【10】
それからも、瑠衣は順調にレッスンをこなしていた。
笑い方、立ち振る舞い、話し方、などなど。
時々清覧といっしょに出かけたり、密に怒られたり。
劇的な変化はなく、緩やかな変化が瑠衣に訪れていた。だんだんと鏡を見るのが怖くなくなっていき、普通の女の子に近づいていく。
密に贈られたパンプスも、だいぶん足になじんできた。
それだけ素敵な自分になれたことを誇らしく思う反面、どこか不安な気持ちもあった。
今まで慣れ親しんできた自分が遠くになり、新しい自分と付き合っていかなければならない。それは知らない世界への扉を開く恐怖だった。固執してきたアイデンティティががらがらと崩れ去り、否が応でも新しいアイデンティティと向き合わなければならない。
――自分ってなんだっけ?
そんな漠然とした疑問を抱いて、瑠衣は変化を続けた。
それは芋虫が蝶になるための蛹のような状態だった。
もろく弱く、繭に守られていないと形を保てない状態。
そんな不安を誰にも告げないまま、今日も瑠衣は洋館へと向かう。
「おはようございまーす」
「……おう」
ソファに座ってぶっきらぼうに返事をする密は相変わらずだ。しかし今日は他のメンバーがいない。
「あれ? デス子さんは? 清覧は?」
「ふたりとも用事があって来られない。今日は俺だけだ」
「そうですか……」
密とふたりきりとなると、いつにもまして過酷なレッスンになりそうだ。なにせ今日はフォローしてくれるひとがいないのだから、怒鳴られっぱなしになることが予想される。
どうしよっかなあ、と突っ立っていると、密が声をかけてきた。
「……座れよ」
「……はい」
おとなしく密の向かいのソファに座る。しばらくの間、気まずい沈黙が流れた。
「……あの、今日はなにを……?」
「そうだな……特に考えてなかった」
どこかぼんやりした調子で答える密に、はあ、と気の抜けた返事をする瑠衣。
またしてもいたたまれない静寂が室内に訪れる。居心地悪そうにもぞもぞと座り直しながら、瑠衣はなにかしゃべらなきゃ、と正体不明の焦りに駆られていた。
「……あの」
「なんだ?」
口にしてから、その先を考えていなかったことに気付く。慌てて話題を探して、やっと出てきたのは、
「……密って、どうして私にここまでしてくれるんですか?」
今更な質問だった。言ってしまってから、また呆れられる、と身構える。
しかし密は軽く目を細めるだけで、ため息をついたり怒鳴ったりはしなかった。代わりに、少し口ごもった後、どこかやさしげな口調で語りだす。
「俺は、物心ついたころから幽霊が見えた。幽霊ってのは基本的に現世に未練を残して成仏できずにいるやつらだ。みんな、なにかしら苦しみながら幽霊のままでいる。そんなのばっかり見てるとな、なんとかしてやりたいと思うんだ。それが、『見える』やつの使命だと思った」
「…………」
「そんなとき、デス子と出会った。現世と霊界の橋渡しをするエクソシストにならないかと、霊法を司る死神からスカウトを受けたわけだ。そうして俺はエクソシストになった。霊法から外れた幽霊を祓う、それが仕事だ。時には強制的にな。けど、俺はさんざん悩んで苦しんで助けを呼ぶ幽霊たちを見てきた。できれば未練を取り去って誰も傷つかないように成仏させてやりたい。そうすることが、エクソシストの本来の使命だと思ってる……みんなを、助けてやりたいんだ」
「……そっか」
「傲慢な考え方だと思うか?」
「思わないよ」
密の問いかけに、瑠衣は即答した。思うまま、言葉がするすると出てくる。
「いっつも怒鳴られてばっかりだけど、密は本当は優しいひとなんだと思うよ。ひとの痛みを自分の痛みのように感じられるひと。苦しそうに助けを呼んでるひとがいるとほっとけないひと。全員が納得してしあわせになればいいと思ってるひと。それは傲慢でも偽善でもない。きっと密は自分がそうしたいからそうしてるだけ。けど、そうやってエクソシストとして幽霊たちと接してる密に救われたひとはたくさんいると思う」
「……俺は、間違ってないか?」
らしくもなく、弱々しく尋ねる密。
ああ、このひとだって不安なんだ。自分が正しい道を進んでいるのかどうか。これがアイデンティティだと決めたものが正解なのかどうか。
瑠衣は少し考えた後、
「それを決めるのは密自身だよ。幽霊の私が言うのも難だけど、死ぬ間際に『ああ、いい人生だった!』って笑えたら、それでいいんじゃないかな。正解とか不正解とか、そういうのはないと思うんだ。要は自己満足で生きて、死んでいく。誰が何と言おうと、密の人生なんだから、それに点数をつけるのも密の役目だよ」
「…………」
「……あの、そう、思うんですけど……ごめんなさいなんか偉そうなこと言っちゃいました……」
密が何も言わないので不安になってとりあえず謝ってみた。
「……ふ、」
頭を下げていると、吹き出す声が聞こえる。えっ!?と顔を上げて見やれば、密が大笑いしていた。
「あはははは! そりゃそうだ、お前の言う通りだよ。当たり前のこと聞いた俺がバカだった」
「そこ笑うとこですか!?」
「ははは、自分のバカさ加減に笑ってんだよ。よりによってお前から教えられるとはな。俺もヤキが回ったもんだ。けど……そういう『当たり前』のことを見失いがちなんだよな、人間ってのは」
苦く笑って見せながら、密は瑠衣の頭をぽんと撫でた。珍しくやさしげな笑顔で。
「お前は馬鹿正直で、まっすぐで、素直で、だからこそ物事の本質が見えるやつだ。俺はそういうやつを尊敬する。お前はお前が思ってる以上にすごいやつだよ。誰にでもできることじゃないからな。いつもそんな風に思ってる」
バカだと怒鳴ったり呆れたり、そういう顔の裏でそんな風に思ってくれていたとは。いつも厳しい密に言われたからこそ、それが適当な気休めでないことがわかる。
自分が大層な人間でないことは知っていたが、他ならぬ密に『すごいやつ』なんて言われたら、もしかしたら自分にも誇れるところがあるのかもしれないと思うことができた。
うつむいて頭を撫でられながら、照れくさそうに笑う。
「……えへへ」
「そうだ、そういう顔で笑え。お前自身を誇れ。自信過剰なくらいがちょうどいい」
「密にそう言われると、なんだか私も捨てたもんじゃないって思えるよ」
「そういう素直なところがお前のいいところだ……それに、他人事とは思えなくてな」
「へ?」
頭から手をどけた密は、言おうか言うまいか悩むように口元に手を当てた。しばらく黙り込んだあと、軽いため息とともに口を開く。
「……俺も、自分の見た目にコンプレックスがあったんだ」
「は? え? なんで? 見た目パーフェクト王子様なのに?」
「だからこそ、だ。見た目が整いすぎてるから、逆に誰も俺に近づかなかった。隣に立って、見劣りするのを怖がられてな。いつも遠くから噂されるだけ。そういう噂で勝手にできた俺って人間の理想像が、現実の俺とかけ離れすぎてて、みんなが失望して去っていった。それが悲しくて、俺は他人を遠ざけようとした」
「あー……なるほど。王子様ならではの悩みだよね、それって……」
「お前だって、俺が完璧なな王子様だって思っただろ?」
「まあ、それは……」
瑠衣が口ごもると、密はまた苦く笑った。
「ひとはまず、見た目で判断する。それ以外に情報がないからな。判断して、相応の接し方をして、それが自分の期待と違っていたら失望する。それは見た目が良くても悪くても同じことだ。そうやって中身まで見た目に左右されていく。俺はそれがいやで他人と距離を取った。お前はそれがいやで自分を低く見積もって予防線を張った。根っこのところで似た者同士なんだよ、俺たちは」
言われてみればその通りだった。今までの瑠衣は見てくれが良くなかったせいで中身までブスなのだと思い込んでいた。その方が楽だからだ。自分はマトモな人間ではない、そんな自分はマトモにひとと関わろうとするのもおこがましいのだと思っていた。そうやって予防線を張ることで、自分を守ってきた。
密だってそうだったのだ。勝手に期待されて勝手に失望されて、それに疲れて他人を遠ざけた。それは瑠衣が卑屈になるのと同じ原理だった。
「……だから、俺は自分の見た目で判断して自分を過小評価してるお前の気持ちがわかった。もったいないと思って、それで変えてやりたいと思った。お前はすごいやつなのに、ただブスなだけでしょぼくれてるのが我慢ならなかったんだ……お前のレッスンに付き合ってんのは、そういう理由」
「……そっ、か……」
初めて密の本音を聞いて、複雑な感情が胸に渦巻いた。蝶に羽化する前の蛹の不安が襲ってくる。
自分のアイデンティティはなんなのか。もうブスというラベリングには頼れない。かといって、密が言ってくれるように自分を誇る勇気も今一歩出てこない。
変化はいつだって恐ろしい。なんにだって変われるということは、なににもなれないということと同義なのだから。正体不明のモンスターになってしまうのが怖かった。
「……私は、なんになればいいのかな……」
不安が口をついて出てくる。おそるおそる密を見ると、彼は瑠衣を勇気づけるようにいつものように不敵に笑っていた。
「お前はお前だ。変わるものもあれば、変わらないものもある。その『変わらないもの』をよすがにしていけばいいんだ。考えてみろ、幽霊になった今がチャンスだろ。見た目が中身を変えるんじゃない、中身が見た目を変えるんだ。お前がお前らしくいられる、そんなお前になれるんだ。だから、なにも怖がる必要はない。大丈夫だ、お前は死んでやっと、本物のお前になれる」
「本物の、私……」
密にそう言ってもらって、不安が少し晴れた気がした。芋虫のからだに押し込められていた自分が、蛹のときを経て、蝶になる。ひらひらと美しく空を舞う蝶が、自分のたどり着く姿なのだ。
迷いは確信に変わり、自信へとつながった。
ふと、密が目を丸くして瑠衣を見つめていることに気付く。
「わ、私、なにか変なこと言いました、か……?」
「いや、お前……ちょっと鏡見てみろ」
言われるがままソファから立ち上がって姿見の前に立つ。
そこに映っていたのは、自分がなりたくてたまらなかった理想の女の子の姿だった。
「わあ……!」
真っ白な頬にえくぼが浮かぶ。大きく澄んだ瞳に、やわらかい笑みを刻むくちびる。ただし、一番のコンプレックスの豚鼻はそのままだった。
「ねえ見て、密! 私、わたし……!」
「見てる。その……まあ、ずいぶんとマシになったな」
密の口からおずおずとそんな言葉が出てきて、つい涙腺が緩んでしまった。
「わた、わだし……う、うええ……!」
「泣くなバカ! いろいろ台無しだろ! お前は笑ってりゃいいんだ!」
「……うう……う、うへへ……」
ぽろぽろと泣きながら、瑠衣は必死に笑みを浮かべた。それは百点満点の笑みではなかったが、それでも密は頭をなでてくれた。
「そうだ、それでいい。笑ってるお前の方が、俺は――」
なにか言いかけて、はっと口をつぐむ密。瑠衣が疑問符を浮かべてその顔を見つめていると、ふいっとそっぽを向いてしまう。
「……まだまだだ。見てくれは多少良くなったが、まだまだ陰キャ根性が抜けてない。オーラがない。本物の美人ってのは雰囲気まで美人なもんなんだよ」
「う……それはその、長年染みついた業みたいなもんでして……」
「暗い。声が小さい。卑屈。根性がない」
「ううううう……!」
次々ダメ出しされて、瑠衣はつい肩を落としてしまった。
やっぱり密は鬼教官だ。
……けど、本当はやさしくて、ちょっとだけ弱い。
それがわかっただけよしとしよう。
瑠衣はぐっと涙を飲み込んでこぶしを握った。
「……がんばります!」
「よろしい。その調子でがんばれ」
つん、と高飛車に言い放って、密は瑠衣の額を人差し指で弾く。
「ぁいたっ!」
「俺が納得するお前になれるまでレッスンは続くぞ……ぎゃふんと言わせるんだろうが」
「……はい」
額をさすりながら、瑠衣は隠れて小さく笑った。覚えててくれたんだ。
それからしばらくの間、ふたりはソファに座ってとりとめもない話をした。もうまっすぐな碧眼から目をそらすことはなく、ちゃんと目を見て話しができた。密も時折笑顔を見せるようになった。
お互いに少しずつ変化していることを実感しながら、瑠衣は夕方まで密とおしゃべりを続けた。




