9 下町探検再び(ヘザー視点)
マードック伯に最後に会ってから、一週間が経った。
一週間も経ったのに、私はいまだにストルヴィアの難問が解けていなかった。机に向かって毎日四苦八苦しているにも関わらず、解法の手掛かりさえ掴めない。
こんなに苦戦したのは初めてだった。参考になりそうな文献を開いても、閃くものが何もない。
自分でも、全く集中できていないとの自覚はあった。原因は言わずもがな、マードック伯にソファの上に押し倒された、あの鮮烈すぎる記憶である。
これまで、ディオフランシス侯爵令嬢である私を欲しがる男性は、たくさんいた。祖父はともかく兄は一刻も早く私を嫁がせようとしていたので、彼らに会う機会は多かった。
彼らはいつも優しく、礼儀正しく、そして私に甘かった。私を天使か女神のように崇拝し、決まって最後には「祖父と兄によろしくお伝えください」とその常套句を口にした。
彼らは私ではなく、祖父と兄に気に入られたかったのだ。だから私が変人でも一向に構わなかったのだろう。彼らが口にする美辞麗句は、耳には心地良いものの、いつも中身を伴わないものばかりだった。
(祖父と兄を切り離して考えて下さい、なんて、そんなこと言ったの貴方が初めてよ……。マードック伯)
一週間、私は悶々と悩み続けているのに、彼からは何の音沙汰もない。
それがまた腹立たしかった。
あの日、置き去りにした教材や本は、マードックの使者によってディオフランシスの屋敷まで届けられた。一応婚約者なのに、彼は直接訪ねてもくれなかったのだ。
私が「婚約を破棄します!」と声高に宣言したところで、あの人なら「まぁ仕方ありませんね」とあっさり引き下がるに違いない。そうしても問題なく、別の令嬢が彼の手を取るわけで……。
さらにむかっ腹が立ってきて、思わず近くにあったクッションに握り拳をぶち込んだ。同時にドアが開き、呆れ顔のサヴァナが部屋の中に踏み込んできた。
「そんなに気になるなら、ご自分からお訪ねになればよろしいのに。なに意地張っているんですか」
「私の方から行けるわけないでしょ! あんな事があった後で……!」
サヴァナには、詳しい事は話していない。恥ずかしくて、いくら馴染みの侍女でもとても言えなかった。
ただ「祖父と兄の意向ではなく、貴女の意思はどうなんだ」と聞かれたと、それだけを伝えた。
サヴァナの答えは明快だった。
ディオフランシス侯爵令嬢ではなく、ヘザー個人に興味を持ってくれた、初めての人かもしれませんよ……と。
「あんな事? ヘザー様の意思を改めて確認されただけでしょう? 何があんな事なんですか。それとも押し倒されでもしましたか。初心ですねぇ……。まぁ、そこがヘザー様の可愛いところなんですけど」
「あんたなんて嫌いよ……」
「うふふ。私は大好きですよ、ヘザー様。もう可愛くて食べちゃいたいくらい」
恐ろしい台詞とともに、侍女がにじり寄ってきた。反射的に逃げようとしたものの、すぐに二の腕を掴まれ、壁際に追い詰められた。
「さぁ、観念してお洋服をお脱ぎ下さい」
「は!?」
「これからマードック伯のお屋敷に伺うのです。精一杯おめかししなくては」
「なんで私が……」
「甘いですわよ、ヘザー様。あの手の淡泊な殿方には、押しの一手あるのみです」
「淡泊?」
どこが、と眉を顰めた。
爽やかな微笑の奥の、獣のような、猛禽のような、あのぞくぞくする気配を間近で感じてしまった身としては、彼が大人しく穏やかなだけの男でないことは、容易にわかる。
むしろ、無彩色を纏う雰囲気の中に、その琥珀の双眸にも似た、鮮やかな色を秘めていそうで……。
「淡泊じゃないわよ。全然。一瞬でもそう思ったのなら、サヴァナの洞察力も大したことないわね」
「まぁ……」
サヴァナがそっと私の両手を握りしめた。
「何か激しいことされました? 何をされました? この私めに包み隠さずお話し下さいまし」
「なっ……何もないわよ。何言ってんの!」
面白がっているとしか思えない侍女を一睨みしてやったが、効果はない。
彼女が選び出す衣装に袖を通し、小物を身に付け、身支度を整えると、私はサヴァナに言われるまま馬車に乗り込んだ。
上手く丸め込まれた気がしないでもないが、いつも背を押してくれる彼女の声に従うのは、不思議な安心感があった。
「いいですか、ヘザー様。たまには甘えてみるのも手ですからね。殿方なんて、ちょっと美女にすりすりゴロゴロされれば、すーぐその気になるのですから」
「いや、猫じゃないんだから……」
「女はみんな、大なり小なり猫の部分を持ち合わせているものです。使いすぎるとウザいですけど、たまに見せるなら可愛い武器ですわ」
「そんな私に似つかわしくない助言されても……」
「自信をお持ち下さいませ、ヘザー様。その赤い髪も青みがかったグレーの瞳も、白い肌も、一体どれほどの女たちが羨ましく思うことか。貴女は間違いなく素晴らしい美女なのですから、マードック伯の一人や二人くらい、存分に手玉にとっておやりなさいまし」
馬車の扉が閉まり、車輪ががたごとと動き始めた。
(甘える、ねぇ)
ストルヴィアの難問を解くより難しいかもしれないと、心の中で溜息を吐きつつ、行先に想いを馳せた。
(……いや無理。絶対無理。甘えるってどうすりゃいいのよ。どうせなら具体的に教えてよ、サヴァナ……!)
馬車は、少しずつ、確実に、マードックの街屋敷へと近付いて行く。
繊細な石の彫刻に縁取られた門扉を叩くと、さほど時間を置かずして、マードックの執事が現れた。
白い口髭を蓄えた初老のその男性は、突然の訪問者を訝しむ様子もなく、恭しく私を中へと導いてくれた。
「ディオフランシス侯爵令嬢、ヘザー様ですね」
ぴたりと言い当てられ、思わず大きく目を見張る。なぜ、と私が聞き返す前に、執事はゆったりと微笑んだ。
「旦那さまから、ご婚約者のヘザー様は見事な赤い髪をお持ちと伺っております。大変お美しい方だとも」
とくん、と、心臓が跳ね上がる。
首から上に熱が集まるのを感じながら、そう、と私は努めて素っ気ない声を出した。
「あの人が、私のことをちゃんと執事に伝えていたなんて驚きだわ。一週間も何も音沙汰なかったくせに」
「申し訳ございません。旦那様は、連日の会議と夜の会合でお忙しかったようで」
「え……。そうなの」
「四月はどうしても。もう少しで落ち着くとは存じますが」
長い廊下を渡り、応接間に通された。執事が退出し、さほど間を置かずしてマードック伯が部屋の中に入ってきた。
「お待たせしました」
いつも寸分隙のない印象の彼だが、この時もそうだった。
いきなり訪ねたにもかかわらず、真っ直ぐ宮廷にでも伺候できそうな格好だった。髪に寝癖が付いているとか、裸の上半身に慌ててシャツを引っ掛けてきたとか、そんなだらしない姿は滅多なことでは人前に曝さない性分なのかもしれない。
「その……ちょっと、近くまで来たので」
サヴァナに乗せられて来てしまったものの、上手い口実を考えていなかった。
気まずい思いに俯くと、
「これからディオフランシスの屋敷に伺おうと思っていたところです」
彼が微笑んだ。
「朝寝坊して先を越されましたが」
「朝寝坊? 貴方が?」
「昨日夜更かしをしてしまいまして」
「何をしていたの?」
「ルミノクスの難問を解いていました」
「えっ」
「手強くて嫌になります。ルミノクスという人物は、きっと猫のように気まぐれで、相手を惑わすことに長けているのでしょう」
「猫……」
ルミノクスは私だ。でも、それをマードック伯に言った覚えはない。
なのに全てを見透かされているようで、落ち着かなかった。お前の正体を知っているぞ、と、宣告されたような気分になるのは何故だろう。
「これから時間はありますか?」
ルミノクスと猫の話題には執着せず、辺境伯はまた別のことを口にした。
「覚えていますか? 以前、下町を案内したいと言ったことを。可能なら、これから貴女をお連れしたいのですが」
私に断る理由はなかった。
のこのこマードックの屋敷に押しかけた理由については一切触れられず、ほっとしながら、私は大きく頷いた。
「ぜひ行きたいわ。この間は、誰かさんのせいで中途半端に終わってしまったもの。今度こそ私を満足させて頂戴」
「頑張らないといけませんね。お手柔らかに願います」
辺境伯の秀麗な顔の中の、ゆるく弧を描いた口元を眺めやりながら、この人はもの凄く女の扱いに慣れているのかもしれないな、と、ふと思った。
嫉妬のような、焦りのような、奇妙な感覚に囚われながら、差し出された彼の手に、自分のそれをそっと重ねた。
やっぱりサヴァナさん絶好調。




