ひな(5)・悪夢
被った上掛けの隙間から見た千早の顔は、ちょっと怖くてちょっと無愛想で、おまけにやたらと威張っているようでもあったが、その中には確かに、この状況を面白がるような少し子供っぽい部分も覗いていた。
だからひなは戸惑いはしても、その態度に対していつものような怯える気持ちを抱かずに済んだ。
代わりに湧いてきたのは、
(変な人……)
という、今までとはやや違う、ほんの少し呆れるような、感慨にも似た不思議な気分だった。
今まで、ひなにとって、千早はただひたすら、「怖い人」であったのに。
何を考えているか全く判らない人。他人を切り捨てるのを躊躇わない、冷淡なところもある人。いつも怒ったような顔をしているかと思えば、時々少年のように笑ったり、笑ったかと思えばすぐに瞳に無関心な色を浮かべたり。
思い出したようにふらりとひなのところに現われては、不機嫌な顔で自分のことを見る。ひなは、千早のそういう行動にいちいち振り回されて、時に落ち込み、時に萎縮し、時に泣きたい気分にもなってしまう自分を、いい加減、持て余していた。
どういう理由で千早が怒ったり冷たくなったりするのかがさっぱり掴めないから、必要以上に気を廻しすぎ、竦んでしまうのだ。ひなが彼を「怖い」と思うのは、大部分、その訳の判らなさに由来していたのだろう。逆に言えば、ひなは千早を怒らせることもしたくなかったし、冷たくされることを非常に怖れていた。だから、ひなにとって、彼はずっと、怖い人、という認識であり続けた。
でも、今は少しだけ違う。
困惑はあっても、上掛けの中で丸くなっている現在のひなに、今までのような怯えた気分はない。唇を噛み締めたいくらいの情けなさや、自分を恥ずかしく思うような居た堪れない気持ちもない。
それは多分、千早がちょっとだけ、彼と自分との間にあった、目に見えない壁を薄くしてくれたから──ではないかと、ひなは思う。
自分で自分の面倒を見たいと思ってるのか、という問いにひなが頷いたあの時、確実に千早の中で「何か」が形を変えた……ように、見えた。何がどう変わったのかは、まるで判らなくても。
だから千早は、「自分の腕に誇りを持って、見返りを要求しろ」ということを、ひなに教えてくれたのではないか。それは、千早がひなのことを、「置物」ではなく「人間」として認めてくれた、ということの証に思える。そしてそれだからこそ、ひなも彼に対して、無意味に怯えることをしなくてよくなったのだ。変な人だ、とちょっとばかりおかしみを込めて思うことも出来る。
はじめて、「人」と「人」として、彼と向き合えたからこそ。
(……それに)
と、ひなはこっそりと胸の中で思う。くすぐったい気分で、誰もいないのに、勝手に赤くなってしまった顔を隠した。
(笑って、くれた)
千早は気づいているのだろうか。うん、と頷いて微笑んだあの顔が、どんなに優しいものだったかということ。今までにも、ひなの前で、可笑しそうに噴き出したりしたことはあったけれど、それとは全然違うものであったこと。──それが、どんなに、ひなの鼓動を激しく跳ねさせるようなものであったか、なんて。
(振り返ってもくれた)
出て行く間際に、一度だけ。
振り向いたその顔は、やっぱりいつもの無愛想なそれだったけれど、でも。
ずっと、向けられ続けていた背中。一度だって後ろを向きもせず、その意思もまったく感じられなかった、あの冷たい背中が、はじめて、振り返った。
(──間違って、なかったんだ)
ひながしようとしていること、してきたことは、まだるっこしく、失敗ばかりで、まるで結果の見えてこない、鈍い歩みのものではあるのかもしれないけれど。
少なくとも、間違っては、いなかった。
(……よかった)
よかった、ともう一度思って、心の底から安堵の深い息を吐いたら、途端に猛烈な眠気が襲ってきた。
閉じられた戸だけではなく、闇と静寂が、圧迫感を増している原因だったのだと、ひなは今になって気がついた。明るい日の光が漏れ入って、外からは遠くで誰かの話す声が流れてくるこの状態では、ひなの精神は非常に凪いでいた。出入り口を塞いでいるものは何もなく、かけられた薄い膜だけが時折揺れて、穏やかな風を届けてくれる。
千早が言ったとおりだ。夜、眠れないのなら、昼に少し仮眠をとっておけばいい。昼に働けなかった分は、夜に働いて取り返せばいい。突然倒れたりして皆に迷惑をかけるよりは、そのほうがよっぽどいい。
うとうととしかけた頭で、ひなはぼんやりと考え続けた。急速に朧げになっていく意識の中で、大丈夫、と何度も繰り返す。
千早の言う通りにしていれば、大丈夫。
(あの人は、大丈夫。あの人は……安心)
そうして、この島に流されてきてからはじめて、ひなは心地よい眠りの中に引き込まれていった。
そう──はじめて、だったのだ。
ひなは島に着いてからというものずっと、神経を研ぎ澄ました状態で、ぴりぴりとした緊張の中に身を置いていた。睡眠時でも、それは続いていることだった。
熱を出して朦朧としていた時以外は、ほとんど熟睡したこともない。寝ては覚めての繰り返し、夢を見たとしても、はっきりとした像を結ぶ前に途切れてしまう。覚醒しても何も残らない、すぐに霧散して消えてしまう煙のように、不確かなものばかりだった。
……でも、この時。
この場所で、はじめて安心しきって眠りに身を任せることが出来たひなは、「夢」を見てしまったのだ。
今までのような曖昧なものではなく、くっきりと記憶の断片が混じった、現実のように生々しい──悪夢を。
***
「……可哀想に」
と、その女性は泣いていた。
とても美しい、たおやかな女性だった。身につけている着物は、派手さはないものの、一目で上等なものだと判る、手の込んだ見事な刺繍が施された絹のもの。それを自然のものとして見せるだけの気品を備えた女性でもあった。
泣かないで、と自分はそれを見ながら思っている。言葉には出さないけれど、非常に悲しい気持ちになって、女性が涙を零すところを、ただ見ていた。自分にはどうにも出来ないということが判っていて、それでも、その涙を止められるなら、何だってするのにと、自分自身を歯痒くも感じていた。
泣かないで。
泣かないで……かあさま。
「可哀想にね、……や」
女性は、誰かの名前を口にしたようだった。けれど、その部分はひどく小さくて、どうしても聞き取れなかった。
ほろりほろりと泣きながら、女性は手を動かし、自分のほうへと向けた。美しい着物の袖から、白くて細い指が見える。彼女は、伸ばした手を自分の頭に置いて、優しく撫でた。
ここに至って、気づく。自分は今、幼い子供なのだ。女性の顔は自分の目線よりもずっと高いところにあり、彼女は自分の頭を撫でるのに、こころもち上体を前方に傾けていた。そうしなくてはならないほど、今の自分の背の丈が、随分と低い位置にある、ということでもある。
「可哀想に、可哀想に。こんな風に生まれてしまったのは、あなたの咎ではないのに」
……こんな風に?
「一体、どんな因縁をもって、こんな風に生まれてしまったのか。わたくしの前世の罪なのか、それとも、あの方の行いに対する罪なのか。こんな幼い子が、かように惨い宿命を負って生きていかねばならぬとは」
あの方?
惨い、宿命?
女性の言っていることは、大半が、自分にとって意味の判らぬことばかりであった。それほどに自分は幼く、自分を取り巻く環境のこともよく理解できていなかった。けれど、目の前にいる女性が心から嘆いていることはよく判ったし、その嘆きが、自分と──そして、彼女自身に向けられていることも、また判った。
彼女の「可哀想に」という言葉は、自分へのものであると同時に、彼女自身に対するものでもあるのだということも。
可哀想に、可哀想に、可哀想なわたくし。わたくしが一体、何をしたというの──
「こんな風に生まれてしまった子供」が居るのは、わたくしのせいではないのに。
その絶望や悲哀は、自分と彼女自身に惜しみなく向けられて、そうすることによって彼女はなんとか自身を保っているようでもあった。涙を流すことで、彼女は精一杯、その奥にあるものを隠して押さえ込んでいるようにも見えた。それを一旦許したら、もう留まることはないと知っているからこそ、彼女はそこから目を逸らし、涙を流し、悲嘆を口から吐き出し続ける。
「可哀想に──」
その言葉とは裏腹に、瞳からちらちらと覗くのは、嫌悪と憎悪。深い後悔。
そして、恐怖。
決して表には出てくることのない、彼女の本心。
こんな子供、生まれてこなければよかったのに。
──そこから、場面は一転。続いたものは、欠片と断片の奔流だった。
何がどう繋がっているのかも判らない。どれが本当のことで、どれが幻なのかも判らない。現在の自分にとっては何ひとつ馴染みのない場所、そして人物が、脈絡もなく現われて消えた。
どこかの庭先、大きな屋敷、暗い部屋。
そして。
女性の悲鳴が聞こえる。さっき泣いていた女性の声にも思えるけれど、よく判らない。自分の視界に彼女の姿はない。目の前は、何かで塞がれているかのように真っ暗で、昼なのか夜なのかも判然としない。
声は懸命に、助けを求めている。物が倒れる音、くぐもった何かの音がする。悲鳴が長く続いて……ぷつりと唐突に途切れた。
がむしゃらに手足を動かして、拘束を抜け出した。今まで真っ暗だったのは、誰かに抱え込まれて、目隠しされていたからだ。ようやく隙間から、ちらりと状況の一部が見えた。
目に入ったのは、一面の緋色。
「さあ、今日からここで暮らすのだぞ」
そう言って近づいてくる顔は、今度は男性だった。でも、笑っている。とても、愉快そうに。
けれど、判る。笑っていても、彼は怯えてもいる。この上ない宝を見るような恭しい目つきでもあり、蔑むような見下す目でもある。
すると不意に、その顔が大きく崩れた。瞳は驚愕に占められ、立派な髭の下の口が大きく開けられる。叫びを出すかのように。
今まで雑多な色彩を見せていた夢が、突然、染料がかかったかのようにすべて一色に変化する。
緋色、緋色、緋色だ──
「ひな! おい、大丈夫か?!」
***
「……っ!」
目覚めると同時に、上掛けを勢いよく跳ね除けて、ひなは飛び起きた。咄嗟に、両手で顔を覆ったのは無意識の行動だった。
見ないで、と心の中で叫んだ。
「おい、どうした」
かけられる声に、心配そうなものが混じった。おそるおそる顔から手を外して、目線を動かすと、枕元で腰を屈めてこちらを覗き込んでいる千早の姿があった。大丈夫、緋色ではない。
どっと安心した途端、力が抜けて、先ほどまで顔を覆っていた両手を、ぽとりと床の上に投げ出す。気がついてみれば、自分の顔も身体も汗びっしょりだった。息も荒い。これだから、戻ってきた千早がびっくりしたのだろう。悪夢を見たくらいでこんなに取り乱して、せっかく、少しは自分のことが出来ると思えば、このザマだ。
ごめんなさい、というつもりで、ひなは千早のほうを向いて、頭を下げようとした。
──けれど。
自分の意思に反して、ひなの目からはいきなり、ぽろぽろと涙が勝手に溢れ出してきた。




