ひな(12)・本島にて 3
すぐに戻る、と言って、また市の方へと向かっていく千早の後ろ姿を、ひなは心許ない気分で見送った。
遠ざかっていく背中は、すぐに人の波に紛れて見えなくなってしまう。彼の姿が視界から消えた途端、今まであまり気にならなかったのに、いきなり周囲の喧騒が耳につきだした。
そこかしこから聞こえてくる人々の賑やかな話し声や笑い声が、却ってここにいる自分を、ぽつんと一人置き去りにするようで、孤独感がひしひしと押し寄せてくるようだった。
この感じ、ひなが羽衣島に流れ着いた最初の日に、小屋に運ばれ寝かされた時に覚えたものとよく似ている。
耳に入る知らない人々の声が、自分と世界とを隔絶するような、たまらなく心細い気持ちにさせるのだ。
その心細さから、つい、千早は何を買いに行ったのだろう、というような、考えなくていい方向に思考が向いてしまう。自分のものを買うのではないのだろうな、ということは見当がついた。それだったら、わざわざひなを置いていく必要はない。
きっと、誰かにあげるものなのだろう。そしてそれは、多分女性だ。十野か、あるいは、この本島にいる誰かか。こんな時に限って、二太や三太が言っていた、「千早はああ見えて女ったらし」なんていう声が、脈絡もなく頭に浮かんできて、ちくりと胸を刺す。
十野のことばかり気にしていたけれど、実は千早には本島に恋人がいる、ということだって大いにあり得るのだ──ということをふいに思いついて、ひなは動揺した。
だって、いる、とは聞いたことがないが、いない、とも聞いたことがない。そういえば、二、三日島に帰らないことがある、と千早自身も言っていたっけ。それはつまり本島に──
いつの間にか、そんなことを悶々と考えていることに気づいて、ひなはぱっと頬を紅潮させると、勢いよく頭をぶんぶんと振った。
自分はなんて嫌な、浅ましいことばかり考えているのだろう。千早の私的な部分をあれこれと勝手に憶測して気を廻すなんて、とても失礼なことだ。自分には関係ないことなのに。
(そう、関係ない)
と、確認するように胸の中で繰り返した。
ひなにとって、千早が関係ないのではない。千早にとって、ひなが関係ないのだ。ひなは、千早の人生になんの影響も与えない、通りすがりの人間でしかない。
彼の生活に突然乱入した厄介者、ただそれだけの存在だ。千早にどんな恋人がいようが、これから十野のような大地に根ざした明るい女性を妻に迎えようが、それについてひなには何を思う権利もない。
笑いかけてくれたり、親切にしてくれたりするからといって、勘違いしないようにしよう、とひなは自分を戒めた。
関係ない、関係ない。千早が今、どんな表情で、何を見ていようとも。その心に、誰の面影が浮かんでいようとも。そのことを想像するだけで、どんなに息苦しいほど胸が痛んでも。
(──なんて、醜い)
ひなはうな垂れながら思う。
自分が今抱えているのは、間違いなく嫉妬というものだ。関係ないといくら自分に言い聞かせても、もやもやと湧き上がる黒い感情はどうしたってなくなったりはしない。ついさっきまで千早が自分に向けてくれていた笑顔が、他の女性に向けられることを考えるだけで、こんなにも、辛い。
ひどく……寂しい。
手に持った包みを、ぎゅっと握り直した。帰りたい、と強く思う。羽衣島に、八重や二太や三太のいるところに。
いってらっしゃい、と送り出されただけで、胸が弾んだ。
今度は、おかえり、と言ってもらえたら、どんなに嬉しいだろう。
──あの島は、仮そめの「帰る場所」ではあるけれど、それでも、今のひなにはとても大事な場所なのだ。
ひょっとしたら、自分の生まれ育った地であるかもしれない、この本島よりも。
千早が戻ってきたら、もう帰りましょう、という意思表示をしてみよう。わざわざ連れて来てくれた彼には申し訳ないけれど、現在のところ、この場所にひなの記憶を呼び起こすようなものは何もない。不知火の人たちのことも気がかりだ。
千早の言うとおりならば、羽衣島にいさえすれば彼は安全ということのようだから、なるべく早く帰るに越したことはないだろう。
そんなことを考えていたので、ひなは、いつからか自分の前に人が立っていたことに気がつかなかった。
「……どの?」
息を呑むような声に、やっと我に返った。顔を上げ、その人物に目を移す。
そこにいたのは、一人の武士だった。齢は四十代半ばといったところ、濃い色の直垂を身にまとい、腰には刀を差している。一見して、それなりの身分であると判った。
彼は、顔を上げたひなを見て、さらに驚愕に目を見開いた。みるみるうちに、顔から血の気が引いていく。
「なんということ……」
喘ぐように声が喉から押し出された。
ひなはとにかく手の中の包みをそっと置いて岩から立ち上がったものの、それからどういう態度を取ればいいのか判らなくて戸惑ってしまう。こういう場合、もっと腰を低くして、礼を取ったりするものなのだろうか。
ためらいいつつ、足を曲げようとしたところで、強く腕を取られた。驚いて見返すと、武士はそのひなよりも更に驚いたような表情をしている。
「何をしておられる。このような場所で、そのような格好で、その上身分の低い者のような真似をなされるおつもりか。あなたは、一体、どうして」
叱咤するような口調でもあるし、困惑しきった口調でもあった。風貌はいかにも重厚で、いかめしい雰囲気を持った人物であるのに、彼がひなを見る目は、不安げな頼りない子供のようでもある。
驚きと、怒りと、困惑と──怖れ。それらが一度に襲いかかってきて、彼自身にも収拾がつかないというような、そんな感じだった。
しかし、ひなにはその理由がさっぱり判らないのだから、対応のしようもない。改めてその武士と正面から向き合って、首を傾げた。頭を下げたり腰を低くしたりしなくてもいいということなので、真っ直ぐ立ったままだ。ひなにしてみれば、恩義のある千早や三左に膝をついて礼を言うことは自然でも、見ず知らずの武士に対して、止められてまで自らへりくだりたいとは思わない。
(……わたしを、知っている人なんだろうか)
記憶を失う以前の「自分」を。
そこまでは簡単に推測がついたものの、じゃあ、どうすればいいのかということが判らない。
目の前にいる相手は、明らかにここにひながいることを咎めるような目つきをしていて、それが余計に、彼に対して取るべき態度を迷わせた。
すると突然、武士がひなの腕を取ったまま、ぐいと引っ張って歩き出した。びっくりして、抗ってはみたものの、とてもではないが力で適うような相手ではない。ずるずると引きずられるようにして従うしかなかった。
困り果てながら、ひなは今まで自分が座っていた岩と、その上に乗っている包み、それから市のほうへと顔を向けた。
いきなり現われた武士と、それに引っ張られていくひなとを、ざわざわとうろたえる空気で人々が遠巻きに眺めていた。もちろん、問いかけたり、ましてや止めたりする者は一人としてない。
(千早さま……)
心の中で、か細く呼んでみたけれど、やっぱりその人の姿は見えなかった。
***
武士はしばらく歩いてひと気のない場所まで来ると、ひなのほうを向いた。
近くには鬱蒼とした林があるだけの、見通しも悪く、人家もないようなところだった。悲鳴を上げても、誰にも聞こえないだろう。そもそもひなには、悲鳴なんて上げられっこないのだが。
それでも不思議と恐怖心が湧かなかったのは、目の前の武士からは、ひなに対する悪意や害意のようなものが、まるで感じ取れなかったからだ。掴んでいた腕から手を離すと、彼はまず、深く頭を下げた。まるで、謝罪をするように。
それから、また厳しい表情でひなを見て、
「……生きて、おられたか」
と、ぼそりと呟いた。
(え?)
ひなは目を大きくして彼を見返す。その言い方──つまり彼にとって、ひなはもう、「死んだ人間」であったということか。
そういえば、はじめてひなの顔を正面から見た時のその顔は、幽霊を見るかのようなものだった。
だとすると、やっぱり自分は千早たちの言うとおり、海賊などに攫われて、生死不明の状態だったということなのか、とひなは思った。攫われて、死んだものと、諦めていたと。
……しかし、続けて口を開いた武士の言葉は、それを否定するものだった。いや、さらにひなの混迷を深めるようなものだった。
「それだったら、どうしてこの場所に再び戻ってこられた。あなたはご自分の境遇もお立場も、すべてご理解されていたはず。そういう聡明な方だから、私だって万難を排しご協力申し上げたというのに……。あなたによく似た方が市をうろついているという報告を聞いた時には信じられなかったが、こうしてこの目で見てしまっては、このまま放っておくことも」
そう言いながら額の汗を拭う彼の口ぶりには、間違いなく憤りが混じっていた。それから、焦りと緊張。ひなも混乱していたが、彼もまた、目の前の現実にひどく混乱しているようだった。
「なにか仰られたらどうか」
ひながずっと黙っていることに苛立ちを抑えきれなくなったのか、武士は語調を強くして言った。ひなも覚悟を決め、自分の右手をすっと動かす。
喉を押さえ、首を横に振った。
そして口を開き、声を出そうと試みた。
もちろん、そこからは、しゅうという空気の漏れる音しかしない。
それでなんとか通じたらしい。武士はまた驚いたように目を丸くした。
「……声が、お出にならないと」
こくりと頷く。それから、自分を指差し、相手を指差し、もう一度首を横に振った。自分の頭をちょんちょんと指で叩いて、首を傾ける。
彼は、その意味も悟ったようだ。とても頭のいい人なのだろう。非常に衝撃を受けたような顔をして、ますます青くなった。
ごくんとひとつ唾を飲み込み、口から出た声は、わずかに震えていた。
「覚えておられ、ない?」
また、こくんと頷く。武士はしばらく言葉も出せずに固まっていたが、一旦そこから解放されると、今度は矢継ぎ早に問いかけてきた。
「ご自分のことも? 私のことも? お名前も、お生まれも、お育ちになった過程も、今までにあったことも何もかも、覚えておられないと言われるか。ご自分が──何者かも」
「…………」
何者か、という言葉に、ひなの鼓動がどくんと跳ねる。その言い方は、ただ単に名前や出自について言っているのではない気がした。もっと、深遠な。もっと、暗い意味を持つ何か。
ひなが知りたくて、知りたくない、何か。
武士は強張った表情で、穴の開くほどひなを見つめ続けた。それから、ふっと、その瞳に驚愕以外の複雑な感情が浮かんだ。理解と同時に浮かんだそれは、敢えて言うなら、「憐憫」とでも呼ぶのが近かったかもしれない。
「声と記憶を失くして……そうまでして、封じようとなされたか」
その言葉の意味は判らなかったけれど、ひなは決心して口許を引き締めた。そして、大きく息を吸い込んだ。
なんであれ、この人物は自分のことを知っているようなのだ。では、ひなは、なんとしても、それを聞かなくては。
どんなに怖くても、無意識が知るべきではないと告げていても。ひなは、自分がどういう人間であるのか、ちゃんと知らなければいけないのだ。
地に足をつけるために。
もっと、強くなるために。
──が、足を前に一歩踏み出したところで、
「ひなっ!」
という大きな声が背後からかかった。
名を呼ぶというより、怒鳴りつけるようなその声に、びくりとしてひなは動きを止めた。瞬間、そのひなの前に、風のように素早く、人影が立ち塞がる。
え、と思う間もなく、気がついた時には、広い背中がすぐ前にあった。
「……俺の連れが、なにか無礼でも」
押し殺したような声は、息切れの合間に千早の口から出てきた。ひなからは彼の後ろ姿しか見えないのだけれど、肩が忙しなく上下し、首筋に汗が光っていることくらいは判る。全身から熱気が放出されて、今まで千早が必死に走り回ってひなを探してくれていたのかということが、それだけで察せられるほどだった。
「…………」
いきなり現われたその存在に、武士は動じた様子は見せなかった。口を閉じ、対峙した青年をまじまじと眺める。
「ひなどの……いや、ひな、と申すか」
呟くように言った。
武士はひなを庇うように立ちはだかる千早を見て、それからひなに視線を移した。
その目に、ほんの一瞬だけ柔らかな光が灯ったような気がしたけれど、彼はすぐさまそれを消した。あっという間に、今までとはがらりと違う冷徹な表情を顔に乗せ、また千早のほうを見る。
「この娘の顔かたちがちょっと気に入ったのでな、たまには民草の女を相手にするのもよかろうかと気が向いて連れてきたまでのことよ。しかしまあ、興が削がれたわ。無礼は見逃してやるゆえ、早う去ね。やはり下々の女は遊び相手にすらならぬ」
吐き捨てるような口調は、まったくの別人のようによそよそしかった。その変わりようを目の当たりにしていたひなでさえ信じてしまいそうになるくらい、彼は完璧に自分自身を冷たい仮面で覆い隠した。
千早がぐっと拳を握り締める。ひなは緊張したが、千早は何も言い返さず、そのまま黙り込んだ。
「お前たちは、このあたりに住んでおるのか」
武士の問いかけに、千早が「……いえ」と短く答えた。湧いてくる感情を押し潰して、却って何もこもらなくなったような、平べったい声音だった。
「近在の島か」
「…………」
今度は、千早は何も言わない。答える気がないのか、いろいろなことを計算して黙っているのか、その胸の内までは、ひなには計りようがなかったが、武士はその無言を肯定と受け取ったらしい。わずかに、口許に安堵の色が滲んだようにも見えた。
……多分、彼はひなに、本島にいて欲しくはないのだろう。どんな理由でかは、判らないのだけれど。
「では、早く帰るがいい。今は見逃してやるが、今度顔を合わせた時まで、わしの機嫌が良いまま続くと思うなよ。次に、わしにその娘の姿を見せたら、その時は有無を言わさずたたっ斬る。命が惜しくば、二度とその娘を島から出さないことだ」
二度と、という部分に力を込めて、ちんと刀の鍔を鳴らした。そうしながら、ひなに向けた彼の目には、はっきりと警告があった。これは千早に対する言葉ではなく、ひなへの言葉なのだ。
彼はひなに、もう二度と、自分の前に現われてはいけないと言っている。現われたのなら、その時こそ、自分は迷わずあなたに刀を向けるだろう、と。
(待って)
ひなは武士に言おうとした。口を開き、訴えるように目で彼の視線を捉える。
身じろぎしたのを背中で感じたのか、千早が武士に視線を据えたまま、後ろに廻した腕でひなの動きをきつく封じた。動くな、行くな、と制止している。けど──この機を逃してしまったら、もう、ひなの過去への手がかりはなくなる。
おそらく武士は、それを知らないままでいろと言うのだろう。何も知らないまま別の人間として生きていくのなら、それでいい、ということなのだろう。そして二度と本島にも来ないように、自分にも関わらないように、と言っている。きっと、それが最大限の彼の気遣いなのだろう。でも。
でも、このまま、過去を知らないまま、何も知らないままでは、ひなはずっと、中途半端にしか生きられない。そんな気がするのだ。
焦燥を露わにしたひなの顔を一瞥して、けれど、武士は表情も変えずなにも言わず、素っ気なく背中を向けた。
──武士が去って、その姿が見えなくなると、千早の身体から強張りが解けた。
きっと、彼は彼で神経を張り詰めさせていたのだろう、深く静かな息を吐き、ゆっくりとひなのほうを振り返る。
両肩に手を置き、ひなの顔を覗き込んだ。その目には、案じる色がくっきりと現われていた。千早のこんな顔、見るのははじめてだ。心配させてしまったんだな、と申し訳なく思う。
「……無事か、ひな。何もされなかったか」
はい、というつもりで頷いた。されるも何も、ずっとあの武士は、ひなに対して丁寧に接してくれていた。けれどそれを、千早に上手に伝えるすべが見つからない。
千早はそれを見て、安心したように小さく息を吐いたが、すぐにまた真顔になった。
なんとなく疑わしげなものが目の端に宿る。
「なあ、あの侍、本当に単なる下心だけでお前をこんな場所まで連れてきたのか? ……あいつ、ひょっとして」
「…………」
ひょっとして、お前のことを知ってるんじゃないのか──と、おそらく千早は訊こうとしたのだろう。
千早のことだから、武士の態度に何がしかの違和感は覚えたに決まっている。
でも、今のひなに、なんと答えられるのか。
ただでさえ、ひなは声が出ないのに。身振り手振りだけで、今の複雑なやりとりを千早に教えることなんて出来るとは思えない。それにきっと、今からあの武士に追い縋ったところで、彼はもう決して口を開こうとはしないだろう。それどころか、千早まで危険に晒すことにもなりかねない。
あの武士はもう、ひなを無関係な他人として切り捨てたのだ。刀に手をかけた時の彼の目は本気だった。
結局、ひなは首を横に振って、千早の言葉を否定するしかなかった。千早は少し口を噤んだが、「そうか……」と一言言ったきり、それ以上のことを問いかけてはこなかった。
視線を下に落とし、細く深く息を漏らす。
なにも、判らない。自分が何者なのか、判らないままだ。あの人がどこの誰かも判らなかったから、この先、ひなの過去を知る手がかりは消えてしまった。本島に来ることさえも禁じられて。
あの武士がひなに伝えたかったことは、きっと、ひとつ。
(知る必要はない、知ってはいけない、と)
──でも、はっきりと判ったこともある。
ひなには、本当の意味での「帰る場所」は、もうどこにも存在しないのだ。




