第8話 大きなオオカミと私
「結局、最後まで怒ってたわね」
「そうですね。お姉さま」
マナー教室から廊下を出てまで、私にべったりのエビ。
すれ違う生徒たちは私たちを遠巻きにしながら、ヒソヒソと会話をして去っていく。
「やっぱり離れましょ、エビ」
「えー、なんでですか」
そう言うと彼女は余計に腕を絡ませ、体を押しつけてきた。もう、十六歳と十五歳の姉妹がこんなにべったりなのは可笑しいって。
そんなことを考えていると、騎士見習いの生徒たちが前から歩いてきた。彼らは他の生徒とは違い、制服は青で剣を常に帯刀している。
私たちは廊下の端に移動すると、道を開け彼らへと頭を下げる。どうもこれが騎士に対する決まりらしい。
「よっ!」
その言葉につい私が反応しそうになった。だが、それに反応したのはエビ。彼女の表情が少し緩んだかと思うと、スカートの端を軽く摘み、膝を折って会釈する。
「ごきげんよう、ステラード様」
「なんだ、冷めてえな」
「もう、こうするのが決まりなの」
「そうか……お前もいろいろ大変だな」
本気で心配そうな表情を浮かべ、エビをいたわるステラード。二人の会話からも、かなり親しい間柄なのがわかる。
どうも、彼の名前はケイン・ステラードというらしい。身長が私より少し高くて黒髪短髪。その目は切れ長で少しかっこいいけど、顔は普通の好青年と言った感じ。
あら、話しかけづらいのかしら。
エビと親しそうに話しながらも、その視線がチラチラと私を気にしているのが分かる。
この子なら私でも意識しないで話せそうだ。そんな雰囲気がある。
「ふふふ、お元気?」
「は、はい。エリナゼッタ様」
ケインは返事をすると頬を少し赤らめる。ふふ、照れてるのかしら。
少し可愛いと思ってしまう私。
「おい! いくぞ!」
「ああ、じゃまたな」
仲間に急かされ、ケインはエビに向かってそう気楽に手を振る。それを見てエビも手を振り返すと、彼は私のほうへと目をやった。
「あ、あの……」
「いくのね。またね」
「は、はい!」
その覇気のある返事に驚きつつも、元気のあるいい子だと思う。
先を行く友達にケインは急ぎ追いついた。
「おい、凄い美人だな」
「う、うん」
友人にそう声をかけられ、ケインは中途半端な返事をする。
そうよね、エビって美人よね。
私はエビの顔をまじまじと見つめると、「うん、美人」と満足げに確信した。
――――と、気を緩めていた時だった。
廊下が急にざわめきだしたかと思うと、奥から女生徒たちの悲鳴が上がる。
「きゃあああああ!!」
「わっ、にげろ!!」
逃げる生徒たち。彼らを追いかけていたのは、狼のような見た目の動物。
それがゆっくりと廊下の真ん中を歩いてくるのが見える。
「お姉さま、逃げて下さい!」
「で、でも」
「いいから、早く!」
そう言うとエビは一気に狼に向かって駆け出す。
「そんな、あなただけ置いて逃げられないじゃない」
何も考えずにエビの後を追っていく私。
しかし、徐々に近づいていった先にいる、その狼の大きさに驚いた。
全長二メートルを超えるそれは、もう人間が勝てるとは思えない。
「エビ! 逃げて!」
私は彼女に向かってそう叫んだ。だが、その声に反応したのか、狼は急に私のほうへと振り向いた。
「えっ!?」
一瞬の出来事である。狼はその脚力で大きく飛ぶと、私の目の前へと着地した。そして、じっと獲物を見定めるように周囲を歩き出す。
「お、お姉さま! 今行きます!」
恐怖で足が震えてる私。
でも、彼女だけは助けなきゃ。その思いだけで、なんとか声を振り絞った。
「だ、だめ! 来ないで!」
私をじっと見ているそれが、足を一歩踏み出す度に恐怖は増していく。
「お姉さま!」
エビの声と狼の足、どっちが先かは分からなかった。あっという間にその鋭い爪が、私の体へと振り下ろされる。
大きく尻餅をつき、思わず目をつぶった私。だが、次の瞬間痛みを感じるでもなく、人の声が近くから聞こえた。
「エリナゼッタ様」
「ケ、ケイン!」
「すみません。皆を誘導してて」
目の前には自分の剣と獣の爪とで力比べをしているケインがいる。
「い、今のうちに早く」
「で、でも」
「いいから!」
彼の怒鳴り声と険しい表情に、私はようやく我に返り決意した。
このままじゃ、足手まといだ。
「ご、ごめんなさい」
何もできないのに……早く逃げればよかった。私はそんな後悔の思いで立ち上がろうとした。
だが、その時だった。その巨大な獣は大きく上げた右前足を、彼へと向かって振り抜いた。
「ケ、ケイン!!」
そんな勇気があったかな私。
彼がやられる! と思った時、私は守るように彼を抱きしめた。
その最中、攻撃を剣で受け止めるケイン。だが相手の本気の一撃は人間の比ではなく、私たち二人は一緒に宙を舞っていく。
「お、お姉さまああああ!」
痛い。その激痛とともに倒れた私を見て叫ぶエビ。
彼女は彼が落とした剣を拾うと、狼に向かって身構えた。
「駄目……に、逃げて……」
苦痛で声がでない私。横でケインはなんとか立ち上がろうとしている。
なんとかしなきゃ……そう思うが、腕に上手く力が入らない。
「おい! こっちだ!」
その時、遠くから声が聞こえた。あれは……ケインと一緒にいたお友達。
「エビ……エビを助けて……」
声にならない声で必死に助けを求める私。狼と相対するエビ。
彼女よりはるかに大きな獣は、躊躇なく再びその右前足を振り下ろす。
「よくもお姉さまを!」
そう叫んだ彼女は、その鋭い爪の攻撃を素早く避ける。そして、そのまま体の下へ潜り込むと剣を思い切り振り上げた。
グゥェェェェェ!
何ともいえない獣の悲鳴が辺り一面に響き渡る。そのまま横に倒れこむ獣。それは腹を小さく上下に動かしてはいるものの微動だにしなかった。
「だ、大丈夫ですか?」
ケインの友達が駆け寄り、私たちに声をかける。
一緒にきた人物は何かの講師みたいだ。獣に近づくと傷口を確認しながら言った。
「もう、これは動けないな。よし、もう大丈夫だ」
「す、すみません。研究動物が逃げてしまって」
あー、なんて迷惑な……。
眼鏡をかけた女生徒が、大声でそう叫びながら慌てて駆けてくる。あっ、転んだ。
彼女は眼鏡をかけ直すと、獣のようすを見に行った。
そして、剣を狼に向けて構えたまま固まっているエビ。肩で息を整えている彼女の後ろから、ケインがそっと肩に手をやった。
「エビ、もう大丈夫だ」
「えっ!? あっ! お姉さま!」
ケインの言葉に、獣がもう倒れたことにやっと気づいた彼女。剣をケインに返すと、私のもとへと全力で駆け寄ってくる。
「私、お姉さまを助けるのに夢中で……」
ああ、よかった……無事で。
その言葉よりも彼女が無事だったことに安堵する私。そして気が抜けたのか、力が抜け、意識が遠のいていくのを感じた。
「えっ!? お姉さま! お姉さま! お姉さま!」
もうそんなに揺らさないで、私眠いのよ。
消えゆく意識の中で、必死なエビのその顔だけが目に映った私だった。




