千早(15)・立ち止まる
腕の中の身体は、思ったよりもずっと細かった。
今まで千早の知っている「女」というのは、どちらかといえば豊満で、肉感的な体つきをしているようなのが多かった。相手にするのが商売女ばかりだったのだから、当たり前の話かもしれないのだが。
それらの女たちに比べると、ひなはまるで子供のように、ずっと細くて弱々しかった。力を込め過ぎたら、そのままぽきんと折れてしまいかねないほどだ。そう思って、千早は背中に廻していた手から少し力を抜いたが、その代わり、さらに強く彼女の首筋に自分の頬を押し当てた。
ひなは自分の肩に頭を載せて、ひたすら静かに、涙をぽとぽとと落としている。
そのことにちょっと安心して、けれどだらんと下げられたままの両腕が、決して自分のほうには廻されないことにひどく切なくもなって、千早はただじっと黙って、ひなを抱き続けていた。
それ以上は、進めないまま。
自分の中にはまだ迷いがあって、進むべき方向も見えていない。こんなにもふらついている自分が、この頼りない身体を腕の中に抱えこむことだけでも、どこまでも無責任な行為というものだ。それくらいは判っている。
千早はもしかしたら、この先、ひなを見捨てるかもしれないのに。自分の意思よりも、島の頭としての判断で、ひなよりも島の安全を優先させる──かもしれないのに。
上の連中がその気になったら、こんな小さな島、潰してしまうなんて造作もない。ひなをこの島に置いておくことが危険ということになったなら、自分たちには無関係の人間だと、彼女を突き放すしかない。千早はきっと、頭として、そういう結論を出さざるを得ない。
それが判っていて、それでもなお今、この女を自分の腕の中に抱きしめ続けずにはいられない。その罪深さを、千早は十二分に自覚している。
(……けど)
だけど、千早はもう嫌だったのだ。どうしても。
(泣くのは、構わない)
つらければ、いくらだって泣けばいい。泣くことは、感情を宥めるのにいちばん良い手段だ。胸の中に溜め込むよりは、そうやって外に出してやったほうが、よっぽどいい。泣くのを我慢するより、泣くのを抑えて笑うより、泣けなくなってしまうより、そのほうが。
だから、いくらでも素直に泣けばいい。
(でも、一人きりで泣くなんて、それだけはダメだ)
どうしても、それだけは我慢ならなかった。
ひなは泣き続けている。その目からはずっと透明な雫がぽろぽろ流れ続けているのに、嗚咽も漏らさず、身動きもせず。
静かに零れだす涙の粒。大げさでもなく、何かを乞うているのでも、求めているのでもない。
ただ透徹としているそれが、どうしてこんなに胸を打つのだろう。
──こんなにも自分の心を深く激しく突き動かす涙を、千早は知らない。
今までずっと、知らなかった。
***
三左に殴られて、何も考えないままふらりと船を降り、気づいたら、足が勝手にここに向いていた。
声をかけようかどうしようか散々迷って、結局ちらりと筵を押し上げた自分の目に入ってきたのは、ひなが床に自分の顔を押し当てて、泣いている後ろ姿だった。
あんなにも小さくなって、家の隅っこで、一人ぼっちで。
声がなくたって、千早の耳には確かに慟哭が聞こえた。悲しく寂しい、悲痛な泣き声が聞こえた。助けて、と小さく呟く声が聞こえた。決して、他人の前では出されることのない、救いを求めるその声を。
その瞬間、千早の胸を過ぎったのは、同情心ではない、れっきとした怒りだ。
なんでだよ。
なんでそうやって、何もかもを一人っきりで抱え込もうとするんだよ。お前の目には、八重や十野や二太たちの、あの心配そうな顔が映らねえのかよ。みんなお前のことこんなに考えてるのに、その気持ちはまったく届いてねえのかよ。
顔を上げればすぐ、そこにいるじゃねえか。
──俺だって、ここにいるのに。
ひなは泣くだけ泣いて、また気を失うように眠りに吸い込まれていってしまった。そこを見計らって家の中に入っていき、きちんとひなの身体を横たえ、そっと上掛けで覆ってやった。
眠りに落ちても、ひなの閉じられた目からは、涙が落ち続けていた。時々、苦しげに眉が寄せられ、荒い呼気が唇から漏れ出る。こんな風にいつも眠っている間、ずっと悪夢にうなされていたのだろうか。だから、このところ急激に面やつれしていったのか。
それは一体、どんな悪夢なんだ。
何が原因で、そんな夢が頻繁に現れるようになったんだ。
その夢は、どうしてここまで、お前を責め苛むんだ。
以前にも、千早はこうしてうなされるひなを見たことがある。あの時は、名前を呼んでひなを夢から引っ張り出してやったけれど、今となってはそんなことをしても無駄だという気がしてならない。何度現に呼び戻したところで、眠るたびに悪夢がやってきてしまうのなら。
あの時、起きたひなは、やっぱり泣いて、そしてすぐにその涙を拭いてしまったんだっけ。
今もきっと、起こしてやれば、ひなは同じことをするのだろう。着物の袖で目元を拭いて、ごめんなさいと頭を下げるのだろう。以前にその姿を見た時に感じた苛立ちの理由が、今になってはっきりと判った。
(……ここは、ひなにとって、安心して泣ける場所じゃないんだと)
そう、宣言されているような気がしたからだ。
幼な子が手放しで泣くのは、そこに安心感があるからだ。泣くことによって、慰撫と救済を得られることを知っているから、思い切り泣けるのだ。他人の前でより、親の前で大泣きするのは、それだけその存在に対する甘えがあるからだ。
だからあの時、この場所では泣けない、涙を見せられないと、ひなに拒絶を言い渡されているようで、腹が立ったんだ。
無意識とはいえ、勝手なことを思ったものだ。千早の許で、安心して泣けるわけがなかったのに。その涙を拭ってやることも、慰めることも、千早はしないし、出来ないのだから。以前も、今も。
どんな夢を見たにしろ、ここは現実だ、大丈夫だと、そう言ってやることも出来ない。だってこの現実が、ひなにとって夢よりもマシな場所であるかどうかなんて、千早には保証してやりようもない。
だから、ひなは自分の前では泣こうとしないのだし、救いを求めようともしないのだ。
(ああそうだ。ひなは、俺に何も求めない)
そもそも彼女が自分に何かを求めたことなんて、ただの一度もなかったじゃないか、ということに今更ながら気づいて、愕然とした。最初の頃よりもずっと打ち解けた今でさえ、ひなは千早に何も求めず、ただ、受け入れるばかりだった。何もかもを自分の中にだけ抱え込んで。
でも、それも当然なのかもしれない。
お前のことが知りたいと、そう言ったのは千早だった。けれどこの肝心な時に、やっぱり自分はひなに手を差し出せない。こんな男だから。
そうだ当然だ、信頼されなくたって、心を開かなくたって。はじめのうち、そう仕向けようとしたのは、確かに自分だった。情を移すなと、何度も三左に向かって注意をしたのは、自分に対して言い聞かせるためでもあった。どうせ、いずれは離れるだけの娘なんだからと。
今だって、千早はもどかしくても歯痒くても、二の足を踏んでためらっている。ここで手を伸ばしたら、もう引き返せないんじゃないかと怖れている。
どちらに進んでいいのか判らなくて、立ち止まったまま。
羽衣島と、それ以外の何か。天秤はいつも、比べるまでもなく片側に重心が置かれていたはずだった。それがぴったり釣り合う存在が出来るかもしれないなんて、考えもしなかった。
いいや、違う。
そんな存在、千早には、あってはいけなかったのだ。
(だって俺は、羽衣島の頭だから)
代理でしかなくとも、年が若くて、未熟なところが数え切れないほどあっても。それでも、その事実からは逃れられない。千早には、この島の未来と人々の安心を担う義務と責任がある。
だから、今までそうしてやってきたんじゃないか。島のこと、住人たちのことだけを考えて、それ以外のことは切り捨てて。いつでも何よりも最優先にすべきは、この羽衣島であればいいと。
けど──
(じゃあ、俺は、それだけの存在なのか)
島のことしか考えない。それだけが大事で、それ以外のことはどうでもいい。ここに、こんな風に、一人きりで涙を流す女がいて、自分はそれをこんなにも辛く苦しく思うのに、何もしてやれない。
それが、千早のすべてだと。
自分のすべてが、この島の頭としての存在だけであるのなら、じゃあ、痛み続けるこの心は一体誰のもので、なんだというのだろう。
その問いに、答えは出なかった。どれほど胸が痛んでも、三左に殴られたって、千早は未だに自分の心に決着をつけられないまま、保留にするしかなかった。それほどまでに根強く、千早の中では迷いが厳然として居座っている。
どうすればいいのかなんて、依然としてまったく判らない。
(でも、せめて)
ひなの閉じた瞳から、また、一筋の涙が静かに滑り落ちた。
千早はそれを自分の指で、そっと拭う。
眠っている時にしか、こうしてやれないけれど。
(……せめて、もう一人で泣かないでくれ。嫌なんだ、それだけは)
息苦しいほどに、つらい。
***
現在もまだ迷いを振り切れないまま、千早は自分の腕の中にいるひなの身体を抱きしめる。
自分の顔のすぐ近くには、彼女の華奢なうなじがあって、そこに唇を寄せてしまえばいっそ楽になるのかもしれない。けれどひなの両手は下に向けられたままで、千早はそのことに失望して、でもそれでいいんだと自分自身に言い聞かせるような気持ちもあって、結果として固まったように動けないままでいるしかない。
ここで、ひなの手が動けば、何かが変わるんだろうかと思う。あるいは、自分が少しだけ顔を動かして、彼女のそれに寄せたなら。
そうしたら、何かが変わるのか。
(……そんなことが、出来たのなら)
そう思って、心の中で諦め混じりの吐息をつく。
ここで一歩を踏み出せば、何かが変わるのかもしれない、確かに。千早も、ひなも。
しかし、どちらの方向に変わるのか、それがまったく判らない。
それが判らない以上、千早は足を動かせない。こういうところ、自分でも嫌になるくらい、千早という男は頑固なのだった。
(この先俺は、この曖昧な場所から、足を踏み出すことがあるのかな)
どちらに行くのか、それは判らないけれど。
これから、自分のこの迷いと葛藤をねじ伏せて、先へと進まざるを得ない、何かが起きるのだろうか。
その道の行き着く先には、何が待っているのだろう。
(でも、今は──)
今はただ、このまま。
胸の内で呟いて、千早は柔らかい身体をさらに抱き寄せた。
外から、どこかの子供たちが陽気に騒ぐ声が聞こえてきて、ひなが顔を赤くして慌てて離れていくまで、それは続いた。




