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ひな(25)・緋の轍 1



 ああ、駄目だ、とひなはきつく目を瞑って口を閉じる。

 こんな言い方、これではまるで八つ当たりだ。昂ぶった感情を抑えきれないまま千早にぶつけてしまっているだけだ。こんなこと、許されるはずがない。

「……申し訳ありません」

 意識的にゆっくりと呼吸することを繰り返して、やっと少しは落ち着いた声が出せた。目を開けて顔を上げると、千早が固い表情で身動きもせずこちらを見つめている。

 どうしたらいいか判らなくなったように、同じく動きを止めた腕の中から、するりと抜け出した。

「少し、混乱しました。申し訳ありません」

 目を伏せながらもう一度謝ると、千早が我に返ったようにひとつ瞬きした。空になった手が一瞬迷うような動きを見せたけれど、結局彼はそれを拳にして握り込んだ。

「……ひな」


「すべてをお話しします」


 低い声が続けるよりも先に、ひなは口を開いた。しゃんとした声が出せたことに、なによりも自分自身が安堵する。

 ──もう、逃げるのはやめよう。



 五平の一件ですべての記憶を取り戻したひなは、自分のことも思い出した。この羽衣島に流れ着くことになったその経緯も、なにもかも。

 そして、怖くなった。

 怖いから、逃げようとした。

 そうだ、逃げようとしたのだ。ただひたすらに、この場所から。ここにいる人々の許から。あまりにも、怖くて。

 ひなは「ひな」として、千早の記憶の中にいたかった。それ以外の別の「何か」になって、嫌悪の対象になるのが、なにより怖かった。千船や八重や十野の、あの優しい眼差しが、違うものに変貌するのを見たくなかった。その瞳からいろんなものが一気に失せていくその瞬間に、どうしても立ち合いたくはなかった。


 ひなはやっぱり、この島に流れ着いた、災厄の種だったのだ。


 そのことを知られないまま、災いを引き起こしてしまわないうちに、ここから出て行きたかった。

 声が出るようになったことを喜んでくれたあの笑顔を、そのまま自分の胸にしまっておきたかった。

 強くなろうと決意をしても、悪い夢には立ち向かえても、それに対する恐怖心だけはどうしても取り除けなかった。

 怖くて、怖くて、だから誰にも何も言わず、ひっそりと消えようとしたのだ。失望されるのも怒りを向けられるのも、「ひな」という名のただの娘であればいい、と思ったから。

 また、以前のように、ただ忌まれるだけの存在になるよりは、そのほうがよっぽどいいと。

 それが、この島を黙って出ようとした、いちばんの理由だった。

 でも、もう逃げるわけにはいかない。千早に「ここにいてくれ」と言われた時からずっと、悩んで迷って、結論を出せずにいたけれど、ちゃんとここを乗り越えて、新たに足を踏み出さなければならないのだ。

 これ以上、千早に対して、黙っているのも、嘘をつくのも、逃げるのも、ひなには出来ない。

 応えることは出来なくとも、せめてその真っ直ぐな心に、誠実に向き合う努力をしよう。

 そうでなければ、ひなはもう、自分を一生許せなくなる。好きにもなれなくなる。たったひとつの大事な恋心まで、自分で汚してしまう。

 そうしたら、この手にはなんにもなくなってしまう。

 たくさんの温かいものを知ってしまった今のひなには、そんな生き方はもう、耐えられない。



「なにもかも、お話しいたします。……ですが、今は」

 ちらりと入口のほうへと目をやる。もうすぐコハクが帰ってくるだろう。今までずっとつらいことばかりだったあの子供に、こんな話まで聞かせたくはない。

「千早さま、今夜、もう一度ここに来ていただけますか。あの子に食事をとらせたら、八重さんのところに連れて行って、一晩預かっていただくようお願いしてきます。──長い、話になると思いますので」

 静かに頭を下げるひなを、千早はじっと黙って見つめるだけだった。彼は今、何を思って、何を考えているのか。

 この夜を越えたら、ひなを見るその瞳は一体、どういう変化をするのだろう。

「……わかった」

 しばらくして、千早の口から出た声には芯が通っていた。いつものように、しっかりとした態度で頷いて、入り口へと向かう。

「飯は、また今度の機会にな」

 最後に思い出したようにそう言って、千早はちょっとだけ笑顔を見せると、筵を押し上げ外に出て行った。

「……はい」

 小さな声で返事をしながら、ひなもまたわずかに笑みを覗かせる。

 以前も、千早とこんな約束をしたっけ、と胸の片隅で懐かしく思い出した。

 この「また今度」は、もう来ることはないだろうけれど。



          ***



 今夜千早が来るので、八重の家に泊まってもらえるだろうか、ということを帰ってきたコハクに伝えたら、彼は目を丸くして、それから少し顔を赤くした。

「ああ……うん、わかった」

 視線をあらぬ方向にやってもぐもぐと言うところを見て、さすがにその手のことに鈍感なひなでも、彼が勘違いをしていることが判った。この子はいろいろな面で世間知に長けているので困ってしまう。

「いえ、あの、違うのよ」

 ひなは慌てて手を振った。なにが違うのか、問われたらそれも困るので、急いで言葉を継ぐ。


「わたし、どうしても千早さまに言わなければならないことがあって……大事なお話だし、時間もかかると思うの。でも昼間は千早さまにはお仕事があるでしょう? だから夜に時間を取ってもらったって、それだけのことなのよ」


「大事な話──」

 反芻するように呟いてから、コハクは顔を強張らせ、口を噤んだ。

 そのまま瞳を宙に据えつけて、黙り込んでしまう。

「……どうかした?」

 心配になって首を傾げながら訊ねると、しばらくの間、ぼうっと何かに気を取られていたらしいコハクは、はっとしたような顔になった。

「あ、ううん、なんでもない」

 珍しくうろたえたような声を出し、首を振る。普段大人びた言動をする彼だけに、そういう動作をすると、まだ本当に子供なのだと改めて認識させられた。

 もしかしたら、自分はこの子を放り出すような形でこの島を出て行くことになるのかも、とその様子を見ながら、ひなはこっそりと心の中で思う。無責任なことだと、胸がつぶされるような気がした。

 コハクの世話を千早に申し出た時には、こんなことになるとは思ってもいなかった。


 流されてきたこの子が、無事に故郷の地に戻って、家族と再会を果たすところを見るまで、と思っていたのだけれど、その願いはなんと果てしなく困難な道を伴うものであることか。


「──ご飯を食べたら、一緒に八重さんのところに行きましょう。事情を話して、お願いしないとね」

 俯きがちになって言ったのは、ひなの側に、コハクに対するそういう申し訳なさがあったからだ。コハクは、ひながいなくなってもしっかりとやっていけるだろう、八重や十野がちゃんと見てくれるはずだ、と思いながら、なんとか自分を叱咤する。

「うん」

 コハクは半分上の空だった。頷くと同時に立ち上がり、そわそわとした態度で外を気にしはじめる。

「その前にさ、俺、ちょっと二太と三太に、このことを話しておくよ。そうすりゃ、頼みごとだって通りやすいでしょ?」

「……そう?」

 以前から、八重にはたびたび、「ひなちゃんも夜仕事をすることだってあるだろう。そんな時はいつでもコハクを預かってあげるよ。なに、三人も四人も変わりゃしない」と言われていたので、正直、そこまで手を廻すことはないのではないかな、と思う。でも、ひなには判らない、子供なりの相談や付き合いがあるのかもしれない。

「じゃあ、お願いね」

 うん、ともう一度頷いて、コハクが早足になって外へと出て行こうとする。


 が、入り口の手前でぴたりと足を止めた。

 そのまま、じっと細い背中を向けて何かを考えているようだったが、思いきったようにくるりと振り返った。


「ひな」

 呼びかけられ、ひなは首を傾げた。コハクはずいぶんと思い詰めたような真面目な顔つきをしていた。

「ひな、俺──俺さ」

 眉を寄せ、苦しそうに息を継いだ。目線を下にやり、また上げる。

「うん?」

 何かを言い淀んでいる様子に、促すように微笑んでみせる。

 それを見て、コハクは一瞬、くしゃっと顔を歪めた。

 泣きそうに。


「……俺はもう、引き返せないんだ」


 え? と訊き返す間もなかった。彼はそれだけを低い声で言うと、再びぱっと背を向け家から出てしまう。少しして、筵の外側から、ピュ、という小さな口笛の音が聞こえた。

 屋根の上から、バサバサッという羽音がする。どうやら、コハクがテツを呼んだらしい。

 その羽の音を、ひなはなんとなく、不安な気持ちになって聞いていた。

 心の中に、少しずつ暗雲が広がっていくような。掴もうとするそばから指の間からさらさらと砂が零れてゆくような。コハクを前にするといつも感じる自分の無力さを、今もまた、まざまざと見せつけられているような気がしてならなかった。

 言葉が届かない。心が見えない。


 救いたいのに──救えない。



          ***



 夜になってやってきた千早は、家の中に入ってすぐ、入り口の手前で少しためらった。

「……この戸、閉めていいか」

 ずっと以前に三左がつけてくれた板戸を指して言ったのは、多分、ひなの話があまり他人に聞かせられるような類のものではないことに対する配慮なのだろう。そういえば、コハクが来てから、夜もその戸を使用することはなくなっていたな、と今さらのように思い出す。ひなにとって、やっぱり密閉状態の中に身を置くのは本能的に避けたいことなのだ。

「はい」

 しかし今はひなも大人しく肯って、千早は入り口の戸をぱたんと閉じた。それだけのことで、途端に静寂が際立つように思える。


 ふと頭上を見上げたのは、屋根の上にテツがいるのかと少し気になったためだ。

 コハクが八重の家にいるのだから、あの忠実なカラスも八重の家の屋根にちょこんと止まっているのだろうか。真っ暗な闇だと鳥は何も見えないから、今頃はもう目を閉じて眠っているのだろうか。


 どうして突然テツのことが気になったのか、自分でもよく判らないまま、ひなはそんなことを考えた。

「どうした? 上に何かあるのか」

 目を上げているひなに、千早が訝しそうに問いかける。つられたように顔を上に向けた。

「あ、いえ、なんでもないんです」

 テツのことは誰にも話さない、というコハクとの約束だ。

 ひなは千早を招き入れ、座ってもらってから、白湯を用意して彼の前にそっと置いた。器を差し出す自分の手が震えていないことを確かめ、ほっとする。大丈夫、これなら冷静に話せそうだ。

 ひなに勧められるまま腰を下ろした千早は、出された白湯には手を出そうとしなかった。器から湯気が立ち昇るのを黙って眺めている。

 バチバチと囲炉裏で小さく爆ぜる火の音だけが耳を打つ。暗い家の中で、炎の赤い色が生き物のようにゆらゆらと揺れていた。

 ひなはきちんと膝を揃えて座り、彼と向かい合った。

 千早が顔を上げて、真っ向からひなを見た。

 その瞳は深くて穏やかだ。そして決然とした意志がある。この人は、最初に会った時よりもずっと落ち着いた「大人」になった、とひなは思う。迷いを抜けて、痛みを乗り越え、自分が進むべき道をしっかりと見据えるその姿は、清々しいほどだ。

 ──だからこそ。

 ひなは、その隣にはいられない。



「……どこから、お話ししたらいいのか」

 言葉尻を濁し、目線を彷徨わせたのは、少しでも本題に入るのを先へ延ばそうという思惑があったわけではなかった。本当にどこから話していいのか、よく判らなかったためだ。ただでさえ、ひなはあまり上手に言葉を操れない。

 ずっと口がきけなかったから、という理由ではなく、もともとひなは人と話すのが得手ではないのだ。昔から、誰かと対等に話をしたり付き合ったりした経験がほとんどないのだから、仕方ない。


 ひなは、異端だったから。

 ひなの世話をする数少ない人たちは、誰もかれも、ひなと相対する時には必ず一歩引いた態度だったから。

 顔に緊張と恐怖を浮かべながら接してくる人たちに対して、ひなに出来ることといえば、「はい」や「いいえ」の極端に短い言葉を使い、簡単に用件を済ませて彼らをその重い役目から解放してやることくらいしかなかったから。


「今のわたしは、自分が生まれた時にもらった名前をもう思い出しておりますが」

 ひなが言うと、千早は一瞬、驚いたように目を見張った。

「ああ……そうか、そうだな。お前には、本当の名があるんだよな」

 自分自身に確認するように呟く。今になって思い出したという口調に、ひなはほんのりと微笑をこぼす。なぜか、そのことが妙に嬉しかった。

「ですけれど、今は『ひな』として、お話させていただけますか。その名前は、わたしにとって、すでに捨てたものですので」

 昔の名前に、まったく未練はなかった。愛着を持って呼ばれることのなかった名前なんて、あってもなくても何の変化もない。


「父は──重保、と申します。姓のほうは、これもご容赦願いたいのですが」


 千早は厳しい表情で、黙って頷いた。

 もしかして、彼は知っていたのではないか、というのがその態度から透けて見えたけれど、ひなはあまり気にならなかった。名前と同様、父も家も、ひなにとってはもう「捨てた」ものであったからだ。


「父は、そうですね、身分として少々高いところにいる人でした。ですがその身分は、自分の力で得たものではありません。生まれたところが、たまたまその場所であっただけ、というだけのことです。父の下にはたくさんの人々が仕えていましたが、それも父の才覚に惹かれて集ったわけではありません。命令ひとつで多くの人たちを動かすことが出来ましたのも、父の能力に依ったものではありません。ただ、父の父から引き継いだもの、先祖たちが営々と築き上げてきたものを、何の覚悟もないまま、順番だからとただ受け取ったにすぎなかったのです」


 淡々と言い継いで、ひなは千早と目を合わせ、にこりと笑った。

「千早さまは、以前、自分よりも頭に相応しい人間がいるかもしれない、世襲制という理由だけで自分が頭を引き継ぐのはおかしい、と仰いましたね?」

「……ああ」

 千早が言葉少なに頷いた。

「生意気なことを申しますが、わたしは、それでよいのだと思います。そうやって、まず自分の置かれた立場を自覚し、客観的に物事を見る──それこそが、人の上に立つかたにとって、なにより必要で、大切な気構えなのではないかと思います。自分の足元を見て、自らが手にしているものを自覚し、足りないところを省みて、その上で立とうとする気概を持たれた時点で、千早さまはもう立派な『頭』におなりです」

 顔を赤くしてそっぽを向く千早に少し微笑んでから、ひなは声を落とした。

「……ですが、父にはそういうところがございませんでした」


 側近にも、家来にも、父自身にも、そしてなにより民にとって不幸なことに。

 重保は、上に立つ者としての器量を持ち合わせてはいなかった。


「父はそういう器ではなかったのです。父の父が亡くなり、他に競う兄弟もおらず、転がり込んできた地位と権力をなんの疑問もなく受け取って、その大きさに振り回されておりました。権力に見合うだけのものを身につけようという努力もしませんでした。若い頃から父は尊大で、傲慢で、強欲で、家臣の人たちの忠言にさえ耳を貸さずに、たくさんの人々を困らせたり苦しませたりしていたようです」


 もっと言えば、多くの命が、重保の気紛れによって失わされた。権力を持つ器ではない人間が権力を持ってしまったら、そのしわ寄せが来るのは周囲の人間たちだ。


「けれど同時に、父は非常に小心で臆病でもありました。いえ、その小心さを隠すために、ことさら尊大に振舞っていたのかもしれません。自分自身に能力が欠けていたのも、多少は自覚しておりましたでしょう。ですから、いつもびくびくと怯えておりました。いつ、自分がこの場所から追い落とされるのかと」


 実際のところどうだったかは判らない。三家は微妙な緊張関係ではいたものの、一応は平衡が保たれていて、よほどのことがなければ重保を排除して乗っ取ろうなどという考えは起きなかったかもしれない。しかし重保は、いつも他の二家の動向には敏感で、小さなことでも過大に騒ぐ傾向があった。昔から被害妄想が強かった、と言うべきか。

 重保は、器量は小さかったけれど、権力への執着は人一倍強かった。


「それで父は、自分が追い落とされる前に、他を叩いて潰してしまおう、という考えを、いつしか持つようになったのです。自分が一番になってしまえばもう怖れることはない、と──極端な話だと思われましょうが」

「いや、そういうもんなのかもな」

 意外なほど、千早はあっさりと納得した。

「この戦の世ってのは、案外、そういう理で成り立ってるのかもしれねえな。そんなに戦ばっかり起こして何が欲しいんだ、って俺はずっと不思議に思ってたんだけど、本当のところは、自分がやられる前にやっちまおう、っていうただそれだけの単純なものなのかも。子供みたいにさ。だから、てめえのせいで死んでいく奴らのことなんて頭に浮かばねえんだろう。自分自身が何より怖がってるんだから。……誰だって、死ぬのは怖いのにな」

 沈鬱な響きには、そういう権力者たちの怖れの陰で消えていく、名もない人々への哀悼がある。七夜の言葉が、ひなの耳に甦った。


 ……俺は、そういう人こそ、頭になるべきだと思ってる。


 はい、本当に。

 本当に、わたしもそう思います。

「父は、ですから、わたしのことを知った時、大喜びしたそうです」

 千早がきょとんとした顔で瞳を瞬く。話が飛躍した、と思ったのだろう。ひなは、やっぱり説明が下手だ。

「いえ、正確には、幼かったわたしが、はじめて力の片鱗を見せたことを聞いて、喜んだのです。……それはもう、本当に、心から」


「──力」


 ぽつりとした呟きに、ゆっくりと頷く。大丈夫、大丈夫。手が震えていても、声はまだきちんと出せている。しっかりしなければ。

「わたしが生まれつき持っている能力です」

 千早と正面から視線を合わせ、言った。

「わたしは、その能力を使って、人を一人、殺しました」





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