千早(11)・不知火島
「さあ、ひなちゃん、これに着替えなよ」
どこからか借りてきたらしい着物を手に持って、八重がいそいそと戻ってきた。
こんな島のことなので、誰に借りたにしろ、そんなに上等な代物があるわけもない。しかし、普段のひなが着ているような色の褪せた質素なものに比べれば、その明るい色目の着物は、ひなの透けるような肌を引き立たせ、若い娘らしい華やぎを与えることには充分な役目を果たした。
言われるがままその着物に着替えたひなは、ついでだからと、八重の手によって、いつもはきっちりと頭の後ろで結わえられている髪を、ふんわりと背中の下の方で緩くまとめられた。そういう髪型をすると、小さくて細い顔が、ずっと品よく見えることも判明した。大きな目や形のいい唇がより際立って、要するに似合う。
八重は、自身には息子しかいないのに、若い娘をより良く見せる手立てをちゃんと心得ているらしい、ということは間違いないようだ。だてに年齢を重ねていないということか。
着物を替えて、髪型を変えただけなのに、そうしたひなは、いつもの彼女とは随分と雰囲気が違っていた。
(……だけど、なにもここまでしなくてもいいんじゃねえのかな)
と、その姿を見た千早は戸惑い顔だ。
ちょっと本島に行って、ちょっと市を見てくるだけなのに、こんなことまでしなくても。いやまあ、でも考えてみたら着物と髪型を少し変えただけなんだし、他の娘だって本島に行く時にはそれくらいするか。けど普通は、たったこれだけのことで、こんなにもがらっと印象が変わったりはしねえだろ。
心の中でもごもご続けた呟きは、少々混乱しかかっている。
早い話、いつもよりぐんと愛らしさが増してしまったひなを前にして、千早は少しうろたえてしまったのである。
自分の心積もりとしては、日常のちょっとした延長として本島に足を伸ばす、程度にしか考えていなかったのに、これではまるで、八重のところの三兄弟が口にしたような「逢引」に出かけるみたいじゃないか──と。
一緒に本島に行って、市を見て廻るだけ。そうしながら、ひなの考えていることを少しでも知っていけたらいいと思っただけだ。この羽衣島では、なかなか二人での時間をとることが難しいから、じゃあ別の場所に行けばいいんじゃねえか、と単純に思いついただけ、なのだが。
あれ? とここに至って、千早はいきなり自信がなくなった。
これって、逢引……じゃない、よな?
「ひな、可愛いな!」
「いつもよりもずっと綺麗だぞ!」
二太と三太は大はしゃぎで、ひなの周りをぐるぐると廻っては、やたらと率直に褒め上げている。やめて欲しい。これでは、何も言わずにただ突っ立っているだけの千早が、ものすごく気のきかない男みたいではないか。
言ってはなんだか千早だって、女を褒めるすべくらいは心得ている。七夜ほど女あしらいに長けているわけではないが、三左ほどそちら方面に関して不器用ではない。多分。
その着物よく似合う、とか、女っぷりが上がったなあ、くらいの言葉、今までにだって何度も口にしたことがあるのだ。本島で相手をするような女たちに対して、そんな風に戯言交じりで口説いたこともある。それと同じように軽い調子で言えばいいんだよな、とは思うのに、妙にやりにくいのは何故なのか。
「どうだい、千早。この着物よく似合うだろう。一段と女っぷりが上がったじゃないか」
結局、まごついているうちに、八重が代わりに口に出してしまった。
しょうがないから、「……おう」と返事をするしかなくて、余計に何も言えなくなる。我ながらなんとも間抜けだ。
千早の愛想のない返答を聞いても、ひなは取り立ててがっかりした様子もなかった。そもそも、千早に褒めて欲しいなんて思ってもいないのかもしれない。ただ大人しく、千早が次の行動を起こすのを待っているだけのようだ。
というより、ひなはひょっとしたら、自分の容姿についてほとんど関心がないのではないか、と千早は思った。自分が男からどういう風に見られる外見か、てんから気にしていない可能性もある。だから、いろんなことに対して無防備なのか。それはそれで、問題があるような気がするのだが、すごく。
「──じゃあ、行くか」
考えているうちにげんなりしてきて、千早は一言も自分の感想を言葉にしないまま、そう言ってくるりと身体を反転させた。
いってらっしゃい! という八重の元気な声と、見送るその家族に向かって手を振ったひなは、ちょっとだけくすぐったそうに、けれど、可愛いとか綺麗だとか言われた時よりも、ずっと嬉しそうな顔をしていた。
***
舟に乗ってしまえば、あとはもうそれを操ることだけを考えていればいいのだから、却って気が楽だった。
「お天道さんがもっと上にまで昇っちまうと、また潮の流れが変わるんだ。まあ、天候によっても違うけど、船を進めるのも難儀になることもあってさ、本島まで行く時には、そういうのを見計らって出さないといけねえんだよ。外から羽衣島に入るのも同じように、時間帯と潮の流れを見て──」
船尾についている艪を漕ぎながらの千早の説明を、ちょこんと舟の真ん中に座ったひなは生真面目な顔で聞き入っている。
島の周囲は潮の流れが激しいので、そこを通り抜ける時はけっこう舟も揺れたし、怖がるかなと思ったのだが、ひなは案外平気そうだった。今も、千早が器用に舟を操るのをじいっと興味深そうに眺めていて、そのさまは無邪気なほどだ。か弱いところはあるが、臆病というのとはまた違うということなのだろう。
そうしているうちにすっかりいつもの調子を取り戻した千早は、さっきまでひなに覚えていたぎこちなさを完全に頭から放り出すことに成功した。もともと千早は海の男だから、陸にいるより舟に乗っている時のほうが、よっぽど生き生きとしてしまうのだ。
ひなに向かって、潮の流れや波の高さや風の向きについての講釈を一通り垂れてしまってから、我に返った。ひなはずっと黙って聞いているが、そりゃそうだ口がきけないんだもんな、という大変当たり前のことに気づいたのである。
「悪い、こんな話、退屈だよな」
謝ると、ひなは少し目をぱちくりさせて、それから首を横に振った。
目を細め、にこ、と優しく笑う。
退屈じゃない、と言っているらしいのは判ったが、それが本心なのか、千早に気を遣っているのかまでは判らない。ひなが声を出せれば、それがはっきり判るのだろうか。それとも、「そんなことはない」と口に出して言っても、やっぱり真意までは読み取れないのだろうか。
千早は今まで、他人のことをこんな風に考えることはなかった。嘘か真かを自分で判断して取捨選択することはあっても、表面に出てこないものにまであれこれ気を廻してしまうなんて、自分らしくないなと思う。
少しだけ考えて、千早は艪から手を放し、座っているひなと向き合うようにして腰を下ろした。ここは波の穏やかな場所だから、舟を漕がなくても、見当違いの方向に流されていくことはない。
「……なあ、ひな」
口調が改まったことに気づいたのか、ひなが途端にぴしゃんと背筋を伸ばした。
それを見て、いやいや緊張すんな、とちょっと慌てる。緊張されたら、こっちまで変に固くなってしまうではないか。
少し間を取って、ぽりぽりと指で頬を掻いてみる。
「えーと、お前はさ、俺の考えることが、大体判るだろ?」
「…………」
そこで千早は、ひなが頷くものと信じて疑っていなかったのである。だって千早は、三左ほど無口でもないし、七夜ほど自分を隠すことが上手でもない。短気な部分はすぐに顔を覗かせがちで、思ったことのすべてを外に出すわけでもないが、口にする言葉の内容に嘘が入っていることもない。
だからまあ、自分の考えることなんてのは、ひなにだって大体判るだろう、と。
その上で、じゃあ俺は、声の出せないお前と、どうやったら意思の疎通が上手いこと出来るのかな──という方向へ話を持っていこうとした千早は、ひながその問いにかなり複雑な表情をして、それからきっぱりと首を横に振って否定を示したことに、心底驚いた。
「は?」
思わず、声の調子を上げてしまう。
「判らないのか? いや、そりゃ、細かいことは判らねえとしてもさ、ほら、二太や三太を相手にする時みたいに、なんとなく、こういうこと思ってんだろうなー、くらいのことは判るだろ?」
ついつい問い詰めるような言い方になってしまったが、ひなは眉を下げながらも、やっぱり首を横に振った。
「はあ? 全然? じゃ、八重とか、十野とかは? 判るのか?」
今度は、こっくりと頷いた。ちっとも迷わなかった。まあ、あいつらは判りやすいからな、というか、考えが心の中に留める前に口に出ちまってるからな、と思えばそれはまだしも納得できる。
「じゃ、うちの親父は?」
その問いには、ひなはちょっと考え、親指と人差し指を広げて隙間を作った。どうやら、「少し」と言いたいらしい。底のほうでは何を考えているのか判らない、という意味なら、ひなの判断は非常に正しい。
いや、でも、「少しは判る」のか。
「……三左は?」
それにもまた考えて、同じように指と指を広げたが、千船のものよりはその幅が大きかった。なんだか知らないが、それが結構、胸にこたえる。
千船よりも判る、って?
「じゃ、俺だって判るだろ」
しかしひなは、それにはきっちりと首を横に振るのだった。
ひなは変なところで変な風に遠慮ばっかりするくせに、部分的にものすごく強情な面があるらしい。
なんであんな愛想のない男のことは判って、俺のことは判らないんだよ、と思うと、どうしたって腹が立ってくるのが抑えられない。
眉を寄せ、口を結び、つい、むっつりと黙り込んでしまう。
「……どんくさい女」
しばらくして、ぼそっと悪態をついたら、ひなは少し驚いたように目を見開いた。
口がきけたら、「まあ」とでも声を上げそうな呆れた表情をしていた。そこに、以前のように怯える色が乗っていないのは、多分、千早の声音に、かなり子供っぽさが混じっていたからだ。
しかしひなのその顔を見たら、余計にむくむくと苛めてやりたくなってしまったのだから、実際、この時の千早は子供だったかもしれない。続けて口を開いて、出てきたのは、拗ねて咎めるような声だった。
「なんでそんな、まったく判らない、なんてことがあるんだよ。俺、そんなに複雑な性格してねえぞ。要するにお前、俺のことが嫌いなんだろう。さては、お前が魚を炭にした時、腹がよじれるほど大笑いしたことを根に持ってんな?」
ほとんど言いがかりに近いような文句を言ったら、ひなはますます驚いたような顔をした。
ん? と思って自分の失言に気づく。そういえば、魚を炭にした時に千早が大笑いしたことは、ひなは知らないんだっけ。
ひなは今になって知ったその事実に、少し顔を赤くして眉を上げ──それから、ぷくっと頬を膨らませた。
これは、判りやすかった。
そんな顔をしたひなを見るのははじめてで、そういうひなは予想外に可愛くて、千早は堪らず噴き出してしまう。よっぽど、炭になった魚の件はひなの急所を直撃するんだな、と思ったら余計に笑いが止まらない。あんまりしつこくからかいすぎたか、という反省はとりあえず後回しである。
「お前でも、そんな風に怒ることがあるのか」
笑いながら、人差し指でちょんと丸くなったその白い頬を突っついてみる。ひなはよりいっそう顔を赤くして、少しだけ目線を下に向けた。
そして、わずかに口を動かした。
「え?」
声に出さずに何かを呟いたようなのだが、顔の下半分が隠れてしまっているので、唇の動きが見えなかった。見えたとしても、それを読み取ることまでは出来なかったのかもしれないのだが。
──それでも、今の言葉は、そのまま流してしまってはいけないもののような気がする。
「ひ……」
名を呼びかけようとして、だが千早はそこで、ぴたりと口を噤んだ。
視界の端に、動くものを捉えたからだ。
舟か──とそちらに目をやり、その舟の船尾に、赤い布きれが、まるで何かの目印のようにひらひらとくっついていることに気づいて、さっと顔つきを険しくした。
「ひな、そのままもっと顔を下に向けろ。俺がいいと言うまで、絶対に上を向くな」
鋭く飛ばした声に、ひなはぱっと全身を緊張させたが、それでも千早の命令どおり、頭を深く垂れて顔を隠した。賢い娘だから、千早の視線の先を振り返るなんて、迂闊な真似はしないだろう。
あちらがまだ千早の舟に気づいていないようなのを幸いに、素早く立ち上がり、艪を漕ぎ始める。船首を旋回させ、その舟とは逆方向に進路を向けると、波の間を滑らせるように速度を上げて舟を走らせた。
その時点で、ようやく向こうの舟も千早の舟に気づいたようで、短い叫び声が聞こえた。
しかし千早はそれでなくとも潮の流れを読むのが得意なので、ここまで距離が離れてしまうと、普通の乗り手はまず追いついてこられない。
「千早あっ!」
風に乗って聞こえてきた野太い怒鳴り声に顔を向け、薄く笑って手を振る。
小馬鹿にしたようなその仕草に、相手はますますいきり立って、吼えるような罵声が続いたが、それもどんどん小さくなっていった。
このあたりの海は、大岩や小島などがあって見通しが悪いから、ある程度離れてしまった舟に追いつくのはかなり困難だということは、あちらだって承知なのだろう。それでもこちらに向かってくるほどの無駄な労力を割く気まではないようなのを見て取り、千早はやっと肩の力を抜いた。
「……もういいぞ」
完全に舟の姿が見えなくなったところで、ひなに声をかける。
ゆっくりと顔を上げたひなは、まだ表情が固かった。こちらを見つめてくる瞳には、くっきりと心配そうな色がある。
あまり余計なことを耳に入れるのは避けたかったが、それを見て、千早も腹を決めた。ここは最小限説明してやったほうが、却っていいだろう。
「──不知火島、っていうのがあるんだ」
しらぬい? とひなが唇を動かす。これはちゃんと読めたので、千早は頷いた。
「羽衣島と同じように、昔から海賊を生業として成り立ってる島だよ。でもそこは、うちの島とはもう、根っこのところで何もかもが違う海賊島でさ」
略奪、人殺し、火つけ、そういったことをするのに、ほとんど躊躇しない。羽衣島のように、通る船から通行料として荷を貰うというやり方を、子供の遊びだと鼻で笑って一蹴してしまうその島の連中は、奪う時には根こそぎ奪う。船に乗っていた不運な人間の命までもすべて容赦なく奪い取り、最後には船に火をつけ沈めてしまうほどの徹底ぶりだ。
そんな不知火島に住むのは、ほとんどが荒くれものの男ばかりなのだという。連中は、女が欲しくなると、船や余所の島を襲ったり、どこからか攫ってくる。そうして飽きると斬って捨ててしまうから、あの島には、家族などというものは存在しない。羽衣島のように、子供が育って海賊になるのではなく、あちこちから手のつけられない無法者が集まってきては、強奪や殺しを繰り返す集団を形成しているだけなのだ。
──それが、「不知火海賊衆」。
不知火の船は、すべて船尾に毒々しい真っ赤な布を「しるし」としてつけている。その布の意味を知る者はさっさと道を開けるといい、という無言の恫喝でもある。さっきの舟は小型だったし、おそらく三下しか乗っていなかったと思うのだが、そんなのでもこの辺の船乗りは、こぞって赤い布のついたその舟を避け、こそこそと迂回するのだ。
それくらい、不知火の名は怖れられている。
「でもまあ、そんな島でも……いや、そんな島だからこそ、かな、やっぱり統率者は必要なんだろう。頭がいて、名前を『蜘蛛』っていうんだけど」
もちろん、通り名だ。不知火島の頭の真名を知っている人間は、おそらくこの世には存在しない。
しかし千早はどうしても、その名を口にするたび、皮肉な笑いが漏れてしまうのである。あの男の残忍さや凶暴さ、執念深さ、醜悪なほどに曲がった性根は、まさしく「人間」そのものだ。そんな名は、本物の蜘蛛に対して失礼だろうに。
「その『蜘蛛』には、左腕がないんだ。……俺が一年前、斬り落としたからな」
ひなの瞳が大きく見開かれた。
だから不知火の連中は、俺を見ると、ああやって目を吊り上げんのさ──と笑いながら、ことさらに軽い調子で言ったのだが、ひなの顔の心配そうな翳りは、どんどん色濃くなるばかりだった。




