7 王立学院副理事室(ヘザー視点)
私が所属している学術の会「数学倶楽部」は、月二度、月初めと半ばに会報誌の発行を行っている。
私はこれを楽しみにしていた。会報誌には、新たな証明や定理の紹介の他、会員が自由に作った難問珍問が毎回欠かさず掲載されるからだ。
数学の専門家たちが持てる知識を総動員して作り上げた課題なだけに、あり得ないくらい難度の高いものが多い。中でも私が特に変人認定……いや好敵手認定しているのが、「星の軌道」という筆名の会員だった。
彼の寄稿回数は決して多くはない。三か月に一度、載るか載らないか程度である。
だが、いったん紙面に出ると、彼が提示する問題は、定期的に開かれる学術サロンで「ストルの難問は解けたか?」と話題に上るほど難しいことで有名だった。根を上げる人間が続出し、倶楽部の編集局に解答を求める手紙が殺到したこともあるというから驚きだ。
私は今のところ辛うじて全て解いていた。……いつ助けて下さいと編集部に泣きついても不思議はないほど、苦労させられてはいたが。
その日は、午前四時までストルの難問に挑み、そしてついに解けなかった。
二時間だけ仮眠を取り、眠い目を擦りながら学院へと出勤した。
学院では、私はヘザー・アンカーソンと偽名を名乗っている。ディオフランシスの姓は使わない。大物貴族すぎて、面倒事が増えるのは目に見えているからだ。
この辺の書類上の操作や根回しは、全て祖父がやってくれた。
あの人も変わった老人だと思う。侯爵令嬢である私が、外の学校に通うことや働きに出ることを否定しない。時代は既に変わりつつある……祖父はいつも言っていた。
自ら学べ、それが貴女の力になる、と。
(うう……眠い。ものすごく眠い)
午前の授業は凌いだが、昼食を取ると、いっそう睡魔の誘いが激しくなる。
間の悪いことに、四講目に授業が入っていた。開始は十四時四十五分だ。現時刻は十二時三十分。
二時間以上も……何をしよう。いっそ寝るか。いや寝たが最後、日が暮れても起きない自信がある。
寝不足の目にはやたらと眩しい青空を仰いだとき、唐突に、行く当てを思い付いた。
カイル・ファルクス・マードック辺境伯。
王立学院副理事である彼は、当然のことながら、この構内に自室を所有している。
(私、一応、婚約者だし。い、いいわよね、別に。行っても)
どんな部屋なのか気になる、とか。
その仕事ぶりを見てみたい、とか。
ましてやただ会いたいだけ、なんて、ありませんとも。ええ。
誰に聞かれたわけでもないのに、頭の中で怒涛のように言い訳を紡ぎながら、私は、学院代表者たちがひしめく聖域のような建物へと足を向けたのだった。
学院上層部が個々の執務室を構える荘厳な棟は、王が住まう宮殿のように、そこを守る兵士たちが多数いた。
門には門番が、一階の玄関前広間には来所者の受け付けも兼ねた衛兵が、そして各階の廊下には、帯剣も許された騎士たちが。
物々しい雰囲気に圧倒される。
「あの……。マードック辺境伯にお会いしたいのですが」
「お名前は?」
受付の兵士に話しかけると、眼鏡の奥からきらりと両眼を光らせて、兵士が名を尋ねてきた。
「ヘザー……アンカーソンです」
「面会のお約束は入っておりませんね」
「約束が無いと駄目なの?」
兵士が、どこの世間知らずだと言わんばかりの顔で私を見た。
「上層部の方々は、通常、お約束が無ければお会いすることは出来ません」
「……」
ここまで来て帰るしかないのか。急に疲労感が増してきて、ふうと溜息を吐き出したとき、眼鏡兵士の隣に座っていたもう一人の受付係が、不意に、「あ」と声を出した。
「ヘザー・アンカーソン殿……。あ。あ。大変失礼いたしました。マードック伯より承っております」
「え?」
私が驚いている間にも、受付兵士は仕切り板を跳ね上げ、カウンターの内側から飛び出してきた。状況がよく呑み込めていないらしい眼鏡の同僚を、馬鹿、と鋭く叱咤する。
「ヘザー・アンカーソン殿が訪ねてきたら、約束の有無にかかわらずお通しするように、と通達が来ていただろうが」
「え……。そうだっけ」
「このあほ! そっちの特別許可簿を見ろ! ちゃんと名前が載っている」
よくわからないが、どうやら辺境伯は私がある日突然訪ねてくることも想定して、事前に手を打っておいてくれたらしい。
いちいち嫌味なくらい隙のない人だと感心しつつ、その対処は素直に有り難かった。
先程の横柄な態度とは打って変わって、兵士は私に対して貴婦人を敬う一礼をし、副理事室へと案内してくれた。
「こちらです」
現れた私を見ても、特に驚いた様子もなく、辺境伯は柔らかく微笑んで迎えてくれた。
「思ったより早くいらっしゃいましたね」




