ひな(6)・崖の上で
二人で崖の上から景色を眺めて、千早はそれからいろいろな話をしてくれた。
海のことや、本島のことや、この島のこと。
「海賊島ったって、それだけで島全体の生計を成り立たせてるわけでもないから、ここでは漁の他に塩を作ったりもするんだぜ。このあたりで作る塩は出来がいいからさ、他の国にもけっこう高い値で取り引きされるんだとよ。ま、俺らはもちろん、そんな大掛かりな商売なんて出来っこねえから、本島のほうに売るんだけどな。で、本島のお偉いさんがでかい船を仕立てて余所の国に塩を売りにいったりする時に、俺たちみたいな末端の海賊が、護衛として金で雇われることもある。海のならず者たちから身を守るには、同じ海のならず者を手先として使うのが、いちばん効率的ってわけだ」
持ちつ持たれつってやつだな、と千早は言ったが、その声にはずっと皮肉な響きが混じっていて、目には苦いものが浮かんでいるように、ひなには見えた。
本気で、持ちつ持たれつ、なんてことは彼も思っていないのだろう。
島で作った塩を本島に売るといっても、それはきっと余所の国に売るのよりもずっと安い値でということなのだろうし、護衛として雇われるということは、いざ事が起こった時に最前線に出て戦わなければならないのは、実際に貿易に出かける人々ではなく、千早たちということだ。
それは決して「同等な関係」とは呼べないものだろうということくらいは、いくらひなにでも推測がついた。
海のほうへと目を向ければ、たくさんの小さな陸地や、小さな島があるのが見て取れる。そのすべてに人が住んでいるわけではないのだろうけれど、千船の話から考えるに、このうちの島の多くの人々が、海賊として、海でお互いにしのぎを削り、戦って、奪ったり奪われたりを繰り返しているのだろう。ひなからすると、想像するのも難しいほど、それは途方もない話だった。
このすぐ下の浜に流れ着く者は死人ばかりだった、と千早は言ったけれど、そのすべてが誤って海に落ちた人間ばかりではないに違いない。海の上で戦って、敗れた海賊や兵の亡骸も多いはずだ。
ちらりと、傍らに立つ人を見る。
──命があるだけ運がよかった、と念を押すように言ってくれた千早。
今、こうして自分の隣で静かに言葉を出している千早も、いざ海に出たら、刀を持ち、命を賭けて戦ったりするのだろうか。人の血が流れるところを、何度も目にしてきたりもしたのだろうか。
そうやって、生死を身近に感じて日々を送っているから、なおさら、生きていることこそが重要なのだと、そう思うのだろうか。
どんな人生であっても。
(人の血が流れる……)
心の中でそう思ったら、なぜだか目の前がくらりとした。
慌てて軽く頭を振り、態勢を立て直す。幸い、千早には気づかれなかったようだ。
この状態で崖の下を覗き込むと、そのまま吸い込まれて落ちていってしまいそうな気がして、ひなは顔を上げ、もう少し離れた浜のほうへと視線を移した。
そこでは、島の男たちが漁で使うらしい網を片づけていた。子供が何人か波打ち際で遊び、女たちが魚を干している。戦や血生臭さとはかけ離れた穏やかな日常がそこにはあって、ひなはほっとした。
「あの船止め場に、船が幾つかあるだろ」
ひなが視線を移したことに気づいたのか、千早が手を挙げ指で示してくれた先には、確かに船が数艘、寄り集まって浮かんでいた。
「いちばん目立つ、あの大きい船が、まあ、いわば海賊仕様だな。いくつかある小舟のほうは、漁に出る時に使う。島の奴らは本島のほうにもちょくちょく出かけていったりするから、そういう時にも使うけどな。──ああ、そうだな、お前もいずれ本島に連れて行ってやるか」
ふと思いついたように千早は言ったが、それがどういう思惑の許で言われたものであるのかは、ひなには判らなかった。けれど少なくとも、この島から出て行かせる、という意味ではないことがその口調から察せられて、安堵する。
「ただ、言っとくけど、一人で勝手に舟に乗ったりするなよ。さっきも言ったけど、ここらの潮の流れは激しい上に気まぐれだから、知らない奴が迂闊な真似をすると、あっという間に舟ごと沈まされちまうぞ。……ま、そんなこと言わなくたって、お前には舟なんて操れねえか」
そう言って、千早はちょっと意地悪そうに笑った。でも、それはどちらかというと、からかうような子供めいた顔でもあったので、ひなはもう身の縮むような思いはしなかった。今までずっと、彼に感じていた「怖さ」は、不思議なほど、ひなの中からは抜けていた。
──でも。
ひなは千早が教えてくれた船止め場の船をじっと見つめた。
大きな船は海賊仕様と千早は言ったが、一艘しかないそれは確かに、どっしりとした外観と荒々しさを備えていて、船体の傷や汚れが島の人間たちと一緒に危地をくぐり抜けてきたことを、もの言わずに誇り高く示しているようだった。
(……わたしも、ああいう船でどこかに連れて行かれるところだった?)
千早をはじめ、三左も八重も千船も、ひながどこかの海賊に攫われてきて、その途中で海に落ち、この島に流れ着いたものだと思っている。
……けれど、本当にそうだったのだろうか。
ひなは、あの大きな船を見ても、なんの感慨も起こらない。何ひとつとして、思い出さない。自分が無理矢理にでも、ああいう海賊船に乗せられたことがあったのなら、心の一部か何かが、もっと反応しそうなものではないのか。
暗闇に自分自身抑えきれない恐怖心が湧くように。あるいは特定の色に、激しく嫌悪感が湧くように。
ひなを襲った悪夢は、明らかに船にも海にも無関係なものだった。あれは多分、ひなの過去の一部だ。意味も、繋がりも、まったく判らないけれど。
でも──あまり「普通」ではないことだけは、判る。
自分を哀れみ、そして疎んじていた、母親らしき女性。覚えのない場所、知らない男性。出来事の破片。
でも夢の端々から伝わってくる、なにか禍々しいもの。
「こんな風に生まれてしまった」自分。
(わたしは一体、何者なんだろう)
はじめて、自分自身に不安を覚えた。ずっと千早や環境にびくびくと怯えていたひなが、今になっていちばん怖れているのは、自分に対してだった。
自分はどんな人間で、そしてどういう経緯で、海に落ちたりしたのか。
そこには、ひっそりと孕んだ不気味な何かがあるように思えてしょうがない。皆が思うように、「海賊に攫われて海に落ちた不運なお嬢さん」などという、単純な図式には嵌まらない何か。
自分はもしかしたら、とんでもない災厄をこの島に招きかねない人間なのかもしれない。
ひなは今まで、自分の足許を固めるのに精一杯だった。せめて記憶が戻るまで、この島に厄介になる身として、助けられた恩に報いるようなことが出来ればいいとも思っていた。
千早や三左や八重に、少しでも何かが返せればいいと──でも。
でも、恩返しどころか、ひょっとして自分の存在は彼らにとって災いにしかならないとしたら?
(……わたし、このままここにいて、いいのだろうか)
胸を過ぎった疑問に、もちろん答えは出ない。
隣に立つ千早へと顔を向けると、彼のほうもまた、ひなのほうを振り向いた。
「──じゃ、そろそろ帰るか。少しは気分転換になっただろ」
ぶっきらぼうに言って、くるりと崖に背を向け、歩き出す。行きも帰りも、言い出すのは唐突だ。
……結局、千早が何を思って突然この場所までひなを連れてきたのか、その口からは出ないままだったな、とひなはその後ろ姿を見ながらぼんやりと思った。
悪い夢を見て、泣き出したりもしてしまったひなが、よっぽど弱々しく見えたのか。あるいは命でも投げ出しかねないと思ったのか。それは不明だが、けれどきっとそこには彼なりの気遣いがあったのだろう。
申し訳ないと思うよりも、その気持ちが素直に嬉しいと思ったから、内心の複雑な感情はとりあえず脇に置いて、「何してんだ、行くぞ」と自分のほうを向いた千早に、ひなは微笑んで頷いた。
一瞬、千早は表情を止めて無言になったが、すぐに再びぱっと顔を背けてしまった。
「?」
急に足早に歩いていく千早に困惑して、ひなは慌ててその後を追った。また彼を怒らせてしまったのかと思ったが、自分の何がいけなかったのか判らない。判らないのは、いつものことだけれど。
(変な人……)
怖れる気持ちはもうないが、それでもやっぱり困り果てるような気持ちはある。怒らせたのならその怒りを解きたいが、何に怒っているのか判らないと、それさえもどうしようもない。
おろおろしていると、山道に足を踏み入れる手前で、いきなり千早が振り返った。
「ほら」
と当たり前のように手を差し出されたが、なんのことやら、これもまた判らない。ここまで連れてきたのだから、案内料を出せということなのだろうかとも思ったが、ひなはあいにく金子は持っていなかった。
突っ立ったままのひなに、千早は明らかに焦れたようで、
「何やってんだよ、そら、行くぞ」
と言いながら、強引にひなの手を取って、ぐっと引っ張った。
えっ、と思ったが、千早はそのままぐいぐいとひなの手を握って、足を進めていく。
「お前、どんくさいからな。こうしてないと山道をそのまま転がり落ちて行っちまうだろ」
いくらなんでもそんなことはない、とひなは反論したかったが、登りの道であれだけ難渋したことを思えば、否定しきれないところもある。大体、反論しようにも、声が出せないわけだし。
なので、黙って千早に手を引かれながら、ひなはまたゆっくりと山道を下り始めた。先を歩く千早が足元の石を蹴って退かしてくれたり、視界を塞ぐ枝を払ってくれたりしている。大分、歩く速度も抑えているようだった。
ひなは、千早のことが判らない。意味のない怖さは感じなくなったとはいえ、以前よりも、さらに判らなくなりつつあるような気さえする。
こうしていると、その存在は随分と近しいような感じもするけれど、だからといって、一定以上近づくと、千早は容赦なくひなをまた切り捨てそうな感じもする。薄くなったとはいえ、二人の間に壁はまだ確実にあるのだ。
戸惑いながら歩いていると、千早が前方に顔を向けたまま、ぼそりと言った。
「……お前、笑うこともあるんだな」
そりゃあ、人間なので、笑うことだってあります。
とひなは思ったが、なにしろこちらを向いてくれないので、表情ででも千早にそれを伝えることが出来ず、もどかしい。
その時になって、(そういえば)と思い出した。
千早の前では、自分はいつもぴりぴりと緊張していて、一度も笑ったことがなかった気がする。笑うどころではなかった、とか、そういう機会がなかった、といってしまえば、それまでだが。
でも、笑って欲しいと願うだけで、ひなは千早に対して、自分から心を開く努力を全くしていなかったのだ。それなのに「判らない」なんて言うのは確かに虫が良すぎるというものだろう、と反省した。
だから言葉の代わりに、ひなは繋いでいる手に、少しだけ力を込めた。
──そうしたら、まるで返事をするように、また強い力で握り返された。
顔が染まった。
よかった、千早がこちらを向かないままで。見られたら、また呆れられる。
千早は絶対、こんなこと何とも思っていない。思っていないから、平然とこんなことが出来るのだ。ひなのようにいちいち気持ちを上擦らせたりしないから、そのたび顔を赤くしてしまうひなに、呆れたような顔を向けるのだ。
繋がれている手からは、じんわりとした熱が伝わってくる。
けれど、ひなはなるべく、でこぼこした足許に意識を向けるようにして、そちらのことは考えないようにした。千早はこうして手を繋ぐことにまるで関心を払っていないのに、自分ばかりが慌てふためくのはあまりにも恥ずかしい。
そして、同時に。
このままここにいてもいいのか──と、答えの出なかったさっきの疑問も、ひなは頭から追い出すことにした。
まだ、何も判っていない。何も、思い出してはいない。
もう少し、ひなはこの場所で頑張ってみたい。自分に何が出来るのかを試したい。与えられたものに返せるすべが、自分にもあるのか、それを知りたい。
せめてもう少し、ここにいたい。
繋いだ手の温もりを感じながら、ひなはそう思った。




