8 王立学院副理事室(ヘザー視点)
どうぞ、と勧められた応接用のソファは、木目の美しい、艶のある赤褐色だった。
照り輝くような光沢を生んだのは、それが作られてからの長い長い年月だ。多分百年は下らないだろう。
溜息が出るほど見事な細工を指先でなぞってみると、吸いつくような滑らかな手触りが伝わる。机もテーブルも同じ赤みの強い木材を使用しており、さすがは歴史ある王立学院の貴賓室に置かれた家具だと、感嘆せずにはいられなかった。
「珈琲でいいですか?」
きょろきょろと好奇心むき出しで部屋の中を眺め回していると、辺境伯が聞いてきた。
食後の一杯を頂くには良い時間だし、どうせ淹れてくれるのは手慣れた使用人だろう。私は遠慮せず注文することにした。
「濃いめで、ミルクと砂糖たっぷりでお願い」
「了解しました。しばしお待ちを」
辺境伯が隣室に入って行く。どうやら、副理事室は二つの部屋が続き間になっている仕様らしい。
彼が戻ってきたら、珈琲が出てくるまでの間、何を話そう。
聞きたいことは山ほどあるが、それをぺらぺらと口にしたら、いかにも貴方に興味がありますと自ら暴露するようで面白くない。
でも、聞かないことにはわからないし……。
悶々と考えている間、なぜか辺境伯は戻ってこなかった。
不審に思い、彼が消えた廊下への出入口ではない扉を見つめていると、かちゃりと食器の擦れる音がした。
「ん?」
こぽこぽと、何かに液体を注ぐ音も。
「え?」
まさか、王立学院副理事、マードック辺境伯ともあろう方が、自分でコーヒーを淹れている!?
いやそんな、とソファから腰を浮かせた時、当のマードック伯が盆を片手に現れた。呆然としている私の目の前に、慣れた手つきでカップが差し出される。
「も、もしかして、ご自分で淹れました?」
「? はい」
「いえ。そういうのは、普通、下の者がやるのではと」
「……ああ」
それもそうですね、と、たいして気にした風もなく、マードック伯は頷いた。
「私はもともと下級貴族の出身なのです。仕えていたメルトレファス公爵家では、家令の役目を頂いておりました。慣れているせいか、こういった作業が苦にならないのですよ」
「慣れているって……」
辺境伯がそんな作業に慣れていて良いのだろうかと首を捻りつつ、一口珈琲を飲んでみると、これがまた嘘のように美味しい。どんな高級豆を使っているのか意気込んで尋ねてみれば、我が家で常備している豆の方が良品だった。
……なぜに。これが腕前の違いというものなのか。
「忘れないうちに、これを渡しておきますね」
マードック辺境伯が、もと下級貴族。
その奇妙な違和感を形にして質問する前に、彼の方が先に口を開いた。
机の上に置いてある書物を彼は手に取った。分厚い装丁の表紙には、「幾何学原論」の金文字が並んでいる。下町の書店で私が欲しいと言った本だ。
「ありがとうございます……!」
身を乗り出したとき、足元でバサバサと音がした。ソファの座に置いてあったはずの書類束や冊子が床に滑り落ちていた。次の講義で使う予定の教材と、普段から持ち歩いている数学倶楽部の会報誌だ。
マードック伯が散らばった紙を拾い集めてくれた。そのうちの一枚が大きなテーブルの下に潜り込んでしまっていたが、それも上体を屈めて腕を伸ばして取ってくれた。
やっぱり、この人……貴族らしくない。
私がよく知っている上位貴族の男たちは、どんな所作をするにせよ、床に手や膝を付くことなどあり得ない。大声で召使を呼んで、彼らに全てやらせるだろう。
それが、目の前のこの人は、ことごとく自分で処理してしまうのだ。
使用人たちが「そんな事は私たちがしますので!」と慌てふためいて彼を追いかけている光景が目に浮かび、私は知らず口元を綻ばせていた。
「どうかしましたか?」
マードック伯が不思議そうに首を傾げる。私はわざとらしく咳払いを一つし、その必要もないのに会報誌をパラパラと捲った。
「これに出ている、あり得ないくらい難しい問題のことを思い出していたんです。こんな問題を作る人は、きっと性格と根性が捻じ曲がっているに違いありません」
「……どれですか」
私はテーブルの上に冊子を置き、問題の個所の頁を開いた。
「これですっ!」
忌々しげに、人さし指で、私の貴重な睡眠時間を六時間も奪った記述をさす。
「本っっ当に、意地悪なんです。このストルヴィアという人は!」
「……はぁ」
その問題に視線を落とし、マードック伯は何とも神妙な顔をして呟く。彼も私と同じく数学を愛でる人間なのだから、同意くらいしてくれても良いだろうに。
それとも何か。まさかもうストルの難問を解いたのか。本号が配られたのはつい昨日だというのに、なんて早い……!
「わかったんですね!? 解いたんですね!? 悔しいっ……!」
「いえ……。わかったというか、何というか」
「何ですか。はっきり言って下さい。カイルさん、貴方やっぱり凄い方ですよ。こんな予想と想像の斜め上をいくストルの難問を一晩で解き明かしてしまうなんてっ」
「えー……。ありがとうございます……?」
「どうして語尾が疑問形なんですか」
「……何となく」
その後、次の講義が始まるまでのぎりぎりの時間まで、私は副理事室に居座った。
凄まじく迷惑に違いないのに、彼は嫌な顔一つ見せない。机に戻って本来の業務をこなしつつ、私が話しかければ、全く聞き漏らしている気配の無い答えを返してくれる。一方で、細かな文字と数字が並んでいる文書を黙々と読み進めていた。
どうやら複数の仕事を同時に進めることのできる人らしい。集中したら周りの音が聞こえなくなる私とはえらい違いだ。
「一つだけ確認しておきたいのですが」
ストルの難問に憑かれたように魅入っていた私は、マードック伯のその言葉に反応するのが遅れた。
座ったまま顔を上げると、予想外に近い場所に彼が立っている。
「はい?」
「ディオフランシス家の方から破談の話はまだ来ていません。このまま進めても良いということですね?」
「……祖父も兄もすっかり乗り気なのに、私だけ駄目出しは出来ませんから」
「私の婚約相手は貴女であって、貴女の祖父と兄ではありません。貴女はそれで良いのかと伺っているのです」
彼が私の隣に腰を下ろした。体重の差か、クッション性の良いソファは、私が座った時よりも明らかに沈んだ。体が彼の方に傾く。
「良いも何も、私に選択肢は……」
「ままごと遊びの延長では済みませんよ、この件に関しては。貴女を見ていると、意味がわかっているのかと少々不安になります」
「意味?」
いつも穏やかに見える彼の貌から、すっと微笑が消えた。
無に近い表情は新鮮であり、また恐ろしくもあった。様子が変だ、と考える間もなく、肩に重みがのし掛かり、支えきれず上体が仰向けに倒れた。背中と後頭部に、ソファの柔らかな座面が当たる。
驚き目を見開いている私のすぐ真上に、私より一回り以上も大きなマードック伯の体躯があった。
「……あの」
右手首は彼に掴まれて、動かせない。左手は自由がきくので逃れようと身もがいたが、歴然とした力の差を思い知らされただけだった。
それどころか、押し返そうとした掌が相手の硬い胸に触れると、その慣れない感触にうろたえて慌てて引っ込める始末だった。情けないほど顔を真っ赤にした私を、今は感情を押し殺してしまっている琥珀の瞳が、じっと見下ろしている。
恐怖とは別のぞくぞくした感覚が、背筋を駆け上がった。
「ど、退いて下さい……」
「この程度では済みませんよ。三か月経ったら」
静かな声は常と同じだった。ただ、そこに笑顔が無いためか、ひどく無機質に感じる。
「私は夜毎貴女を抱きますよ。そしていずれ私の子を生んでもらいます。妻になるとはそういうことです。その覚悟がないなら、悪い事は言いません、私はやめておきなさい。祖父と兄のために渋々嫁いできた女性には、恐らく耐えられませんから」
押さえ付けていた腕の力が、弛んだ。
よろよろと身を起こすと、別に肌蹴られたわけでもないのに、手は無意識のうちに衣服の襟元を掻き合わせていた。
マードック伯は再び自分の席に戻り、時間ですよ、と壁に掛けられた時計を指した。先程と同一人物であることが信じられないほど、淡々とした様子だった。喰らい尽くされそうな危険な気配はどこにも無い。
「帰ります」
「それがいい。少し、自分から祖父と兄を切り離してお考え下さい」
せっかく借りた数学の専門書も、次の講義で使う教材も、学術の会の広報誌も、何もかも放り出して、私は逃げた。
マードック伯が、「忘れ物!」と後方で叫んでいたことにも、全く気付かなかった。
(私は夜毎貴女を抱きますよ。そしていずれ私の子を生んでもらいます)
その言葉が、頭から離れない。
二十四歳にもなって夫婦の営みを知らないほど世間知らずではないけれど、何故かそれについては他人事のように遠く感じていたのも、また事実。
この話を進めたら、あの人の奥さんになるのだと、急に生々しく現実を意識した。
生々しく現実を意識しながらも、婚約を破棄するという選択肢は、なぜか、一度も、私の脳裏に浮かんではこなかった。




