【15】
はっと目が覚めたのは、夜が明けるまでまだ間がある深夜だった。月が明るく、静まり返っている。
「あれ……なんで……?」
幽霊になってこの方、寝ている間に目が覚めるなんてことはなかった。不思議に思いながら胸に手を当てると、なにかざわざわする。
なにか、予感のようなものがあった。
それも、嫌な予感だ。
眠気のカケラも感じずに、瑠衣はいつの間にか地面に降りて靴を履いていた。そのまま予感が導くままに夜の街を駆け出す。
誰もいない街を息せき切って走り、たどり着いたのは先日瑠衣が食われかけた路地裏だった。近づくにつれ、じぎん!という金属同士がこすれあうような音が大きくなる。
角を曲がって目に飛び込んできたのは、特殊警棒で鍔迫り合いをしている密の背中だった。その向こうには、鋭い爪で密を切り裂こうとしているあのバケモノの姿がある。
「自分から食われに来るなんてェ……面白いやつだなお前ェ……!」
「くっ、ほざいてろ……ケダモノ野郎!」
見る限り、密はあちこちぼろぼろになっている。のしかかる爪の圧力にも耐えられないのか、じりじりと後退して今にも押し負けそうだ。
「密!」
いつの間にか叫ぶように名前を呼んでいた。目を丸くした密が振り返る。
「な、んで、お前がここに……!?」
「よそ見してる暇ァねえぜェ、ロメオォ!」
ぐっと爪にちからを込めるバケモノに、とうとう押し負けた密が特殊警棒を振り払いながら大きく飛び退った。その隙に駆け寄る。
「なにやってんの密!?」
「……お前には、関係ない」
ふいっとそっぽを向く密だったが、瑠衣にはなんとなくわかっていた。
「……私のために、たったひとりで戦ってくれてたの?」
「勘違いすんな、お前のためじゃない。俺は借りを返しに来ただけだ」
瑠衣のことがなければ、密はもっと冷静なタイプのはずだ。負った傷も治らないうちにバケモノを誘い出してリベンジマッチを挑むようなマネはしない。それが今、危険を冒してまで戦いを挑んでいる。
あんなにひどい言い合いをした瑠衣なんかのために。
取るに足らないと言っていた瑠衣なんかのために。
……ほかならぬ瑠衣のために。
瑠衣をかばうぼろぼろの背中にそれを感じ取って、胸がいっぱいになった。込み上げてくる涙をぬぐって、ところどころ血のにじんだ服の背中をぎゅっと握って小さくつぶやく。
「……ごめんね……ありがとう」
「謝られる筋合いねえよ。お前は何も知らなくてよかったのに……クソっ、かっこ悪ぃ」
くしゃくしゃと金髪をかきむしる密。きっと苦い顔をしているのだろう。
「トークタイムは終了かァ? 本命の餌の追加も来たことだしィ、まずは前菜からいただくとしようかねェ……!」
やはり、狙いは瑠衣だったらしい。バケモノは爪を鳴らすと姿勢を低くして飛びかかってきた。
「どいてろ!」
瑠衣を突き放すと、密は迫りくる爪を特殊警棒で迎え撃つ。金属がぶつかり合う音が高らかに響いて、また鍔迫り合いが始まる。
これではまた競り負けると踏んだのか、密はもう片方の手で短剣を抜いて、バケモノの腹を刺突した。それを読んでいたバケモノも空いている手で短剣を握る密の手をつかんで止める。両手を捕まえたバケモノは、そのまま密のからだを背負うようにして浮かせると、そのまま勢いよく地面にたたきつけた。
「……かはっ!」
受け身も取れず背中から地面に打ち付けられた密は、肺の空気を絞り出すような声を上げて悶絶する。にんまりと笑ってみぞおちを踏み抜こうとしたバケモノの足を、それでもなんとか転がるようにしてかわし、起き上がると中腰の姿勢から銀の投げナイフを放った。
「ぬるいィ!」
けらけらと笑いながらナイフを爪で叩き落すバケモノ。振りかぶった巨大な腕を携えて、また密に肉薄する。
まだダメージが残っているらしい密は、特殊警棒を斜に構えて爪の一撃を受け流した。距離を取ろうと後ろに下がる密を追撃するバケモノ。目元を狙って突き出された爪を、危ういところで特殊警棒で受け止めるが、それはフェイントだった。
本命の前蹴りにみぞおちを貫かれて吹っ飛ぶ。長い距離を転がって、やっと止まったところでなんとか起き上がろうともがくが、震える腕ではからだを支えきれず何度も崩れ落ちる。
「はァい、終了ゥー」
無慈悲に歩み寄るバケモノは密の背中を踏みつけて動きを封じる。にぃ、と笑ってしゃがみ込むと、うれしそうに歯をがちがち鳴らした。
「生きてる人間のたましいは久々だなァ……お前食ったら、メインディッシュだァ。ちょっとだけ食い残してやるからァ、指くわえてみてなァ」
ぐわ、と大きくあぎとが開かれる。ずらりと並んだ牙が密に迫った。
「――待って!!」
思わず声を上げて、瑠衣はふたりの元へと駆け寄る。途中、地面に落ちていた投げナイフを拾い、ある程度の間合いを開けて立ち止まった。
「……なんだァ? そのちっぽけなナイフでェ、ちっぽけなお前が戦うのかァ?」
明らかに侮っているバケモノの前で、瑠衣は首を横に振る。
「私なんかがあなたに敵うはずないのはわかってる。だから……」
次の瞬間、瑠衣はナイフを自分の三つ編みにあてがった。ざく、と音がして髪の房が切り取られる。密もバケモノも目を丸くした。
切断した髪を差し出しながら、瑠衣は震えそうになる声を律してバケモノに告げる。
「あなた今、お腹そんなにすいてないんでしょ? もっと空腹のときを待った方が私のことおいしく食べられると思わない?」
「……あァ?」
「最高の食べ時を待った方がいいんじゃないかって言ってるの。私はもっとたましいを磨く。あなたは腹ペコの状態で私を食べる。空腹は最高のスパイスだよ。だから、今夜のところはこれで退いてくれない?」
これは賭けだった。生きていたときでさえ使わなかったハッタリをきかせて、瑠衣は精いっぱい虚勢を張ってバケモノに語りかける。
しばらくの間目を細めていたバケモノだったが、やがて夜空に向かって哄笑を放った。
「きししししし! 面白ェ、お前面白ェよォ! この俺にそんな駆け引き仕掛けるなんてなァ!」
ひとしきり笑ったバケモノは、瑠衣の手から受け取った髪の房を口にくわえると、ゆっくりと密の背中から足をどけた。
「その面白さに免じてェ、今日のところは退いといてやるよォ……最高の瞬間に最高の状態のお前のたましい食うのォ、楽しみにしといてやるぜェ……!」
そう言い残して、バケモノは路地の向こう側の闇へと姿を消した。
気配が完全になくなるまで待ってから、瑠衣は密に駆け寄る。
「密! 大丈夫!?」
倒れている密を抱き起すと、密は顔を青白くして口をぱくぱくさせていた。
「お前……髪……!」
「なんてことないよ! それより密……」
「バカ!!」
急に怒鳴られて、瑠衣はつい、ひぃ!と悲鳴を上げてしまった。それでも密は言い募る。
「バカかお前は!? バカ、大バカ……!……なんで、なんでだよ、そんなこと……お前は、俺を見限ったんじゃねえのかよ……!?……失望して、離れて……それが普通だろ……なのに、なんで、俺なんかのために……そんな……!」
ぽろり、碧眼から大粒の涙が零れ落ちる。次々とあふれかえる涙が白皙の頬にいくつも筋を作った。子供みたいにしゃくりあげながら目元を手で覆う密を、瑠衣はただ静かに見つめる。
『俺なんか』――『私なんか』。
そうやって自分を低く見積もって予防線を張っていたのは、密も同じだったのだ。
手に入らないものをあきらめて、それでいいと自分に言い聞かせていた。
いつの間にかそれが当たり前になって、それが自分の本心だと思い込むようになって。
うつむいて生きていくことを当然だと信じ込んで。
――それがどんなにみじめなことか、知らないふりをしたままで。
「……ねえ、密」
瑠衣は一瞬躊躇したあと、密の満身創痍のからだをぎゅっと抱きしめた。
「そんな悲しいこと、言わないで。ひとりになろうとなんてしないで。大丈夫だよ、そんなにカッコつけなくても、離れていくひとばっかりじゃないよ。カッコ悪い密だって密じゃん。完璧な王子様じゃなくてもいいんだよ。少なくとも私は、どんなにカッコ悪くても、密がくれた言葉を、してくれたことを忘れない。密のおかげで、私やっとわかったんだ」
背中をあやすようにぽんぽんとたたくと、密のうめき声は次第に小さくなっていった。
「どんなに怖くたって、胸を張って生きる方がカッコいいんだって。虚勢だっていいから、私はこんなに素晴らしい私として生きてるんだ、って言い張る方が美しいって。びくびくしながら『私なんて』って下向いて生きるよりよっぽどいい。他の人がなんて言ったって、私は私なんだから、手持ちの札で正々堂々真っ向勝負するしかないんだよ」
「…………」
「今まで、私はそれをあきらめてた。自分はなにものにもなれないんだ、どこへも行けないんだ、って予防線張って、自分で作った檻のなかでただぬくぬくしてた。けど、それじゃいけないんだよね。居心地のいい檻の中から出ていかなきゃ、なににもなれないしどこへも行けないのは当然のことなんだよ。必要なのは、檻を壊す勇気なんだ。密だってそうだよ」
「……俺も……?」
「どうせみんな自分に失望して離れていく、って他人を遠ざけて。それってすごく悲しいことだよ。自分だけじゃなくて他人のことも見限ってる。私たち、似た者同士なんだよ。傷つくことを怖がって予防線を張ってる。だったら、いっしょに檻を壊そうよ。その勇気があるなら、奇跡だって起きるよ、きっと」
思いつくまましゃべってしまって、偉そうなこと言ったかな、と少し後悔する。
だが、その言葉はたしかに密の皮膚を貫いて、心臓の奥まで届いた。
「……俺は、ずっと怖かったんだ。みんなから見捨てられることが。だから、最初から自分も他人も見限って、『どうせ』って思いながら、ひとりっきりになることを選んでた……たしかに、居心地はよかった。怖い思いをしなくて済むから。けど……」
瑠衣の背中にぎこちなく回された腕が、思いのほか強いちからで抱きしめ返してくれる。
「……ずっと、ずっと、さみしかったんだ。全部自分で抱え込んで、しんどかった……なのに、いつの間にかそのさみしさにも慣れて、自分はひとりでも大丈夫だって思い込んでた……全然大丈夫じゃないのにな」
「……うん」
「けど、お前が自分で作った檻を壊すって言うなら、俺も居心地のいい檻から出ていくことにする……もうびくびくしながら生きてくのはまっぴらだ。カッコ悪い俺も受け入れてやらなきゃな……俺は俺だって胸を張って言えたら、そしたら、奇跡も起きるかな?」
「もちろんだよ!」
力強く瑠衣が答えると、密は耳元でふふっと笑った。それから少し言いよどんでから、
「お前は……その、きれいだな」
「……へ?」
ついぞ聞いたことのなかった言葉を耳にして、瑠衣は間抜け面をさらした。
「見た目の話じゃない。生きざまが……幽霊相手に言うのは変だが、きれいなんだ。真っ正直で、素直で、曲がったところがない。まっすぐに育った苗木みたいにきれいだ」
「そ、そうかな?」
「俺が言うんだから間違いない」
大上段から肯定されてしまった。どうやらいつもの調子を取り戻しつつあるらしい。
「そういうお前が連れてってくれるんなら、檻の外の世界も案外捨てたもんじゃないのかもしれないな」
「きっと素敵な世界だよ!」
「はは……お前はいつもそうやって…………」
「……密?」
ふいに言葉を切った密の腕からちからが抜ける。怪訝に思った瑠衣が顔を覗き込むと、顔色が真っ青になっていた。
「……悪ぃ、ちょっと、限界だ……」
「密!? 大丈夫!? ねえ、密!?」
「……屋敷まで運んでくれると、助かる……」
そう言ったきり、密は目を閉じてしまった。
「まったくもう……! ひとりで突っ走って、なに様?」
悪態をつくが、口元が緩んでいた。
密が、頼ってくれた。そんな些細なことがうれしくて、つい忍び笑いを漏らしてしまう。
「泣いてたの、ないしょにしといてあげるからね」
気を失っているのをいいことにそうささやいてから、よいしょ、と肩にかつぐ。
道中ひいひい言いながら密を運んだが、その重みすらいとおしく思えた。
やがて夜が明けるころには屋敷にたどり着き、デス子さんに密を託すと、瑠衣はいつものように街へと帰っていくのだった。




