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はこび屋  作者: 一朶色葉
episode2
14/17

更新です


 赤が嫌いだった。

 赤はすべてを奪っていく。命の灯も、魂の失せた亡骸でさえ容赦なく。

 赤が嫌いだ。だから、自分の名も好きではない。赤を名付けられた自分も、いつかは誰かの大事なものを奪ってしまいそうで。自分の大事なものを自ら失くしてしましそうで。

 小さなあの子は、彼の名を「空の赤」だと言った。どこまでも無垢な漆黒の眸に、彼の名だと言ってくれた夕焼けを映して。その〝紅〟の映る眸が息を呑むほど美しくて。

 その美しさが恐ろしかった。赤は美しい。美しくて手を伸ばせば、容易に、いつの間にか何もかもを奪われている。

 この子もいつか──。

 その考えに至って、僅かに震えた指先を誤魔化すように言った「どんな赤でも目にきつい」というなんとも可愛げのない言葉は、あの子の眸から赤を引き剥がしたくて出たものだと今なら理解できる。それほどまでに、彼は赤を恐れていた。

 ──〝おそらにはふわふわのくもがあるもの〟

 空の赤から目を離してきょとんと眸に彼を映し、こてんと小首を傾げる。

 どういった経緯でそういった話になったのか、どうしてあの子が傍にいたのかなんて覚えていない。

 それでも。

 赤を恐れないあの子の名にもやはり赤があって、あの子の赤も彼の中の何かを奪っていくもので。

 そして──彼に何かを与えてくれたのも名に赤を持つあの子だった。




***




 小さな箱に行儀正しく整列した西国からの輸入品であるチョコレートは、一見目を疑うような色をしているがその実とても甘くて好みの味だ。催淫作用がどうのこうのという話もあったが、その効果は心拍を僅かに早める程度のものしかないらしい。舌に乗せるとほろりと溶けるチョコレートを堪能しながら朱花はうっとりと空を仰いだ。

 水燕から預かった、柳夫人──柳藤李への荷は精油やら香水といったもので、何でも妓館にある伝手でしか手に入らないものらしい。それを旦那である店主が商品として売ってしまった、というのが柳夫妻の喧嘩の原因である。本当に犬も食わない夫婦喧嘩だ。

 旦那が売ってしまったそれと同じものだけではなく、旦那が払うのだからとついでに違う香も買った柳夫人は大変強かな性格である。

 チョコレートは妻の機嫌が無事に回復した礼にと柳店主からもらったものだ。帰宅して即自室に向かった紅雲は手紙を出してくると言ってつい三十分ほど前に出かけて行った。

(空、赤いなぁ)

 ひとつ、チョコレートを口に含む。呆気なく溶けてしまうけれどやはり好きな味だ。

 燃えるような赤の空。とこどろころに浮かぶ雲は僅かに橙に染まっていて、自然が作り出す色の濃淡には感嘆の溜息が思わず漏れる。

 紅雲が出て行ってからふと思い立って中庭に出て来た朱花は、もう何分もチョコレートをつまみに空を眺めている。広いけれどどこか殺風景な中庭には長椅子なんて洒落たものはなく、朱花は躊躇なく芝生の上に腰を下ろした。

 とても美しく、どこまでも幻想的な赤。朱花は黄昏の燃える赤が好きだ。けれどどうやら夕暮れの名を持つ彼は、どうにも夕焼けが好きではないらしい。

「何やってんだ、こんなとこで」

 現に戻って来た彼は、朱花が見上げている空を同じように振り仰いで顔をしかめている。

(・・・綺麗なのに)

 もったいないな、と思うのは傲慢だろうか。だって空に広がる赤は何処までも穏やかで優しいもので、その名を持つ紅雲だって、わかりづらいけれどとても優しい。

「・・・・・・同族嫌悪?」

「? 何言ってんだ?」

 ぼそりと漏らした言葉は、彼には届かなかったらしい。なんでもないと首を振った朱花の隣に腰を下ろして「何がいいんだか」と呟いた彼の眸は、あまり好きではないくせに朱花と同じものを見上げている。

 いいところを上げるとすれば、とても限がない。けれどひとつだけ、上げるとするならば。


「だって、あなたの色だもの──紅様」

「・・・っ」


 特に声を張るわけでもなく囁くように落とした言葉に、隣で彼が息を呑む気配がした。見なくてもわかる。今きっと、とても大きく目を見開いてこちらを凝視しているのだろう。

「名くらい、知っているわ」

 思いのほか声が拗ねたようになったのは、彼の真名を朱花が知らないと思われていたことが不本意だったからだ。

「知っている? 夕焼けってとても優しいの。だって見ることが出来るんだもの。昼間は眩しすぎて太陽なんて見上げていられないでしょう? でも夕方になるとちゃんと見られるようになる。とっても優しい赤」

 朝から汗水流して働く人々を労わるように、太陽はとても優しい色を帯びる。

 それがどこまでもこの国を表しているようで。この国の象徴たる王の刻印を宿す彼を表しているようで。

「・・・・・・どんな赤でも元は一緒だ。俺にはどうにも目にきつい」

 零すように呟かれたそれは、痛みを堪えるように。それでいてどこか親に縋る子のようだった。

 朱花はきょとんと夕焼けを眩しそうに見上げる紅雲を見つめる。

(ああ、このひとは)

 夕焼けに癒される方法も知らないのか。

「紅雲さん。〝目にきつい〟と〝眩しい〟はまったく違うよ」

 そんなに眩しそうに見上げておいて。そんなに焦がれるように見つめておいて。その違いさえもわかっていない。目にきついのなら見なければいいのだ。目を逸らしてしまえばいい。それでも見上げて目を逸らさないのは、夕焼けを眩しく感じているから。その眩しさに焦がれているから。

 彼は虚を突かれたように朱花に視線をやる。

「眩しいのなら徐々に慣れていけばいいの。空には雲があるんだもの」

 雲で薄まった紅ならば、眩しくなんて感じないはずだ。慣れていないから眩しく感じる。朱花が優しいといった夕焼けに彼は慣れていないのだ。夕焼けのもたらす優しさに慣れていない。

「・・・敵わないな、本当に」

 ふわりと微笑んだ朱花に、しばらく黙っていた紅雲は形の良い唇に苦笑を刻む。ふいに伸ばされた手が頬を撫でそのまま耳に触れた。

「! っ、あの、紅雲さ」

「しばらくはこれでいいな。これで、慣れる」

 予測不可能な行動に物申そうと口を開くが、すぐに離れていった手と耳に感じる違和感に閉口する。「あと片方は自分でつけろ」と渡された物を見て、朱花はぱちぱちと瞬きをした。

「紅雲さん、これ」

「欲しがってただろ。石単体だけだと身に着けるのは難しいからな」

 手の中で転がるのは今朝目を引かれた不思議な色合いの赤瑪瑙を使った耳飾り。瑪瑙玉の下では白金色の房が揺れている。黄昏の空をそっくり閉じ込めたような瑪瑙玉は、確かに欲しいと思ったもので。

「夕焼けは当たり前だが夕方にしか見られないからな。その点お前はいつでも傍にいるわけだし。・・・身に着けてろ」

 さらりと言われた言葉に、息が詰まった。

「・・・・・・いていいの?」

「は?」

「傍に、いていいの? だって紅雲さんが家に置いていてくれているのは私がお父様とお母様の娘だからで」

 だから、自立できるようになったら出ていかなければならないと思っていた。この生活は、朱花が路頭に迷わなくなるまでの期限付きのもので。

 かっと目頭が熱くなる。ともすれば目に張った薄い膜が弾けてしまいそうで。


「ちょっと待て」


 地を這うような紅雲の低い声に、溢れかけていた諸々が引っ込んだ。

「は? なんだそれ。お前の中で俺はどんな位置にいるんだよ」

「? 路頭に迷わないように助けてくれた優しいひと?」

「よしわかった。まったく伝わってなかったことがよくわかった」

「? どういう・・・!?」

 もちろんのこと、朱花の中の紅雲の位置づけは優しいひとで。そして言わなかったけれど大好きなひとで。

 けれどその優しくて大好きなひとは何故か死んだ目で遠くを眺めている。伝わってなかったって何の話だと口を開けば、ふにっと唇にチョコレートを押し付けられた。

 口内どころか鼻腔にまで広がる甘い香りに思わずうっとりする。その油断が命取りだった。

「よっ、と」

 軽い声とともにぺたんと座り込んだ腿に重さがかかる。びしりと石化した朱花の膝にあるのは言わずもがな紅雲の頭だ。

「紅雲さん・・・? 何をしているの?」

「膝を借りている」

「何故?」

「一回お前と話し合うべきだと思ってな」

(意味が分からない!)

 話すだけなら座ってでもできる。というかむしろこの体勢は話をするためのものではない。

「・・・逃げられると困るんでな」

 ぼそりと呟かれた台詞は、残念ながら朱花の耳には届かなかった。

「さて、朱花。俺はお前にみっつ対価を貰ったわけだが、みっつ全部言えるか?」

 するり、と。伸ばされた腕が朱花の髪を撫でる。手触りを楽しむように何度も梳かれ、朱花の顔は瞬く間に真っ赤に染まった。

「えっあの、えっと」

「まず髪、だな。で、次は?」

 にやりと弧を描く唇に羞恥心が煽られる。愉しそうに朱花の答えを待っている紅雲は本当にいい性格をしている。

「・・・・・・」

「朱花?」

 何とかやり過ごせないかと黙っていたが駄目だった。髪を梳いていた手が顎にかかり、親指でゆっくりと唇をなぞられる。促されるように名前を呼ばれ、朱花は音にならない声で二番目に渡した対価を口にした。

 血色の良い唇の動きを正確に読み取って、紅雲は満足そうに微笑む。それが余計に恥ずかしい。

「で、みっつめが目だな」

 目に伸びて来た手に思わず目を閉じると、ゆっくりと睫毛を下から上へと持ち上げられた。それに合わせて恐る恐る目を開けると口の端を持ち上げて心底愉しそうな紅雲が視界を占める。

「そのときに言ったはずなんだがな」

 ──〝俺が見る景色をお前も一緒に見ろ〟

「あ」

 はっと思い当たって声を上げた朱花に、紅雲は不機嫌そうに目をすがめた。

「忘れてたわけだ」

「えっいや違うわ! 忘れてたとかそういうわけじゃなくて、えっあれってそういう・・・!?」

(いやいやいやいや。だってそういう意味じゃないと思ってて・・・。あれ、これ私が悪いのかしら!?)

 あの状況で、対価として求められた眸。そう、あれは対価であるはずなのだ。それなのに認識の食い違いが起こっている。それは朱花の察する能力が低かったからなのか、紅雲が言葉足らずだったからなのか。

「気障なこと言い損じゃねぇか」

「うっ・・・、でも対価って言ってたじゃない」

「そうだな、対価だ。で? お前の髪も、唇も、眸も今や俺のものなわけだが、そんな状況でどうやって俺から離れられると思ったんだ?」

 不遜な態度でそう言われてしまえば言葉に詰まる。確かに対価として求められたのだから、対価を持ったまま朱花が勝手に紅雲から逃げることは出来ないわけで。

 でもだからこそひとつ訂正しておかなければならないことがあるのだ。


「──髪は切って渡したのだから今私の頭皮から生えている髪は私のものよ!」

「・・・そういうことが言いたいんじゃない」


(だろうなとは思ってました! ええ、薄々ね!)

 それでもこの阿呆みたいな応酬をしなければ色々ともたない。

 いつかは離れないといけないと、紅雲が朱花に優しいのは朱花が彼の恩人の娘だからなのだと悩んでいたのが馬鹿みたいではないか。気づいた時には外堀を埋められ、逃れられないように対価という鎖で搦め取られていたわけなのだから。

(・・・今物凄く悩んでいた時間を返してほしい気分だわ・・・・・・)

 凄まじい脱力感が体を襲う。紅雲の頭という重しがなければ膝を抱えて項垂れていたい気分だ。

「ああ、そうだ。お前に聞いとかないといけないことがあった」

「?」

 途端に神妙な顔つきでそんなことを言い始めるものだから、朱花は首を傾げながら紅雲を見下ろした。どうやら真面目な話らしいというのは顔つきと声音からわかるのだが、体勢は上下左右どこからどう見ても膝枕。これはどこまで真面目な話なのだろうと構えた朱花に、彼は爆弾を落とした。


「悪女になりたい理由はなんだ?」


 ひゅっと喉が鳴った。字面だけ追えばふざけたようにも見える問いだと言うのに、紅雲の目はどこか昏い影を宿している。怖いくらいに表情がなくて、普段であれば「柳さんの馬鹿・・・!」と恐らく紅雲にばらしたであろう壮年の店主に悪態のひとつでもついただろうが、今はそんなことしている場合ではない。

「!?」

 すっと伸びて来た手が首の後ろに回り、ぐっと引き寄せられた。至近距離で視線が絡み合う。

「お前は俺から逃れられないのに、一体何のために、何の目的でそんなことを言い始めたんだ?」

「こううんさ」

「今日妓館で働いたのも関わりがあるのか?」

「っ」

 ぞっとするほど冷めた目が目の前にある。今までに見たことのない目だ。さすがにわかる。彼が、何か勘違いをしていることくらい。

 問うているくせに朱花が喋ろうと口を開けばまるで遮るように言葉を続ける。これは──かなり怒っている。

 とりあえず話を聞いてもらわなければ。話を聞いてもらえる状況を作らなければ──


 ──ゴッ。


「いっ・・・!」

 鈍い音が響いた。それに次ぐようにして走った額の痛みに朱花の喉から無意識に声が漏れ出た。

 首の後ろを捕らえていた手が緩み、額を押さえながら上体を起こして紅雲を見下ろすと、彼も朱花と同様額を押さえて呻いている。

「お、前・・・! 頭突きって・・・仮にも元令嬢がすることじゃないだろ!」

「だって紅雲さん話聞いてくれないんだもの!」

 よほど痛かったのか紅雲の目尻には生理的な涙が浮かんでいる。抗議の声とともに睨まれ、朱花は思いっきり噛みついた。

「一部分だけ聞いて勝手に勘違いしないで! 私が悪女になるって言ったのは思いっきり紅雲さんのせいだし、妓館でお手伝いしたことに関しては悪女は関係ないわ!」

「は? 俺のせい?」

「そうよ! だって紅雲さんが優しいんだもの! 紅雲さんが優しいのが悪い! あなたがなんだかんだで私に甘くするからっ! 紅雲さんが私に優しいのはお父様とお母様があなたの恩人だからで、私に甘いのも私がふたりの娘だからで」

 ひどい八つ当たりだ。言っていることは滅茶苦茶でいまいち的を得ない。紅雲も首を傾げている。それでも朱花の口は止まらなかった。

「わかっているもの、あなたが私に優しいのは私があなたの恩人の娘だからってことぐらい。お父様とお母様が儚くなってしまったから本来ならふたりに返すべき恩を私に返しているだけだって。絶対に勘違いなんてしない。・・・でもあなたの優しさを拒絶するなんて私にはできないから、それなら悪女みたく利用してやろうって・・・・・・」

 ああ、そうだ。触れられるたびに嬉しくて。優しさに触れるたびにくすぐったくて。

 でもそれと同時にどうしようもなく悲しくなった。悲しく思う権利なんてないけれど、それでもどうしても胸が痛んで。

 それならば、見なければいいと思った。彼が自分に優しくしてくれる理由なんて見なければいい。目を塞いで、自分の都合のいいように彼の優しさを感じていればいいのだ。

(・・・なんて、狡い)

 朱花の告白に、紅雲はずっと呆気に取られている。それもそうだ。一緒にいた少女が、恩人の娘が、こんなにも狡猾な性格をしていたなんて思わなかったはず。

 顏を覆ってしまった朱花をぱちぱちと瞬きを繰り返しながら見つめて、彼は一言。

「突拍子もないなお前・・・」

 呆けたように言いながら、紅雲は朱花の顔を覆っている手を引き剥がしにかかる。

「おいこら、顔を隠すな」

 それから色々と間違ってるぞ、と。

「あのなぁ、お前の中で俺はどれだけ善人でお人好しなんだよ。いくら恩人の娘って言ったって、それだけの理由で、現柏家からお前を解放する手助けくらいならともかくとして、自分の生活の一部にまで組み込むわけないだろ。お前、俺と一緒に暮らしてんだぞ。俺が何とも思ってない人間に対してここまで心砕くと思ってんのか」

「でもそれは私がお父様とお母様の娘だからで」

「それもあるな。けどそれなら最低限の衣食住の保障だけして終わりだ。伝手はいくらでもある。一緒に住まなくても誰かにお前を託すなり部屋を借りてひとり暮らしさせるなりあるんだよ。それをわざわざ対価で縛ってまで隣にいてもらおうとしてんだよ、こっちは。逃がす気なんざ端からないんだよ」

 堪えていた涙が、ぼろりと零れた。視界がふやけて紅雲がよく見えない。それでも何となくわかる。今彼は疲れたように嘆息しているのだろう。

 零れた涙を指先で拭われる。だが後から後から溢れて止まらないそれは、どんなに拭われても頬を濡らしてしまって。

 止まらない雫をなんとか堰き止めようとぎゅっと目を瞑ったとき、再び大きな手が首裏に回った。指先が耳裏を撫でてそのまま引き寄せられる。

 どういう状況だと目を開けば、ぼやけるほどの距離に綺麗な顔があった。

「ふっ・・・・・・っ」

 距離なんて、少しもない。見開いた目のすぐ先に、同じく閉じられていない目があって。射るような視線に背筋がぞくりと震えた。

 逃げるように瞼を下ろせば、重なった唇がさらに深く食まれる。何度も何度も角度を変えて深く合わさる唇は吐息を奪い、呼吸さえも許してくれない。体の芯がぐずぐずに溶かされて、唇から与えられる刺激に体の中心から四肢の末端まで痺れが走った。

 それでも拒むことはできなくて。下唇を軽く噛まれて目を開けると、熱の籠った眸が朱花を見下ろしていた。

(あ、れ・・・?)

 全身が熱くてかなわない。頭もまるで風邪でも引いたかのように上手く働かない。いつのまにか握られていた右手をさらに握りこまれて地面に押し付けられ──

「甘いな。・・・・・・チョコか」

 ぼそりと落とされた低い声にはっと我に返った。

 首裏に回っていた手はいつの間にか顎を捕らえてつい今しがた触れ合っていた唇をなぞっている。零距離ではないが相変わらず近い彼の顔越しに赤く染まった空が見えた。

「・・・はい?」

(あれ、おかしくないかしら? なんで紅雲さんの後ろに夕焼けが・・・。なんで私今寝転んでいるの? え? え?)

 いつの間にやら体勢が逆転している。先ほどまで朱花が紅雲に膝枕していたはずなのに、一体何の力が働いたのか、芝生の上に寝転んだ朱花の上に何故か紅雲がいる。

 つまり──組み敷かれているという状況で。

「さて、お互い誤解は解けたな。まだ言いたいことは?」

「ないです、けど・・・」

 思わず敬語で返した朱花は、はっとした。握っていたはずの耳飾りが手の中から消えている。

「こ、紅雲さん、退いてほしい」

「何で」

「耳飾りが! 探さないと!」

 慌てているのは朱花だけだ。紅雲はいたって落ち着いた様子で、やはり朱花の上から退こうとはせず「右耳」と目で示してくれる。紅雲の視線を追うように右耳に手をやって、ついでに左耳にも触れてみて、そこでようやく安堵できた。

(よかった、両方ある。・・・・・・あれ? さっきまで片耳しかつけてなかったはずなのにいつの間に)

 そして何故に紅雲はまだ上にいるのだろうか。

 おそるおそる紅雲を見上げて、朱花は頬を引き攣らせた。にこりと笑う彼の眸に灯るのは、獰猛な獅子のような捕食者の色だ。

「朱花。チョコには催淫作用があるんだが」

「騙されないもの! それは少し心拍を早める程度のものだって紅雲さんが言っていたのだから!」

「ちっ。・・・イランイランでも焚くか」

「なっ・・・!」

 予想外の舌打ちに、朱花は言葉を失った。舌打ちに続いた言葉も、なかなかにぶっ飛んだ発言である。

 イランイランの効果は水燕が言ったもの以外にもある。それを朱花は柳店主に聞いた。

 美肌効果、安眠効果。そして。

 ──〝イランイラン? 初夜に焚く香のことかい? まあ、媚薬みたいなものだな〟

(うわぁあ! 待って! この状況もしかして限りなく危ないんじゃ・・・!?)

 顏どころか耳まで真っ赤に染まった朱花はぱくぱくと口を開閉させることしかできない。

 そんな彼女を満足そうに見つつ、さらりとその朱く染まった頬を撫で。

「・・・この朱はなかなか悪くないな」

 紅雲は喉の奥で微かに笑った。


 ──彼が真っ赤に染まった朱花の唇に再び噛みつくまで、そう時間はかからない。


これにてはこび屋は完結です

第一部第二部ともに、お付き合い頂きありがとうございました!

後日web拍手に掲載していた拍手御礼もこちらにupする予定ですのでよろしければそちらにもお付き合いいただけると嬉しいです^^*

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