千早(14)・三左
「……あーあ」
両腕を頭の下で枕にして船の甲板に寝そべり、千早は溜め息混じりの声を出した。
腹立たしいほどに、澄みきった青空である。なにもこうまで俺の心の中とは裏腹に気持ちよく晴れていなくてもいいのによ、と八つ当たりのような気持ちになるが、雨に降られてもそれはそれで困るので、あーあ、としか言いようがない。
なんでって、雨に降られてしまっては、外に出られない。家の中でなんらかの仕事をしなければならなくなるからだ。もちろんやることはいくらだってあるのだが、家にいると、必然的にひなとも一緒にいる時間が長くなるということで、それが困るのである。
実際、数日前に雨が降った時は、何をしていてもとにかく落ち着かなかった。その日は二太と三太もくっついてきたし、あとから十野もやってきたから気まずい沈黙の時間を過ごさずに済んだからよかったものの。そういえば、十野のお喋りに感謝したのは、あれが生まれてはじめてだ。
(──見ていられねえよ)
内心で呟いて、ごろんと寝返りを打つ。横向きになって、まるで太陽から隠すようにした千早の顔は、苦く歪んでいた。
苛々する。もどかしい。腹が立って、やりきれない。焦る気持ちが日に日に募っていくけれど、それをぶつける先が見つからなくて、自分の中に溜め込むしかない。それだから尚更、鬱屈ばかりが増加していく。
苛立ちは、自分自身に、そして、誰よりもひなに向かうのがいちばん大きかった。
見ていられない。ひなは判っていないのか。判っているとしても、どこまで自覚しているんだ。
……あんなにも、憔悴しきった顔をして。
顔色は青いというよりは白く、華奢だった身体の線が、さらに細く薄く頼りなくなっている。
普通に歩いていても足許が覚束ないほどふらふらしているのに、以前と同じように動き回ろうとするものだから、時々立ち眩みを起こしているらしい。
もとから体力はなさそうだったが、それでも今までのひなは最低限、健康ではあった。しかし現在、あれでは完全に半病人だ。
そんなひなが、変わりなく千船の許にやって来ては、同じように縫い物をしながら世話を続けているのである。千船がそれをやめさせないのは、ひとえに、今のひなを一人にさせておけないと思っているからに他ならない。
八重も十野も、二太や三太でさえ、ひなの様子がおかしいのは気づいている。それでも誰も何も言わないで、息を詰めるようにして彼女を見守っているのは、そこに、迂闊に手を触れられないような危なっかしさがあるからだ。
ぴんと糸を張ったような緊張感が、今のひなにはある。下手なことをしたら、あっさりと崩れ落ちてしまいそうな脆さがある。だから、誰もが腫れ物を扱うようにしてひなに接するしかない。いくら心配でも、なんでもないように振舞うしかない。話して、笑って、こっそりと様子を窺いながら。
……怖いんだ。
あまりにも、ひなが虚ろな抜け殻みたいで。微笑んでも、そこにはもう前みたいな柔らかい空気はない。ここではないどこかを見ている、人形のように生気のない瞳。少し押したら、簡単に魂が現世から離れていってしまいそうで。
それが、怖くて。
判っているのか、ひな。二太と三太が、無邪気な顔でお前にまとわりつきながら、どれだけ泣きそうな目をしていると思う。十野がぺらぺらと口を動かしながら、いたたまれないように視線を逸らしているのはなんでだと思う。八重があちこち奔走して食料を調達しようとしてるのは、お前に少しでも栄養を取らせたいからだって、知ってるか。
「……くそ」
呻くような言葉が、勝手に口の端から漏れた。胸に湧いてくるのは、ひたすら後悔ばっかりだ。
本島なんかに、連れて行くんじゃなかった。あの時、ひなの許を離れるんじゃなかった。やっぱりあの侍を捕まえて、なんとしても事情を問い詰めるべきだったのか。あの時一体、二人の間に何があったんだ。
ひなが日を追うごとにやつれていくのは、その時に何かを知ったからなのか。
それとも。
あれが契機になって、何かを思い出したからなのか。
ひなはもうすでに、羽衣の端っこを、その手の中に握りこんでしまっているのか──
「頭」
突然かけられた声に、びくっとして、弾かれたように上体を起こす。
目を向けると、三左がゆっくりとこちらに近寄ってきているところだった。小さな漁船と違って、身の丈の高い海賊船に乗り込むには、陸と船とを繋ぐ踏み板をぎしぎしと渡って来なければならないというのに、その音でさえ耳に入っていなかった。どれだけ頭が飛んでたんだ、と舌打ちしたくなる。
「おう、なんかあったか」
ことさらに、なんでもない声音を出す努力をした。頭代理となってからずっと、感情を外に出さない訓練を続けてきたことが、こんな形で役に立つとは思ってもいなかった。
三左は黙ったまま、すたすたと真っ直ぐ歩いて千早のすぐ傍まで来た。いつもよりも無表情が際立っているように思うのは気のせいかな、と訝る。
「なんだよ?」
何か問題でも起きたか、と問いただそうとして、口を開きかけた瞬間。
勢いよく飛んできた拳に、全力で頬を殴られた。
***
とりあえずその場に倒れるというみっともないことにまでならなかったのは幸いだった。いきなりだったにも関わらず、舌を噛まなかったのも運が良かった。
しかしそれ以外は幸いだとか運がいいとかの問題ではない。目から火花が出て、首が吹っ飛びそうな衝撃になんとか耐えるだけで精一杯だ。鼻の骨までは折れていないだろうが、間違いなく明日になったら顔の形が変わっている。
「頭が座ってるんで、上手いこと拳が入りませんでした。立たせてから殴るべきでしたね」
三左は表情も変えずに、しれっとそんなことを言っている。てめえ、人を殴っといて、なに呑気に反省点なんか述べてやがんだ、と千早はむかっ腹を立てたが、切れてしまった口の中が血だらけなので言葉を出すどころではない。しかも、なんでこんな時までそんな言葉遣いなんだ。
「……ってえな」
唇から垂れる血を腕でぐいっと拭いて、やっと、声が出せた。けれど自分でも不思議なほど、そこに怒りは入っていなかった。
「殴るなら、せめて、事前にそう言えよ」
何かを考える前にそんなことを言ってしまってから、気づく。
──ああ、そうか。
今の俺は多分、誰かに殴られたかったんだ。
自分じゃ、自分を殴れねえもんな。
本当言うと、それが三左でよかった、って思ってるくらいなんだ。
「事前に言ったら身構えちまうから、あんまり痛くならないでしょう」
三左はあくまで当然のような顔つきだった。本来なら、もっと痛く殴ることも出来たのに、残念、と思っているらしい。三左は気が優しいから喧嘩なんかは滅多にしないのだけれど、実際のところかなり強いのだ。
「……理由を訊いてもいいか?」
「訊かなきゃ判りませんか」
三左の声はどこまでも冷淡だ。わかんねえ、と呟くと、怖い顔がますます怖くなった。
「どうして、ひなをあの状態で放っておくんです?」
頭上から降ってきたその言葉に、大人しく胡坐をかいた膝の上で、自分の右手の中指だけが何かに反応したみたいにぴくりと動いた。
「……どうして、って?」
視線を下に向けたまま、ぼそりと問い返した。
なんでそんな、俺が何かをして当たり前みたいな言い方するんだろ、こいつ。
「今、泣いてますよ、ひな」
今度は、胴の辺りが身じろぎした。
「……どこで?」
「自分の家で、一人っきりで、声も出さないでずっと」
「…………」
ということは、今日はもう自分の家に帰ったんだな、と思って内心でこっそり安堵した。昨日家まで送った時、あまりにふらついているのを見かねて、千早が父親に「明日はなんとか早いうちに帰らせろ」と言っておいたのだ。十野たちにも言い含めておいたから、今日は誰も来なかったはず。
放っておいているわけではない。千早は千早で、そうやって手は打っている。最小限だけれど。直接的には、何もしていないも同然だけれど。
「……そのまま、家に入っていって、慰めてやりゃよかったじゃねえか」
近頃のひながよく泣いているみたいなのは気がついていた。目は充血しているし、瞼がぱんぱんに腫れていることもある。気づいていながら何もしなかった自分より、口下手とはいえ三左のほうがまだしもひなに救いの手を差し伸べられる。
千早の気のない口調に、三左はしばらく無言だった。今度こそ胸倉掴んで殴られるかと思ったが、そういうこともない。
「頭は、それでいいんで?」
その代わり、静かな声で問われた。
正直、殴られるよりもキツかった。
いいよ、と言うべきなのに、どうしても口が動かない。
「俺が、ひなのところまで寄っていって、声をかけて、涙を拭いてやったり、抱き締めてやったりしても、なんとも思いませんか」
「…………」
お前にそんなことが出来るのかよ、と憎まれ口のひとつでも叩いてやりたいところなのに、唇は頑固に閉じていた。目線を船の床板に据えたまま、ぐっと歯を喰いしばる。
「俺だって男ですから、弱ってる女につけ入ることくらいは出来ます。今のひなは、支えをなくした細い枝だ。手を差し出せば、こっちに倒れかかってくることもあるかもしれませんね」
そんなこと──と否定しかけ、あるかもしれないな、と思い直す。ただでさえ、ひなは三左のことを信頼して、気を許してるんだから。
以前に見た、ひなと三左と、子供たちの後ろ姿が頭を過ぎった。
三左と所帯でも持ったら、あんな風に、穏やかな表情でこの羽衣島で暮らせるんだろうか、とまるで幻想のようなことが胸に浮かぶ。
過去も、あの侍のことも、全部なかったことにして。
そうしたら、自分もこの痛みから解放されるのか。
「……俺は、ひなのことが好きですが」
咄嗟にぱっと顔を上げて、三左を見てしまった。それは判っていたことだったのに、本人の口からはっきり言われると、なんだかやたらと動揺した。
三左は、少し目を細めてこちらを見返していた。
「ですが、向こうにそんな気がないんだから、仕方ありません。人と人なんざ、そういうもんですからね。俺は、自分自身の気持ちの始末のつけ方くらいは心得ているつもりです。俺が我慢ならないのは、頭が、間違った方向に行こうとしてるからですよ」
「──間違った方向?」
振り仰いだ目に、太陽は眩しかった。自分の目の前で、落ち着いた態度で立っている男も同じように眩しい。
不器用で、心優しくて、いつも怒ったような顔をしてる三左は、きちんと自分の気持ちと向き合い、なおかつそれを受け入れられるだけの度量をもった、大人の男だった。
それに比べて、この間の七夜といい、最近の千早は、まるで年長者に諭される子供だ。
「自分自身を殺してまで、『頭』になることはないってことです。そんなことをしなくたって、あんたは頭だ。先代の息子だからって理由じゃなく、それだけの器があるから、俺や七夜はあんたを『頭』と呼んでる。昔から見てきて、千早という男は頭になれると判断した上で、そうしてる。それをちゃんと理解していますか」
千早はうな垂れた。
一年前。
代理の頭となることが決まった時に、千早はいろんなことを決意し、覚悟し、自分の中のたくさんのものを捨てることにした。
島の住人も、部下も、その大半が、自分より年上だ。そういう連中を引っ張って、船に乗り、指示や命令を出して、まとめ上げなければならない。年が若くたって、頭には島を守る責任がある。だからせめて皆が不安にならないように、千早はどんな時でも「大人」であろうとした。
人一倍頭を働かせ、今度こそ判断を誤らないように。
羽衣島の益となることだけをいちばんに考えて、冷静に、時には冷酷に、選び、切り捨て、感情を隠して。
子供だった以前の「自分」すら、捨てようとして。
「今のあんたは、千早っていう人間を置き去りにして、架空の『頭』って存在を作ろうとしてるように、俺には見えますね。言っておきますが、それは絶対に、間違いです」
三左はそれだけ言ってから、くるりと背中を向け、また船から降りていった。
「…………」
千早はじっと口を結んで、また視線を下に向けた。
殴られた頬が、そして頭の中が、熱をもってじんじんと痺れている。
「……俺は一体、なにしてんだ」
吐き出すように、呟いた。




