6 下町探検(ヘザー視点)
大通りから一本逸れ、私は中道に入った。
そこは馬車が一台通るか通らないかという道幅で、両端にある建物も高さがあり、道全体を影が覆っているような印象だった。
ただし、目抜き通りからの店の連なりがそのまま続いていて、通行人の数は多い。道の狭さが混雑を助長して、かえって賑やかに見えるほどだった。
アクセサリー屋に、靴屋。仕立て屋に、骨董屋。いい匂いがすると思ったらパン屋があった。パン屋の隣には茶葉やジャムを売る店が寄り添うように佇んでいる。
更に歩くと、書店があった。
書店に紳士用ハンカチはどう考えても置いていないだろう。それはわかっているのだが、引き寄せられるように、私は店のドアを開けた。中は意外に広く、インクと古い紙の匂いが漂っていた。
品揃えは、半数が娯楽本、半数が専門書だった。外国から入ってきた本も多い。クヴェトゥシェ語の幾何学の本を見つけた。欲しいけど、さすがにクヴェトゥシェ語はわからない……。
翻訳された物はないのだろうか。原書で読めればそれが一番良いに決まっているが、私には少々荷が重い。
書棚に並んだ背表紙をじっと睨んでいると、それらしい本を見つけた。手を伸ばす。
が。
「くっ……。もう少しなのに」
精一杯に背伸びして、辛うじて指先が書物の下の方に触れる程度。表紙がたわむほど強く押し込んであるため、引き抜くことも出来ない。
「店主に言って取ってもらわないと無理かぁ……」
「買うかどうかはっきりしないうちは、店主を呼ばない方がいいですよ」
後ろから声を掛けられて、跳び上がった。
一瞬、追いかけてきたクレメンに見つかったかと思ったが、そうではない。
クレメンよりも低い声。気のせいかと思うほど微かな、だけどクレメンよりも深くて甘い、嗅ぎ慣れない香り。
何より、後ろにいる人影は、執事見習いの青年の背丈を明らかに超えていた。
「こんな所に一人でいるとは……」
呆れたような吐息とともに、後方からぬっと現れた手が、私が欲しかった本を書棚から取り上げた。
「どうぞ」
渡されたそれを受け取りつつ振り返ると、声の持ち主は予想に違わずマードック辺境伯その人だった。
「なっ……なんでここに」
「それを聞きたいのは私の方です。ディオフランシス侯爵令嬢が、こんな下町で一人で買い物ですか」
咎めるような響きを含んだ声音に、反抗心をそそられる。ふん、と私はそっぽを向いた。
「構わないでしょ。私だって買い物くらいするもの」
「供の者を出し抜いて、ですか。貴女に出し抜かれた従者が今頃どれほど慌てふためいているか、考えたことがありますか」
私は思わず目の前の男を凝視した。
私が従者を出し抜いたこと、なぜ知っている? 計らったように現れたことといい、まさか見張っていたとでも!?
「……そのいかにも侍女が甲斐甲斐しく用意しましたと言わんばかりの服装を見れば、従者つきで市街に出たことなんて容易に想像がつきます。なのに、こんな所を一人でうろついている。供を撒いて勝手をしていると考える方が自然でしょう」
ずばりと言い当てられ、ぐうの音も出なかった。
(なんか悔しい……)
サヴァナが選んでくれた格好は、どうやら、忍び歩きには向かない仕様だったらしい。
どこがいけなかったのだろう。
高価な宝石は身に付けていないし、手に持った巾着の中にも、大金は入れていない。洋服と、揃いの帽子だって、淡いグレーに近いラベンダー色で、とりたてて目立つような色ではない。
本を抱えたまま、じっくりと自分の姿を観察していると、いくぶん語感の和らいだ辺境伯の言葉が上の方から降ってきた。
「全体的に纏まりすぎているのですよ。良家の子女とすぐにわかります。うっかり治安の悪い場所にでも迷いこんだら、あっという間に攫われてしまいますよ」
買い物の目的は本ですか、と、彼が聞いた。
欲しい物を手に入れるまで、私がお供しましょう、とも。
「いえ。そのぅ……」
貴方にあげるハンカチを買いに来たのだけど。
……言えるはずがない。
「危ない場所に入り込まなければいいんでしょ。気を付けますので、一人で平気です」
辺境伯に取ってもらった本を、私は書棚の空いた場所に置いた。クヴェトゥシェの幾何学の翻訳版ではなかった。
それを彼は元の位置に戻した。やはり背が高い……。
「他に見たい本はありますか?」
「今のクヴェトゥシェ語の専門書の翻訳版が欲しかったのですけど。でも、ここには無いみたいです」
「アズル著の『幾何学原論』ですね。私が持っています。お貸ししますよ」
「え……」
持っている? 大貴族の御曹司であろうこの人が、数学の専門書を?
きっちりと専門分野を修めた人間でなければ、幾何学の学術書など何かの暗号のごとく意味不明のはずだ。
それを所有しているということは、彼も何処かで数学を専攻していたのか。だから祖父が彼を私に勧めた……?
「貸して下さるっていうのなら、その……お借りしないでもないですけど」
「では、近いうちに屋敷の方にお持ちします」
そういえば、私は、この人について何も知らない、と思った。
知っているのは、名前。年齢。爵位。
茶色の髪と、琥珀の瞳の持ち主であること。背が高いこと。私の方に差し出された手が、まるで軍人のように武骨で、大きいこと。
他には?
(嘘……。私、全然、知らない……)
好きなものは? 嫌いなものは?
兄弟はいるの? どんな少年時代を過ごしてきたの?
なぜ数学に詳しいの? どこで、何を、学んできたの?
(どうして、私との婚約、断らないの……?)
断っても構わないって、言ったのに。
こんな赤毛で、可愛げもなくて。
数学ばかり追いかけて、従者が被る迷惑も考えず逃げ出して、頭でっかちの嫌な女。
わざわざ嫁にもらわなくても、貴方なら他に幾らでも選べるだろう……若く、美しく、優しい女性を。
「先程は、失礼なことを申し上げました。謝ります」
迷子にならないよう、しっかりと彼に手を握ってもらって歩いている時、不意に話しかけられた。
雑踏をかき分けるようにして、彼が少し前の方を進んでいるので、その表情は私の位置からは見えない。
「えっ?」
「私はどうも言い方が説教くさくなってしまうようで。……弟たちにもよく言われるのですが」
「弟さんがいるのですか」
「ええ。三人も。私だけぽつんと年齢が離れているので、つい煩いことを言ってしまうんですよね……」
「年の離れたお兄さんですか。……うん、わかります。そんな感じします」
「しますか……」
見えないけれど、なぜか、彼がどんな表情をしているのか、わかった。
苦笑と。照れと。やっぱりなぁ……という、諦めと。
「あの、私」
今なら素直に口に出せる気がした。
「前に、貴方が貸して下さったハンカチ、覚えていますか?」
「ハンカチ? あれは別に、貸したつもりはありませんが……」
「汚して駄目にしてしまったから、弁償しようと思ったんです。貴方に贈るハンカチを買いに来たんです。私」
ぴた、と、辺境伯の足が止まった。
振り向き、じっと私を見つめる。
ごく間近に視線を感じると、急に自分のソバカスが気になってきて、私は慌てて俯いた。曇り硝子に空を映したような青灰色の目も、他人様に自慢できるようなものではなく、こういう時、金髪碧眼の美女ではない我が身がつくづく恨めしい。
「かえって貴女に気を使わせてしまったようですね」
「いえ。私が勝手にそうしたいと思っただけで」
「そんな必要はない……と言っても、貴女は納得しないのでしょうね」
「私がそうしたいと思っているんです」
「では、ハンカチの代わりに、私の願いを一つ叶えていただけませんか。その方がありがたい」
「何ですか……?」
わずかに眉を顰め、私は彼を仰いだ。
不安がありありと顔に出ていたのだろう、それを打ち消すかのように、彼は柔らかく微笑んだ。この人は笑うと少し童顔になるんだな、と、新しい発見に、私はひどく得をした気分になった。
「日を改めて、この界隈を私に案内させて下さい。学生の頃、この辺りに部屋を借りていたので、詳しいのですよ」
それは、彼の願いというよりは、ろくに見て回れなかった私のために、時間を割くと言ってくれているようで。
「いいんですか」
「いいも何も。頼んでいるのは私の方です」
「も、もちろん私に異論はありませんけど……」
「では決まりという事で」
クレメンと別れた場所に戻ったが、執事見習いの青年は、果たしてそこにいなかった。
私をまだ必死に探し回っているのだろう。急に、自分の浅はかな行為がずしりと重く肩にのし掛かってくるのを感じた。
「帰りましょう」
石畳の上に根を生やしたかのように動かなくなった私の背を、マードック伯が押した。ちょうど辻馬車が通りに止まったところだった。
「貴女が無事に屋敷の方に戻れば、従者もじきに帰って来ます。その後、自分に非があると思うのなら、その者に謝ってあげなさい」
辺境伯は、一緒に辻馬車に乗り込んで、私をディオフランシスの屋敷まで送ってくれた。
どっぷりと日も暮れた頃、ようやくクレメンが戻ってきた。
額に玉の汗を幾つも浮かべている彼を見た途端、自然と謝罪の言葉が口をついて出た。素直すぎるお嬢様なんて不気味ですよ、と、クレメンはたいそう無礼な台詞を吐いたものの、私に対して本気で怒っている様子はなく、表情はごく優しかった。
無事で良かった、本当にほっとした、と、これ以上ないくらい、目尻を下げて喜んでくれた……。
「旦那様と若旦那様へ告げ口するのは、今回はやめておきます。お嬢様がこんなに俺のこと気遣ってくれるの、初めてですしね」
クレメンが胸の内に収めてくれたおかげで、この一件は、祖父にも兄にも知られずに済んだ。




