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千早(10)・空の小鳥



 椀を片手に持ったまま、ひなが動きを止めているのに気がついて、千早は声をかけた。

「どうした? 骨でも刺さったか」

 どうやらかなりぽうっとしていたらしいひなは、その言葉にはっと我に返った。驚いたように顔を上げてから、慌てて首を振り、また箸の動きを再開させる。

「まだたくさんあるから、どんどん食えよ。お前まだそれ一杯目だろ?」

 匙を手に鍋の中身をかき回しながら言うと、ひなは半分頷きかけ、なんとなく少し困惑したように首を傾けた。それから、ちらっと千早を見る。

 何かを言いたげなのだが、その内容までは千早には判らなかった。

 ん? と目顔で問いかけるが、ひなはますます困ったような表情で、千早の前の空になった椀を見やるだけだ。これがどうかしたのかと自分もそちらに視線を移してみるが、やっぱり意味が判らない。

 千船が噴き出した。


「食べるけど、お前ほどは早くも多くも食べられねえ、って言いたいんじゃねえのか」


 すでに三杯分が胃の中に収まって、もちろんまだ食べるつもりだった千早は、口を閉じてひなのほうを向く。嬉しそうに千船の言葉にこくこくと頷くひなを見て、なんだか無性に面白くない気分になった。

「別に、普通だろ。……っていうか、なんで、親父はそんなにひなの言いたいことが判るんだ?」

 千早の疑問に、千船が平然として答えた。

「そりゃお前、俺とひなさんはこのところずっと夫婦みたいにして一緒にいたんだから、多少のことは以心伝心で判るってもんよ」

「気色の悪い冗談を言うと殴るぞ? なにが以心伝心だ」

 千船の軽口はいつものことだが、今回のはかなり不愉快な種類である。本気で憤然として言い返したら、千船がしみじみと呆れ返ったような顔で、自分を正面からまじまじと覗き込んできたので、さらに腹が立ってきた。

「ていうより、なんでお前はこの程度のことも通じないんだ? まあ、でもしょうがねえか、子供の頃に母親を亡くして女と暮らした経験が少ないし、そもそもお前は女の気持ちが判らないトーヘンボクみたいだしなあ……」

 トーヘンボクは余計だ。大体、なんでそんな同情めいた目つきなんだ。

 抗議をしようとしたら、その前に、尻馬に乗った十野が「なるほどね」と力強く千船に同意した。

「お母さんがいないから、千早は女に対する理解がてんで足りないわけね。つまり知らなさ過ぎなのよ。だから思い遣りってもんがないんだわ」


 決めつけられ、千早はぐっと口を噤んだ。


 反論したいのは山々だが、自分でもつい、なるほど、と思ってしまったため、言葉に窮してしまう。

 母親がいなかったというのは無論だが、もともと子供のうちからガキ大将気質だった千早は、幼馴染でひとつ年下のくせに何かと口やかましく世話を焼いてくる十野以外、あまり女の子と接してこなかった。

 成長してからは、違う意味での「遊び相手」として多くの女を知ったけれど、それだって特別な感情を持って成立した関係ではないから、交わすとしても簡単な会話くらいなものだ。褥だけを共にして、それで「女」というものを知ったつもりになるほど愚かなわけではないが、より深く知ろうというだけの興味がなかった、という点においては否定出来ない。

 つまり、ぼんやりとしか残っていない母の記憶以外に、一緒に女と暮らしたり、朝から晩までその姿を眺めるという経験のなかった千早は、まるごとの女の生態、というものについて、一般の男よりも知識がない、と言えるかもしれなかった。

 女というものが、男に比べて、食べるのが遅かったり、あまり量を食べない、ということも。

 歩くのが遅くて、自分に合わせるためには早足にならざるを得ないということも。

 なんとなく頭では判っているように思っていても、千早は実は、まったく判ってはいなかったわけだ。

 

 ──だから、思い遣りがない、と。

 

 別にそういうつもりで言ったわけではないのだろうが、十野の言葉はけっこう千早の胸に深く突き刺さった。もともと自分が優しい人間だなどとは思っていなかったが、これまでの自分のひなへの態度を思い返すにつけ、ちくりちくりと責められているような気分になる。

「ねえ、ひなちゃん。ひどいと思わない?」

 十野は延々と、千早が昔からいかに自分に優しくなかったか、という不満をひなに対してぶちまけている。

 お前は子供の頃から、そこらの男連中よりも気が強くて跳ねっかえりだったじゃねえか、と千早は心の中で悔しまぎれに言い返したが、口に出すと言い訳にしかならないことは判っていたので、ちらりとひなを窺うだけにした。

 ひなは十野の途切れることのないお喋りを、少しだけ口許に笑みを浮かばせながら、頷きつつ聞いている。

 いつものように、静かに、穏やかに。でも──

「……?」


 でも、その眼差しがどこか遠くに流れているように見えるのは、千早の気のせいだろうか。


 妙に頼りなく、儚げに。迷い子のように、親とはぐれた幼子のように、半ば心が彷徨うように。

 千早は表情を引き締めた。なんだか、放っておいたら、そのまま消えてしまいそうだ、と思ったのだ。

(何を見てるんだ?)

 少なくとも、目の前の十野ではないんだろう。その口から出る、「千早と十野の過去」に思いを馳せているのとも、違う気がする。ここにはないものを見ている。いいやあるいは、何も見えていないのかもしれない。

 見えるものがないから、こんなにも頼りなく儚げに思えるのかもしれない。

 この島に流れ着いた当初のひなは、羽根をすぼめて周囲に怯え、ぶるぶると震える鳥の雛のようだった。現在のひなは、羽根を広げて空に舞い、着地する場所を探している鳥のようだ。


(……そうか)

 そこまで考えて、千早は思った。ああそうか、とすとんと腑に落ちるように、判った。やっと判った、と言ってもいい。


 空を飛んでいる小鳥。

 自由そうに見えるけれど、その鳥には、帰る所も目指す所もないのだ。ただ、果てしなく広い空を、飛んでいるだけ。

(──居場所が、見つからないのか)

 飛び続けて、くたくたになって。

 一旦地に降りて、羽根を休めたいのに、その場所が見つけられない。


 だからそんなに、痛々しいほど必死なのか。



          ***



 夕飯を食べ終えて、そのあとでいろいろと話しているうちに(もっぱら喋っているのは十野だったが)、気づいてみればけっこうな時刻になっていた。

「大分暗くなっちゃったわねえ。千早、あんた、ひなちゃんを送っていってやりなさいよ」

 十野に命令されなくともそのつもりだった千早は、家から出て空を見上げた。確かに暗いが、今夜は月が明るいから松明を用意するほどでもないかなあ、と考える。

 そして、いや待てよ、と考え直した。

 自分にとっては大したことのない暗さでも、ひなにとってはそうではないのかもしれない。

 なにしろ、自分を基準に物事を捉えることの身勝手さを、今さっき思い知ったばかりなのだ。千早は夜目が利くが、ひなはいかにも足許に躓いて転びそうで、危なっかしい。

 やっぱり明かりを持っていこう、と決心して、家の中に引き返しかける。


 こんな風に他人を慮って行動する自分というのは慣れなくて、多少面映いものはあるが、不思議と面倒さは感じなかった。


 しかし千早の足は、動かしかけたところで止まった。

 子供の声が、こちらに近づいてくることに気がついたのだ。しかも、一人じゃない。甲高く気が合って重なるふたつの声は、すぐに誰のものか判った。

 同じように聞こえてくる声に気がついたのか、家の中でまだ片づけをしていたひなが、驚いたように外に出てきた。

「あっ、ひなー!」

「ひな、迎えに来たぞ!」

 ひなの姿を認めて走ってきた二太と三太が、勢いよく抱きついてくる。二人にいっぺんに抱きつかれて、ひなは倒れそうなほどよろめいたが、朗らかに笑って二人の子供の頭を撫でた。

「おいおい、お前らみたいのが二人して飛びついたら、ひなの身体が折れちまう」

 なにしろひなは華奢なのだ。千早はかなり本気で心配になって二太と三太を諌めたが、二人は彼のほうを向くと、ひなへ向けていた輝くばかりの笑顔をたちまち消し去り、揃って舌を出した。敵愾心が剥き出しだ。

「いつまでひなを独占してれば気が済むんだよ、千早!」

「そうだぞ、ただでさえこのところ俺たちひなと一緒にいる時間が少ないのに、こんな遅くまで引き留めやがって!」

「……そうかよ、悪かったな」


 俺だってひなと会ったのは昨日が久しぶりだったんだよ、という反論を呑み込んで、千早は溜め息をついた。それを言うのはいくらなんでも大人げない、というくらいの理性は、自分だって持っている。


「なんだよ、それでお前ら、わざわざひなを迎えに来たってのかよ。ったく、しょーがねえな、もう暗いのに」

 ひなを狙う五平はともかく、島民すべてが顔見知りのようなこの島だから、夜に歩いていたって「危険」などというものがそうそうあるわけではない。とはいえ、子供が出歩くような時間ではないのも間違いない。

 よく八重が子供だけで行かせるのを許したな、と訝って首を捻る。帰りは千早がついていくからいいようなものの──

 そこまで思って、千早は気づいた。もうひとつ、足音が遅れてやってくる。顔を向けると、火のついた松明を掲げてこちらに歩いてくる男の姿が目に入った。


「……三左」


 ぽつりとその名が千早の口から出ると、三左は軽く頭を下げた。歩く足取りはゆったりと落ち着いていたが、こちらを見返すその目に、ちかりと光が強く瞬いた──ように見えた。

「どうしても、二太と三太が迎えに行くって言い張ってきかないもんで」

 それで俺が一緒に、と続ける三左は、普段どおりの口数の少なさだったが、そんな彼に代わって、

「三左もひなが帰って来るの、ずっと待ってたんだぞ」

「あんまりうろうろしてるから、ちったあ落ち着きな、ってうちの母ちゃんに叱られてたんだぜ」

 と二太と三太の二人が堂々と暴露してしまったので、三左はむっと口を結んで、視線を下に向けた。怖い顔つきをしているが、どうやら相当照れているらしい。

 ひなが微笑んで、三左に向かって両手を合わせた。心配させてごめんなさい、と言っているようなのは千早にも判った。

 三左はそれを見て、ますます鬼瓦みたいな顔になったが、ひなは怖がるでもなく、にこにこしている。

「──……」


 ひなは、すでに三左にすっかり気を許しているのだということが、その表情から知れた。


 それは千早自身が意図していたことでもあるし、そういうことになるよう取り計らっていたことでもあった。

 ひながこの島で信頼すべきは、八重と三左だ。いつか身元が判明した時に、彼女を金と引き換えにして在所に引き渡す千早じゃない。そうだ、こうなることを望んでいたのは、誰でもない、千早だったはずだ。

 それなのに。


 ──胸に突き上げる、この衝動は何なのだろう。


「……ああ」

 何かを言わないとと思って出した声は、我ながら、ひどく気の抜けたものだった。ちょっと笑って、そっか、と呟くように言う。

「じゃ、気をつけて帰るんだぜ」

 ひなに向かって言うと、ひなは千早の顔を見て、何かを言いたそうにした。少しだけ戸惑ったように、千早を見て、家の中のほうに視線を移す。

 何を言いたいのか、よく判らない。まだ片づけが終わってない、とでも言いたいのだろうか。


(判らないんだよ、俺には)

 内心で、返事をした。


 お前の言いたいことが、判らない。判る時もあるけど、判らないことも多い。それは今まで、俺がお前のことを知ろうともしていなかったからだ。そうだ、十野の言うとおり。もともと女っていう生き物のことをよく知らないのに、知ろうという気持ちがなきゃ、理解なんて出来るわけがない。


 ──優しくしてやることだって、どうすればいいのか判らない。


「なによなによ、賑やかだと思ったら。皆してひなちゃんを迎えに来たの?」

 呆れたように言いながら、十野が外に出てきた。ひなを見てにっこりする。

「これだけ護衛がいりゃ安心ね。また明日ね、ひなちゃん」

「…………」

 ひなは十野に向かっても、何かを訴えたそうに手を動かしかけたが、十野が、ん? ときょとんとしているのを見て、諦めたように小さく息を吐いて止めた。十野にも、まだ上手いこと意思を伝えることが出来ないようだ。十野の場合、自分が話すので忙しいから、ひなの気持ちを読み取るなんてことまでは、そりゃ難しいだろう。

「じゃあ、帰ろう、ひな」


 三左がかけたその言葉は、千早の心臓をやたらと気に障る音を立てて引っ掻いた。

 ちゃんと、「ひなが自分の家に帰るのを送っていく」と言え。


 ひなはまた千早の顔を見た。ほんの一瞬だけ、視線が絡む。けれど、やがて静かに目を伏せると、頭を下げて、背を向けた。

 両手をそれぞれ二太と三太に握られて、歩き出す。彼らの行く方向を照らすように、そして守るように、松明を掲げた三左が、歩調を緩めて並んで歩いた。

 二太と三太が、てんでにひなの手を引いて楽しそうに話しかける。左右に顔を向けながらその相手をするひなの横顔は、やわらかく微笑んでいた。歩きながら三人に目をやる三左は、言葉を出したりはしないものの、彼らしくもなくわずかに口許を綻ばしている。

 遠ざかっていく四人の後ろ姿を見て、十野が無邪気に笑った。

「ああしてると、なんかひとつの家族みたいよねえ」

「…………」


 そうだな、と自分も笑いながら相槌をうつべきだと思ったが、どうしても出来ない。


(……なにが、言いたかったんだろう)

 ひなの小さな背中を見送りながら、心は別のことを考えていた。

 千早の顔を見て、何かを言いかけていた。なにが、言いたかったんだ。千早が今までひなのことを知ろうとしていれば、その内容だって察してやれただろうか。そうすれば、こんなにももやもやとした気持ちを抱えて、帰っていく四人の後ろ姿をぼんやり眺める羽目にならなくて済んだのか。


 ──ひなは、何を見て、何を思い、何を考えているんだろう。


(俺はさ、そういうことが知りたいんだよ、ひな)

 お前が何を言いたいのか、ちゃんと判るようになりたい。

 けれどそれは多分、ひなに求めるだけでは、駄目なのだ。

(俺も、努力しなきゃいけないんだよな)


 ひなを本島に連れて行ってみようか、と千早は心の中で呟いた。





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