ひな(22)・信頼
「──不知火か」
ぼそりとした呟きが、千早の口から漏れる。ひなは息を詰めたまま、彼とコハクとを交互に見つめるしかなかった。
千早とは因縁浅からぬ不知火海賊衆。
今も彼の胸には、一年前の出来事が固くしこったまま残っているという。けれどすぐ前にある千早の表情に、そんなことを窺わせるものは一片も浮かんでいなかった。
コハクがゆるりと頷く。
「そう……そうなんだってね。俺は、その名をあとで知ったよ。連中が去っていって、島のなにもかもが灰になったあとでね。ほんのわずか生き残った連中が、教えてくれた。手のつけられない荒くれものの集まりで、あいつらに狙われたら、誰もどうしようも出来ないから、諦めるしかないんだって。まだ、全滅しないだけ、俺たちは運が良かったんだって」
引き攣ったような笑いが口許にちらりと覗く。いや──それはきっと、「笑い」なんてものではない。怒りと悲しみに塗り固められた心が苦しすぎて、他にどんな表情をすればいいのか判らないだけ、というように見えた。
「本当に、島の人間は、数えるくらいしか残らなかった。それだけぽっちじゃ、どうやったって島を立て直すことなんて出来やしない。だからみんなは、本島に移住することにしたんだ。他の島は、なかなか余所者を受け入れてはくれないから、それならまだしも本島に行ったほうがいいだろうって」
千早は腕組みをして、黙って話を聞いている。
ひとつの島が、他の島民たちを受け入れるのが難しいということを、否定することはしなかった。どの島も自分たちが生きていくので精一杯で、そんな余裕はないということなのか、それとも弱肉強食のこの世界で、他人を自分の懐に入れるのは危険を背負い込むことだと忌避されるのか。
どちらにしても、哀しいことだ──と、ひなはそっと目を伏せる。
哀しく、そして、非情だ。神や仏の慈悲が入り込む余地もないほどの「現実」がそこにある。
一歩間違えば、この羽衣島だって、コハクの島のような立場になるかもしれない。島を捨て、島民がバラバラになって暮らしていかねばならなくなったら、それはもう、「羽衣島」という存在が消えてしまうのと同じだ。
千早は、そうならないように、頭としての責務を全うしようと考えているのだろう。
神にも仏にも縋れないなら、自分の手で、自分の力で、島と人とを守り続けるしかない。足を踏ん張り、顔を上げ、怖くてもつらくても、弱いところを見せないよう、皆のいちばん前に立って。
それは一体、どれほどの重圧であることか。
「何も持たない自分たちに、仕事や住むところが見つかるかは判らない。物乞いになって飢えて死ぬだけかもしれないけど、それでもここにいるよりはマシだろうって。……でも、違う。きっとホントは、誰も、見たくなかったんだ。焼けてしまった家や畑を。失った家族を。助けられなかった女たちを。だから、島を捨てることにしたんだ」
辛辣なもの言いは、この年頃の子供が口にするような内容ではなかった。コハクはとても賢い子で、けれど今ばかりは、その賢さが、ちっとも彼の救いにはなっていないようだった。
「……だけど、俺は我慢ならなかった」
低い声を出すコハクの瞳に強い光が宿る。大人でさえも威圧されそうな、意志が輝く目をしていた。
「みんなは、すっかり諦めてた。島も、家も、自分の生活も、この先のことも、なにもかも。どろりとした濁った目つきで、何も見ようとはしなかった。期待も希望もすべてなくして、そこには諦めしか残っていなかった。だったら別に好きにすればいい、って俺は思った。そうやって、これからも、死んだように生きていけばいい」
みんなが支え合い、楽しく平和だった──と、自分自身がさっき語った島の生活と島民たちに対して、コハクは冷淡に吐き捨てた。
「けど、俺はそんなのは嫌だった。勘弁できなかった。だって、島の女たちは、生きたまま攫われていった。まだ殺されたわけじゃない。なのに、諦めるってなんだ? その中には自分の女房がいた奴だっているのに、しょうがねえよ、の一言で済ませてしまう腰抜けさが、俺は許せなかった」
「──お前の身内もいたのか」
徐々に激してくるコハクの口調とは逆に、千早の声には、まったくぶれがなかった。静かな問いかけは、波のない凪いだ海のようだった。突き放すようで、けれど包み込むようで、人の心を落ち着かせてくれる。
コハクは一瞬、強く歯を喰いしばり、それからこっくりと頷いた。
「……姉ちゃんが」
その答えに、ひなは思わず目を閉じ、両手を組み合わせて握った。
眠りながらも、その人を呼んで探して、寂しく宙を彷徨っていた子供の小さな手の平を思い出し、胸が詰まりそうになった。
「もう死んだものと諦めな、って言われたよ。けど、どうして諦められる? 連れ去られた時、姉ちゃんは間違いなく生きてた。つらい目には遭ってるだろうけど、まだ死んだとは限らない。早いうちに親を亡くして、姉ちゃんは頑張って女手ひとつで俺の面倒を見てくれたのに、俺は姉ちゃんが連れて行かれるのを止められなかった。生きているのなら、なんとしても助けたい。生きてさえいてくれたら、それでいい」
この子も、千早と同じようなことを言う。
生きていることこそが、大事だと。
「だから、みんなが島を出る前に、小さな舟を一艘掠めて、海に出たんだ。俺、舟を操るのは前から得意だったから。なんとしても不知火島に行って、姉ちゃんを取り返すつもりだった。──でも、その途中、岩にぶつかって、舟が壊れて」
「海に落ちた?」
コハクはまたこくりと頷いた。ふ、と溜め息をついて、「……無謀な奴だな」と千早が呟く。
それから顎に手をやり、黙って何かを考えているようだったが、改めてコハクに顔を向けた時、彼は厳しい表情をしていた。その顔は、「流されてきた不運な子供」に対するものではない。千早はコハクを対等の話し相手として扱うことに決めたらしい。
「コハク、それでお前は、これからどうしたいんだ?」
「俺──」
問われて、コハクは言いかけた言葉を途中で止める。続かないその先を、千早が声にした。
「まだ、諦めてないのか?」
「…………」
今度は頷きはしなかったが、頑なに結ばれた唇が開いて、「……諦めるもんか」という言葉を搾り出した。
瞳の底で、暗く強烈な炎がちらりちらりと舌を出している。
千早がもう一度溜め息をついた。
「でも、その身体のままじゃ、何も出来ないってことは判るよな?」
その言葉に、コハクが悔しそうに顔を歪める。視線を下げ、弱ってしまった病み上がりの自分を見てから、渋々のようにまた頷いた。
「──じゃあ、せめて舟が漕げるようになるまで、養生するこった」
ひなは驚いた。これでは、コハクが元気になったらまた不知火島に向かうことを許容しているも同然ではないか。てっきり、怒るとか窘めるとか──とにかく、コハクの無茶な行動を止める方向に出てくれるとばかり思っていたのに。
「ちは」
「けどよ、コハク」
ひなが彼の名を呼び終わるよりも先に、千早が再び口を開く。鋭い語調に、ひなは気圧されて言葉を呑み込んだ。
「ここも、海賊島だ」
コハクは表情を変えなかったが、目元に険が走った。隠し切れない憎しみの色が浮かんでしまうのを、彼自身、どうしようもないのかもしれなかった。
「不知火とは、やり方も考え方も違うけどな。けどまあ、同じ海賊であることには変わりない。お前は、それでもいいか?」
流されてきたのはコハクで、拾ったのはこの羽衣島だ。なのに千早のこの言い方は、コハクのほうに選択権があるかのようだった。
それを聞いて、ひなはもう何も言わないことにして口を閉じた。
……きっと、千早には、何か考えがあるのだろう。
千早は決して、こんな子供を、みすみす死なせに行かせるようなことはしない。島のことをいちばんに考えていても、父親を助けたことを今も苦悩の種にしていても、彼はそういう決断をしない。
何を考えているか判らなくても、表面上は冷たく見えても。
きっと、大丈夫。この人は大丈夫だと、ひなは以前にも思ったはずだ。
大丈夫──ひなは、千早を信じられる。
コハクは無言で千早の顔を見返し、それから膝に手を置いて、ゆっくりと頭を下げた。
「……しばらく、世話になります」
固い声でそう言う小さな姿は、ひどく痛々しかった。
うん、と短く返事をして、千早が立ち上がる。病人への気遣いをきちんとする千早だから、これ以上話をさせるのはよくない、と思っているのだろう。
立ちながら、
「ちゃんと休めよ」
と言ったのは、コハクに対するものだろうと思ったのに、なぜか、千早の視線はひなのほうを向いていて、どぎまぎしてしまった。
「足りないものがあったら都合するから遠慮せず言いな。……また、来るから」
また、という部分に少し力が込められているように聞こえるのは、気のせいなのだろうか。
ひなを見る千早の瞳はもう、先日のような怒気を孕んでいなかった。静かで、澄んでいる。どうして、とひなは混乱するしかない。あんなひどいことを言った自分に、どうしてそんな目をしていられるのだろう。視線が合わないか、無関心な目で見られたほうが、まだよかった。
そんな真摯な瞳を向けられたら、どうしたらいいか、判らない。
どうしてもいたたまれなくて、ぱっと目を逸らした。千早が何も言わず、家を出て行く気配がする。結局、会話は交わさないままだと思ったら、胸がきりきりと締めつけられるように痛くなった。
細くて深い息を吐く。身体の力が抜けて、今になって、自分ががちがちに固くなっていたことを知った。
力が抜けたら、次に押し寄せてきたのは、後悔と自己嫌悪ばかりだった。
せめて、ちゃんとした返事とお礼を言うべきだったのに。千船のところに行けないことへの侘びもしていない。目も合わさないでいるなんて、わざわざ足を運んでくれた千早に、なんて失礼なことをしてしまったんだろう。
言葉を交わしたら、きっと自分の嘘が暴かれる。けれどやっぱり千早の声が聞きたいと願う。いっそ嫌われてしまえばいいのだと思いながら、千早に嫌われることを考えると心がぺしゃんこに潰れてしまいそうになる。千早と目が合っただけで、こんなにもつらく苦しく、こんなにも嬉しい。我ながら、支離滅裂だ。
「……ひなは、あの頭が嫌いなのか?」
突然問われた声にはっとして、弾かれたように顔を上げた。コハクがまじまじとこちらを覗き込んでいて、みっともないほどうろたえる。
「いえ、ううん、あの、嫌いなんて、そんなことは全然」
千早を嫌いになったことなんて、一度もない──とつい思ってしまったばっかりに、勝手に顔が赤くなってきた。コハクがさらに不審そうな表情になる。
「なんか、すごく緊張してるみたいだったから」
「そ、そんなこと……」
コハクにも気づかれていたのか、と思ったら、ますます身の置き所のないような気分になった。だったら、千早はもっと、手に取るように判っていたに違いない。
そのことを千早はどう解釈したのだろう、とまた考えそうになって、慌てて打ち消した。千早のことばかり考えてしまうのはやめよう。考えたって、どうしようもないことなのだから。
「あの頭、けっこう余所者に厳しいみたいだもんな。ひなも今まで、この島で苦労したんだろ? 俺みたいな奴の面倒まで押しつけられてさ」
「え……」
続けられたコハクの言葉にびっくりした。自分もコハクと同じで、この羽衣島に流されてきて厄介になっている身なのだ、ということは説明してあったが、そんな誤解を植えつけることになるとは思わなかった。
自分はどうしてこうもぼんやりで、言葉が足りないのかと思うと、情けなくなる。
「あの、違うのよ」
どう言えば判ってもらえるのだろう、と悩みつつ、ひなは一生懸命言葉を捜した。声が出せるようになっても、自分の思っていることを相手にすべて伝えるのは、難しい。
「あなたのお世話は、わたしが強引に頼み込んで、お願いしたことなの。わたしはこの羽衣島に来て、たくさんの人に親切にしてもらったから」
返しきれないほどの恩を受けたから、それを少しでも誰かに向けて返したかった──と言いかけて、ふと、思い留まる。
確かに、最初はそう思って、無理矢理のように頼み込んだことだったけれど。
でも、寝たり起きたりを繰り返し、うなされて苦しむコハクの姿を見ているうち、いつの間にかそんなことは頭から飛んでいたのではなかったか。恩返しといえば聞こえはいいけれど、結局ひなは無我夢中でコハクの面倒を見ていただけだった。ひたすら心配になって、必死に看病して、熱が下がるようにと祈り続けて、手を握って。
そうして今、ひなが思っているのは、ただ。
「……あなたが、元気になったら嬉しいと思って」
言ってから、自分でも下手な言い方だなと恥ずかしくなった。内容に嘘はないが、どう考えても、前後の文脈がおかしくて意味不明だ。
「…………」
コハクはひなのたどたどしい言葉に、ほんのわずか、どこかが痛むような顔をした。ずっと強い意志の煌めいていた瞳が、力なく揺れる。
「あのね、千早さまはね、確かに、厳しいところもあるし、怖いところもあるけれど」
いや、怖かったのは最初だけだった。ひなは千早をまったく判っていなかったから、それを「怖い」と感じてしまっただけ。
ううん、判らないといえば、今だって判らない。千早の考えることは、いつだってひなにとって謎ばっかりだ。そんな自分が、こんなことを言うのは、どれだけおこがましいことなのかとも思うのだけれど。
でも。
千早は、島に対して、そして自分が負った責任に対しても、いつも誠実であろうとする人だ──というのは、きっと間違っていない。
「……とても、立派な人よ」
微笑んでそう言うと、コハクはまたちょっと黙った。他にどう言えば千早のことがちゃんと伝わるのだろう、とひなが困っているうちに、賢い子供はさっさと解答を見つけてしまったようだった。
「つまり」
と、にこりと笑う。
コハクがちゃんと「笑う」ところを見たのはこれがはじめてで、ひなはほっとした。こういう表情をすると、コハクは可愛らしい子供そのものだ。
「──つまり、ひなは、あの千早って人が、好きなんだね」
いきなりの結論に、ひなは「えっ?!」と、大いに動転した。そそそそんなこと、とどもりながら、真っ赤に染まった顔をせめて隠すため、両手で頬を覆って下を向く。
……下を向いてしまった、から。
目の前の子供がその時、本当はどんな顔をして、どんな瞳で笑っていたのかは、ひなには見えなかった。




