千早がきっぱりとした調子で言うと、コハクは唇を噛んで俯いた。
「お前も俺たちと帰るんだ、羽衣島に。そこでまた改めて、話を聞いてやる。ひなが助けた命を、粗末に扱うことは許さない。戦って、生き抜いて、お前の顔を、ちゃんと二太と三太に見せるんだ、いいな?」
厳しく命じる声に、コハクはますます俯いたが、
「……うん」
と小さな返事があった。
「──コハク、見てろよ。この舟の上で、しっかりと目を見開いて、すべてを見ろ」
燃え上がる不知火の船に目を向けてそう言ってから、千早はひらりと身を躍らせ、海に飛び込んだ。
***
垂れていた縄梯子を伝って船の上に到着した途端、むっと強い熱気が押し寄せてきた。
もう人の姿もなく、がらんとした甲板は、すでに黒煙で充満していた。炎はごうごうと音を立てて、周囲を真っ赤に染め上げている。降りかかる火の粉は、もう手の平ぐらいでは防ぎきれないほどだった。
ひなが「自分では止められない」と言っていた力が、これか。
「ひな! ひな、どこにいる?!」
千早は大声を上げながら船上を駆け抜けた。足の裏が焼けそうに熱い。炎が板を燃やし、床が抜けるのもそう遠いことではないだろう。焦燥で、背中を汗が伝っていく。
「ひな!!」
怒鳴るようにして名を呼んだ瞬間、立ち昇る煙の向こうから、びゅ、と空を切り裂いて白刃が閃いた。
「……っ!」
間一髪、素早く抜いた背中の刀で、それを受け止める。ガギンッ、という金属質の音が、ばちばちと爆ぜる炎の中でこだました。
「……若、造……っ」
「会いたかったぜ、蜘蛛!」
力の拮抗した二つの刀は、ギギ、とこすれる音を発して垂直に重なったまま中空に保たれている。黒い煙の中から現れた男の顔を見て、千早は口の端を上げて笑った。この男の顔を見て、こんなにも嬉しいと思ったのははじめてだ。
蜘蛛は顔半分に大きな火傷をしていた。着物も、あちこちが黒焦げだ。だが、生きている。
ひなは、蜘蛛を殺さなかった。
きっと、力を使う時に躊躇があったのだろう。そうでなければ、蜘蛛が生きていられるはずがない。ひなはどうしても、自分の力で人を傷つけることは出来なかったのだ。
それでいいんだ、ひな。蜘蛛を殺さずにいてくれて、本当によかった。
もう、お前が苦しむのは御免だ。
──人の命を奪うのが罪だというのなら、その罪は、俺が背負う。
「お前は俺が倒す! 一年前のケリを、ここでつけようぜ、蜘蛛!」
ガッ、と弾みをつけながら、刀を離して後ろに跳び退った。
「千早あっ!」
今までずっと冷たい表情しか見せなかった蜘蛛が、冷静さもかなぐり捨て、憤怒も露わに声を荒げて刀を振り下ろした。それを受けて、押し戻し、こちらから放った一振りを、今度は蜘蛛によって薙ぎ払われた。すかさず顔面めがけて飛んできた刃先はなんとか避けたものの、頬を掠めて血飛沫が散った。
再び間合いを取り、蜘蛛と正面から向かい合う。
視界がきかないのは厄介だが、条件はあちらも同じだろう。煙を吸い込んで咳き込まないように、浅く呼吸を繰り返す。ひゅー、ひゅーという互いの息遣いが相手の位置を知る手がかりというわけだ。
油断なく右手で刀を構えながら、左手で目の中に滴り落ちる汗を拭う。
「!」
そうか、と思った。千早にとって最大に有利な点と言えば、それではないか。蜘蛛は左手がないのだから、汗を拭うことも出来ない。
どちらにしろ、この炎の中で、長期戦なんて無理に決まっている。
大きく足を踏み出して間合いを詰め、千早は一気に蜘蛛の懐にまで飛び込んだ。態勢を立て直す暇も与えずに、続けざまに攻め込む。右から左から、返されることも気にしないで連続して刀を振り続けた。
ぎいん、ぎいんという甲高い剣戟の音だけが、張りつめた緊張感の中で響き渡る。
「……っく! 千早っ……あの女、あいつは、一体なんだ……!」
激しく打ち込まれる刀を自分の刀で受けながら、苦しげに喰いしばった歯の間から、蜘蛛の低く呻くような声が漏れた。
そして、額から噴き出した汗が目に入ったのだろう、顔を歪ませ、瞬きした──刹那。
千早の刀が一閃した。
「……あの、緋色の目をした化け物は、なんだ……っ?」
呟くようなその声が、蜘蛛の最期の言葉となった。甲板の上の自らの血だまりの中に膝をつき、そのまま重い音を立てて前のめりに倒れる。
それを見届けてから、千早は乱れた息をしながら刀を振って血を払い落とすと、背中にくくりつけた鞘の中にしまった。
チン、という鍔音と同時に、
「──俺の、女房だよ」
千早は静かに言った。
***
──狭い船室の中に、その女は静かに立っていた。
どういうわけか、その周囲だけ炎がない。彼女を中心に円を描くように、ばちばちと音を立てて火が取り囲んでいる。まるで、見えない壁に遮られているようだった。
「……ひ、な?」
いや、そこにいるのは、間違いなくひなだ。その姿も、顔かたちも、見まごうはずもない。千早が愛した女だ。
……けれど。
その女は、千早を見てほんのりと微笑した。形の良い唇をゆるりと上げ、緋色の瞳をあでやかに細める。
その笑顔は、ぞくりと鳥肌が立つほどに、美しかった。
もともと、ひなは美しい娘である。しかし、彼女の持つやわらかな笑みや、女らしい優しさや、少し頼りなさげな雰囲気が、今目の前にいる女にはまったく存在していなかった。
同じ顔をしていながら、ひなからそれらが抜けると、美しさが際立つ代わりにこんなにも怜悧な印象を与えるのかと、愕然とするほどだった。
「お前……誰だ?」
声が掠れているのは、たちこめる煙のせいばかりじゃない。この圧倒的な存在感、最初にこの緋色を見た時と同じだ。
重保が狂気に蝕まれてしまうほど、それは恐ろしいまでに、畏怖を覚えさせ、強烈に心を捉え、人を魅了する。
……「力」の象徴である、緋の瞳。
「我は、お前が『ひな』と呼ぶ娘であり、またそれとは別のものでもある」
その唇から出てきた声はひなのものなのに、まったく違うようにも聞こえて、背筋が寒くなった。話し方も口調も、全然違う。ひなの顔をしているのに、これが「ひな」であるとは、ちっとも思えない。
「敢えて言うなら、この娘の持つ『力』そのものだ」
「力、そのもの……?」
茫然と問い返す。すぐ近くで繰り返し火が爆ぜて、熱風が肌を焦がすようだというのに、ひなの顔をした女はまるでそのことに頓着していなかった。
「お前が『ひな』と呼ぶ娘は、昔、力を使って人を殺めた」
ひな自身が苦しそうに口にしたことを、表情も変えずに淡々と言う。
「殺めた後、娘は考えたのだ。同じことをもう二度と繰り返したくないと。自害も出来ぬこの状況で、この力を封じ込めるのは、どうしたらよいのかと。来る日も来る日も、必死になってそればかりを考え続けた」
ひなならきっと、そう思っただろう。だから、他人を寄せつけず、たった一人で部屋の中に閉じ込められることを、自ら肯っていたのだ。
でも、それでもなお、不安だったのだろうか。
「──そして思いついたのは、力を自分から切り離すことだった」
「……え」
意味がよく判らなくて、ぽかんとする。ひなの顔をした女は、緋色の瞳をもう一度細めた。
「娘は自分の中に、力を司る『もうひとつの人格』を作り上げたのだ。自分とは違う人格が力を持っているのなら、万が一、自分の感情を極限まで高ぶらせても、力が暴発することはない、と考えたのであろうな。よって、その人格は、何事にも動じず、感情を持たぬように作られた。娘はそれに名前をつけ、名づけることによって能力を掌握しようとした。大昔から、魔物を封じる時に使われるやり方だ。そうして、その名を誰にも言わずに心の奥にひそかにしまい込んだ。──それが、我である」
そんなことが出来るものなのか、千早は戸惑うしかなかった。いや、しかし、実際にここにいる女は、ひなとはまったく別の個性を持った人間に見える。
力だけを与えられた、ひなとは違う人格を持った存在、それがこの女であるわけか。
泣くこともしない、感情に振り回されることもない。
ひなの考える「強い自分」の姿が、これだというのか。
「あの島に流れ着いた時、娘は半分以上死にかけていた。体力も、生きる気力もほとんど失っていた。だから、我というもうひとつの人格が表に出かけていた。お前はそれを、知っているだろう?」
「……ああ。その緋色を見たよ」
返事をしてから、煙で咳き込む。火の手が完全に廻り出した。この船が沈むのも、もう時間の問題だ。
「我は力を司る。我が表に出るということは、すなわち力の発現を意味する。それで娘は残った力を振り絞って、我を抑えたのだ。その場にいたお前たちを傷つけないために。決して我の名を呼ぶことのないように声を失くし、我という『力』を使うことのないように記憶を封じた。そうやって、自分自身に戒めをかけて、我という存在そのものを箱の中に入れ、外に出ることのないよう、厳重に鍵をかけ、封印した」
「声と記憶をひなから取り上げたのは、ひな自身だった、ってことか……?」
そうまでして、ひなは力を使うまいとしていたのか。羽衣島にやってきた当初、寄る辺なくぽつんと佇んでいたひなは、彼女の強い意志によって生まれたものだったのだ。
それなのに、ひなはこうして、その力を再び解放することを選択した。
羽衣島と、島で暮らす人々のために。
「……ひな」
千早は足を踏み出した。
ひなの顔をした女は、妖艶に微笑んだまま、それをじっと眺めている。緋色の瞳が炎に照らされ、よりいっそう輝きを放っていた。
「我を望むか?」
澄んだ声で問われた言葉に、千早は首を横に振った。
「──俺が望むのは、ひなだよ。泣いたり、笑ったり、ちょっと頑固で、何に対しても一生懸命で、誰よりも強くて、誰よりも優しい女だよ。ちゃんと、この身体の中にいるんだろう?」
そう答えると、彼女は表情を変えずに、少しだけ首を傾けた。
「我が要らぬと言うのか。我は力ぞ。我を手に入れれば、お前はお前の島を容易く守ることが出来る。こんな風に、外敵を排除することも出来る。娘の父のように、権力を手にすることだって可能だ」
事実を述べるように単調な言い方だ。その内容に千早は苦笑して、「そうだな」と頷いた。
「本当言うと、俺もさ、最初、あんたに惹かれた。力が欲しかったからだ。力さえあれば、島を守れると思ってた。けどさ……けど、違う」
ひなのことを知るうちに、いつからか、千早は緋色の瞳に執着しなくなった。ひなに贈った櫛は、緋色ではなく、彼女によく似合う清楚な白色の花模様だった。
今の千早がなにより望んでいるのは、物理的な「力」じゃない。
大事なものを守るため、真に必要なのは、それじゃない。
「……俺が欲しい『強さ』っていうのは、そういうものじゃない」
手を伸ばし、滑らかな頬に触れる。その温もりに、ほっとした。生きているからこそ、温かい。
これからも、生きるんだ、ひな。
「要らない、ってことじゃないんだ。この力を含めて、ひななんだろ? だったら……頼む」
緋色の瞳を覗き込んだ。
「眠っていて、くれないか。もう二度と、力を使わなくていいように、ひなは俺が守るから。悲しまないように、苦しまないように、きっと守ってみせるから」
だから、どうか安心して、眠りについていてくれないか。
「…………」
女はしばらく無言で千早の顔を見つめた後、唇を上げて、ふ、と笑った。
そして、ゆっくりとその緋色の瞳を閉じた。
「……ひな」
囁くように、千早は名を呼んだ。
「ひな、目を覚まして。一緒に帰ろう、羽衣島へ」
長い睫毛がふるりと揺れて、瞼が持ち上がる。
──開かれた瞳は、濡れるような黒色をしていた。




