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ひな(17)・恋心



 ひなは目を細めたまま、手に持った櫛に視線を戻して、指でそっと白い花を撫でてみた。

(可愛い花……)

 勝手に口許が綻んでしまう。

 千早はああ言ったけれど、その櫛が品物として上等かどうかなんて、ひなにはまったく関係のないことだった。数ある櫛の中から、千早がわざわざひなのためにと選んで買ってくれたものなのだ。ひなにとっては、この世でたったひとつしかない、貴重な櫛である。

 千早自身が言うとおり、父親を見てもらっているから、という礼の意味であるのかもしれない。それとも、この島で何ひとつ「自分のもの」を持っていないひなだから、ひとつくらいは、という気持ちがあったのかもしれない。けれどどちらにしろ、その気持ちを、遠慮、という形で押し返してはいけないことくらいは、ひなにも判った。

 この櫛を手にして、心が震えるくらいに嬉しく思っている自分がいるのも本当だ。


(嬉しい……)


 その「嬉しさ」は、八重や三左に親切にしてもらった時や、十野に友達として扱われた時の嬉しさとは種類が違っていた。ふんわりと舞い上がるような気分になるのは同じだが、それとは別に、どうしようもなく高まってしまう胸の鼓動があって、喉元までせりあがってくる甘くて熱い塊がある。

 ──これを、選ぶ時。


 千早は、少しでも、ひなのことを頭に思い浮かべてくれただろうか。

 どれにしよう、何にしようと考えて、ひなの顔を思い出してくれただろうか。

 ほんの一瞬でも、その時だけは、心の真ん中にひなを置いてくれただろうか。


 顔を上げたら、じっとこちらを見ていた千早がはっと我に返ったような表情をした。何か考え事でもしていたらしく、目を瞬いている。

 目を合わせ、ありがとう、と口を動かすと、短い言葉だからかすぐに読み取ってくれて、「ああ」と目元を和ませた。

 それを見て、今さらのように気がついた。

 ……思えば、千早は以前と比べると、ひなの言いたいことをよく判ってくれるようになった。口の動きだけでもある程度は通じるようだし、そういえば、さっきのような少し複雑な伝言でも、身振り手振りだけで大まかなところが理解できてしまうというのは、すごいことかもしれない。

 ちょっとしたイタズラ心が湧いてきて、櫛に描かれている白い花を指差し、可愛いですね、というつもりでにこりと笑った。

 千早は最初、ん? という顔をして首を傾げたが、すぐに笑みを浮かべた。

「ああ、その花、可愛いだろ。他にも、いろんな色があったんだぜ。薄紅とか、菜の花色のもあった。現実には、同じ花がそんなに色違いであるわけねえけど」

「…………」


 あまりにも迷いなく真っ向から答えが返ってきて、さすがに困惑した。


 この櫛の花が現実にあるかどうかはともかく、ちょっといくらなんでも、ひなの言いたいことが判りすぎではないだろうか。指差して、笑っただけなのに。

 その困惑の色が、表に出てしまったらしい。千早がひなの顔を見て怪訝そうな表情をし、それから、にやっと笑った。

「ははん、お前、今、俺を試しただろう」

「……!」

 顔を赤くし、ぶんぶん首を横に振って否定したが、視線はまともに千早と合わせられない。そうしたら、千早はますます楽しそうに笑って目を眇め(その顔は非常に千船とよく似ていた)、声を潜めて、驚くべきことを口にした。


「……実は俺、人の心が読めるんだぜ」


 ええっ、と驚愕して、ひなはすぐさまその場から飛ぶようにして後ずさった。今の自分の心を千早に読まれたら、ものすごく困る、ような気がする。

 その逃げ方が露骨すぎたためか、千早は一瞬ぽかんとして、それから盛大に噴き出した。

「いっ、いやお前、じょう……冗談だって。っていうか、いくらなんでも、本気にするとは思わなかった。世の中、お前みたいに騙されやすい人間ばっかりだったら、戦なんて起こらねえだろうになあ~」

 地面に倒れこんで、お腹を押さえてひいひいと笑い続けている。千船もそうだが、千早もまた、けっこうな笑い上戸であるらしい。それも、人をからかった時さらに拍車がかかる、というところが大変に共通している。そこまで笑うことはない、というくらい笑うところも同じだ。

「…………」

 もちろん、ひなは真っ赤になって、それに耐えるしかない。ここに至ってひなも、どうやら自分は騙されやすいらしい、ということに薄々気づきはじめてきた。

 しばらく息も絶え絶えになって笑い続け、千早は顔を顰めて自分の腹部を手で押さえた。

「ひな、笑いすぎて腹が痛い」

 知りません、とぷいっと横を向き、苦痛を訴える千早の声を退ける。その姿を見てまた笑った千早は、ごろりと転がって上を向くと、ふう、と息を吐いて、ようやく笑いを収めた。

 そして、青い空に目をやりながら、


「──本当に人の心が読めりゃ、苦労はねえんだけどなあ」

 と、呟くような声で言った。


「いい天気だな」

 顔を動かし、今度は遠く海の向こうへと視線を向ける。

「……ここから見る眺めは、綺麗だろ?」

 問われて、ひなもそちらに顔を向けた。

 ──光を反射してきらきらと輝く海と、澄んだ青空。

 それらは本当に美しい眺めで、ずっと見ていても飽きないくらい、人を魅了させるような素晴らしい景観だった。だから、ちらりとこちらを振り向いた千早に、深く頷いて見せた。

「うん」

 やんわりと目元を緩め、千早も頷く。嬉しそうで、優しくて、満足そうだった。自分の宝物を自慢するような、てらいのない喜びと誇りがあって、何も言わなくても、どれだけ千早がこの景色を愛しているのか、手に取るように判るほどだった。

 千早は目をまた海の向こうへと戻し、ぽつりと、言葉を落とした。


「こうやって、また──」


 言いかけた途中で、飲み込んだ。

 それから頭の下に手を入れ、よっと勢いをつけて跳ね起きる。身軽な彼は、一動作だけで楽々と寝ていた状態からすっくと立ち上がった。

「そろそろ帰るか、ひな。もともと、俺を呼びに来たんだもんな」

 こちらを向き直ったその顔は、いつもと変わらない。はい、と頷いて、ひなはもう一度、千早が見ていた崖の上からの眺望へと目をやった。


 千早の愛するこの場所。


(……もう、ここに来ることはないだろうけど)

 ここはきっと、千早にとってとても大事な場所なのだろう。彼が千船にも十野にも教えたがらないのは、多分、ここで一人で過ごす時間をなによりも大切にしているからだ。ひなのように関係のない人間が、これ以上ずかずかと入り込んでいいところではない。

 この場所には来られない──だけではなく。

 ひなはいずれ、この島にもいられなくなるのだろう。出て行ったら、もう二度とここには戻ってくることはあるまい。すべてを思い出したら、帰る場所のないひなは、一体、何処へ向かうことになるのだろうか。

 自分の生きていく場所が、果たしてこの空の下にあるのかどうかは、判らないけれど。

 今、ひなの目の前には、雄大な海と空が広がっていて、この風景を美しいと思える心もある。

 それは、とても幸福なことなのだ。


(きれい……)


 これで見納めかと思うと、その美しさが余計に胸に染み入るようだった。きっと、この景色を一生忘れることはないだろうと思った。

 何処へ行っても、何処で生きても、自分は、ずっとこの景色を愛しく想い続けることだろう。

 ぎゅっと、手の中の櫛を握り締める。


 羽衣島を出て行く時は、この櫛だけは持っていくことを許してもらおう。



          ***



 山道を下りる段になって、「ほら」と千早が差し出したのは、彼の手ではなく、背中だった。

「?」

 意味が判らず立ち尽くすひなに、

「おぶっていってやるよ」

 と千早はなんでもないことのようにさらりと言った。

 ええっ、と再び驚いて、赤い顔で両の手を振り回し、とんでもないと固辞をしたが、千早はそれを見て、「あ?」と首を傾げた。

「悪いけど、何言ってんのか、わかんねえな」

 さっき「心が読める」と言ったその口で、けろりと言い放つ。

 無理です大丈夫ですそんなことは出来ません、と口を動かし身振りでも主張したが、千早は知らんぷりで背中を向けて腰を落としている。こちらを見てくれなければ、ひながどう一生懸命に口や手を動かしたところで何の意味もない。すっかり引いた汗が、また流れ出してきた。

「早くしろ」

 と催促され、進退窮まって、ここはもう逃げるしかない、と決意した。隙を見て、千早の脇を小走りで通り抜けようとしたのだが、素早く後ろ襟首を掴まれてしまう。

「お前、俺から逃げられると思ってんの?」


 思っていませんが、困ります。


「そんな身体じゃあ、山道を登るだけでもう限界だろ。途中でへばって動けなくなるか、そのまま倒れて転がり落ちるのは目に見えてんだよ。それくらいなら、最初から俺がおぶっていってやったほうがいい、ってだけの話じゃねえか」

 そんなことはない──と、思う。千早はひなのことを、よほど体力のない人間だと思っているらしいのだが、ここまで登ってくるのだって、休み休みながら一人でもなんとかなったのである。千早と同じ速度では無理かもしれないけれど、ゆっくりと時間をかけていけば、大丈夫……のはずだ。

「もうちょっとしたら、陽が落ち始めるぞ」

 ひなの内心の抗弁を、千早はあっさりと切り捨てた。

「暗くなってきたら、山道を降りるのは大変だぜ? それでなくても足場が悪いのに、見えないと滑って躓いて転んで、尖った木の枝が腿にぐっさり刺さったりしてな。痛いし歩けないし誰もいないし。そうこうしてるうちに、頭上では、人間を突っついてやりたくてウズウズしてる鳥が、ぎゃあぎゃあと低い声で鳴きながら旋回し始めてよ。ガサガサッて背後で茂みが動いたかと思ったら、血の匂いに寄ってきた獣の眼が爛々と光ってさ」

「…………」

 すーっと血の気が引いていく。もう涙は出さないでいようと決めたのに、少し泣きたくなってきた。

「俺が、おぶっていったほうがいいよな?」

 千早の言い方はほとんど強制だったが、ひなはしおしおと頷くより他になかった。



 ひなというお荷物を背負っているにも関わらず、千早の足取りはしっかりとして揺るぎなかった。一定の速度を崩さない下り方は、軽快なくらいだ。

 片腕一本でひなの重みを支え、もう片方の腕で、視界を遮る枝を払う。無理をしているのではないか、負担になっているのではないかと、彼の背中でひなはハラハラしたけれど、千早はまったくいつもと変わらない様子で、息すら乱さず淡々と足を動かしていた。

 山道を半ば過ぎたあたりから、ひなは千早の肩を軽く叩いて、もう大丈夫です、歩きます、と伝えようとしたのだが、完全に無視された。歩みを止めることもなければ、顔をこちらに向けもしない。


(やっぱり却って、迷惑だった)

 と思えば、申し訳なくて小さくなってしまうしかない。


 身を縮めるようにしておぶられながら、しゅんとしていたら、不意に、

「……あったかいな」

 と、千早の小さな声が背中越しに聞こえた。

 唐突な言葉に当惑してどう反応すればいいのか迷っていると、千早はもう一度、「あったかい」と繰り返した。

「俺は、さ」

 ぼそりと続けた。それは今までの独り言のような調子ではなく、ちゃんと、ひなに向かって語りかける言い方だった。

「俺は、お前の身体があったかいのを嬉しいと思うし、その頬が青白くなったりするのを見たくない。お前の手や足に、これ以上傷がつくのも嫌だ。嫌だから、こうしてる。すべて俺の勝手だ。──だから、気にすんな」

 その口調はぶっきらぼうで素っ気なかったけれど、どこまでも、優しかった。


(──この人は)

 千早に巻いてもらった手拭いの下で、手の甲の傷がじんわりと熱い。

(心が読めないのなら、どうして)

 何も言わないのに、こんな風に、ひなが考えていることを判ってしまえるのだろう。

(ずっと、判っていなかったのは、わたし)

 どうして、以前と比べて格段に会話が通じるようになったのか。ひなの拙い身振りや手振りだけで、複雑な伝言でも理解できるようになったのか。

 ──そんなの、決まっているではないか。


 それは、千早が今まで、その分だけの努力をしてくれていたからだ。


 ひなの声にならない声を聞き、ひなの気持ちを汲み取って、言葉がなくてもひなが困ることのないように。

 その根っこにあったのが、もしかしたら哀れみや同情心であったとしても、構わない。だって、そこにはちゃんと自分に向けられる温かな思いやりがある。穏やかに根底を流れる、誠実さがある。ひなは、そういう千早の心のあり方を、とても尊いものだと思う。

(……わたし)

 広い背中に、自分の額をそっと当てた。目を閉じて、息を吐く。

 今こそ、はっきりと思った。


(わたし、この人が好き)


 伝えることなんて出来るはずもない、決して成就することはない、想いだけれど。

 もう、誤魔化したりしない。この気持ちを、大事に大事に、自分の胸にしまっておこう。崖の上の美しく幸せな景色の記憶と一緒に。

 いずれすべての記憶を取り戻したら、ひなはここから離れることになるだろう。戻った記憶は、おそらくひなにとってつらく苦しいものであるかもしれない。


(でも、今のわたしには、この羽衣島で得たものが、たくさんあるから)


 美しい景色、美しい島、優しい人々。

 愛しい記憶と思い出。

 可愛い櫛。

 ……そして、千早への恋心。


 それだけあれば、きっとこれからも、生きていける。





          ***



 ──山を下りたところで、まだ千早に背負われたまま、ひなは、あ、と口を開けた。

 少し身じろぎしたことに気づいたのか、千早が「どうした?」と問いかけてくる。ひなとは違うほうを向いていたから、彼には見えなかったらしい。

 遅れて、ひなの視線の方向に千早も同じように目をやったが、もうそこには誰もいなかった。じっとこちらを見ていたその人物は、すぐに姿を消してしまったからだ。

 茂みの影でちらりと見えただけだったから、ひなにも確かに断言できるものではなく、一瞬ためらって手を動かしかけ、それでも結局、首を横に振った。

 ……多分、気にするほどのことでは、ないのだろう。

 そう、思うことにした。





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