5 下町探検(ヘザー視点)
紳士用ハンカチを買いに行こう、と、思った。
そんな買い物くらい私がひとっ走りして済ませてきます、とサヴァナは言ったが、これは、私が自ら成すべき事であると確信している。
なにせ、わざわざ来てくれた婚約者殿のハンカチをインクで台無しにしたのは、他でもないこの私なのだ。やはり私が弁償すべきだろう。人任せにして良い問題ではない。
と、力説すると、
「要は自分で選びたいのですね。辺境伯様に差し上げる物を。難しい理論展開しなくて良いですから、もっと素直におなりなさいまし」
サヴァナに軽くあしらわれた。
何だか、辺境伯が私の前に現れてから、明らかにサヴァナにやり込められる回数が多くなった気がする。
以前は互角だったはずなのに……。理不尽なものを感じつつ、サヴァナと口喧嘩したところで敵うはずもないので、考えないことにした。
それよりも、男物のハンカチなんて何処に売っているのだろう。市街の服飾店を片っ端から回れば、相応しい品が見つかるだろうか。
お詫びも兼ねているのだから、ハンカチだけではなくて、他にも何か添えた方が良いのだろうか。男の人が喜ぶ贈り物って何だろう……。ぶつぶつ。
「あー。もう、鬱陶しいですね。それも含めてご自分でお考え下さい。うだうだ悩んでも、良い結論なんか出ませんよ。行動あるのみです」
などと悪態をつきながらも、外歩きしやすい服と、つばの広い帽子と、長く歩いても足が痛くなりにくい踵の低い靴を、サヴァナは私のために揃えてくれた。
財布や小物の入った巾着も用意して、完璧な外出用の身支度を整えると、最後に、少し日差しが強くなってきましたから、と、ともすれば青白く見られがちな私の顔に、薄く化粧を施した。
「ヘザー様は極端に色が白いから、外出されるときは、きっちりお化粧しないと駄目ですよ。すぐお日様に負けてしまいますからね」
サヴァナはやっぱり優秀な侍女だ。
私が屋敷を出ると、もう門の前に馬車と護衛が用意してあった。
「一人でのんびり出歩きたいなんて、仰らないで下さいよ。ちゃんと供の者も連れて行って下さいましね」
万事において抜け目のないサヴァナだが、一つだけ痛恨の過ちを犯したようだ。
彼女が供にと引っ張ってきたのは、執事見習いのクレメンだった。
根は悪い人間ではないのだが、執事をするには明らかに思慮深さや注意力の足りない男である。年齢が辺境伯に近いので、ハンカチ選びの参考になるとでも思ったのかもしれない。
クレメンなら撒きやすいな……。
含み笑いを帽子の陰に隠して、私は頼りない護衛と共に馬車に乗り込んだ。
執事見習いとして業務に勤しんでいる間、クレメンは、装飾の一つもない黒い衣装にいつも身を包んでいた。
フェルディナンドの慣習では、執事は、仕える家の主人よりも洒落ていたり華やかであったりする事はご法度とされている。だから、彼らの多くは、常に黒かそれに近い濃色の正装姿だ。勤務中のクレメンも例外ではなかった。
が、本来の彼は、どうやら派手好きであったらしい。
「……それ、本当に流行ってるの?」
鮮やかな青の長衣。大きな襟と袖の金糸の刺繍がやけに眩しい。首に結んだネッカチーフは豪華な総レース仕様だった。長衣の腰に渡してある革ベルトにも細かな鎖がじゃらじゃらとぶら下がっている。
小物選びなら俺にお任せください! と鼻息荒く宣言してくれた彼だが、私は大いに不安だった。
マードック辺境伯とは、明らかに好みの方向性が違う気がする。私の婚約者殿は、ありていに言えば地味だった。動き易さや着心地を重視しているのだろう。ネックレスやネクタイピンの類も見当たらなかった。
貸してくれたハンカチだって、黒っぽい色で、無地で……。
(でも、着ている服、仕立ては良さそうだったわね……)
小さな店が軒を連ねる市街中心部の入り口付近で、馬車が止まった。クレメンと私が降りると、御者は「ごゆっくり」と一声かけて、すぐにその場を立ち去った。待機してくれると思っていたらしいクレメンが目を丸くする。
「お、お嬢さん。馬車行かせてしまっていいのですか。帰りは……」
「帰りは辻馬車を拾って帰るのよ。何時間かかるかわからないのに、待たせておくわけないでしょう」
「辻馬車って、ディオフランシス侯爵令嬢が何言ってるんですか……!」
「あのね。私は、一人で買い物も出来ないほどの箱入りお嬢様ではなくてよ」
こう見えても、数学講師として教壇に立って働いている身だ。兄などは、侯爵令嬢のすべき事ではない、と激怒しているが。
講義で使う資料を作成したり、生徒たちの質問に答えたり、自分なりにちゃんと先生らしいこともしているつもりである。世間知らず、なんて、言わせない……!
「屋敷と学院の行き来は馬車の送り迎えつきだし、買い物ったって、学院の購買で文具や本を揃えるくらいでしょう。巷の店なんか入ったことあるんですか」
クレメンに痛いところを突かれた。
「あ、あるわよ……」
「本当かなぁ。お嬢さん、しっかりしているように見えて結構抜けているって、サヴァナも言っていたし。なんか心配なんですよね」
余計なことを、と、今ここに居ない侍女に拳を戦慄かせつつ、私は、つんと顎をそびやかして歩き始めた。
腰の飾りの金属音を響かせながら、クレメンが後ろから付いて来る。
クレメンとは二件の服飾店を一緒に回った。
彼が自信たっぷりに差し出す「流行の最先端」なる柄のハンカチを、本能的に私は避けた。
絶対に辺境伯には似合わない気がする。道化師の一歩手前のような格好のクレメンなら、違和感も無さそうだが。
あまりにも当てにならないので、いっそ居ない方が良いのにと思った。そろそろこの野暮ったい執事見習いを出し抜いて、一人で見に行くべきなのか……。
二件目の店を出ると、目の前の道路がちょうど渋滞を起こしていた。
私は躊躇わずその道路に飛び出した。止まっている馬と馬車の合間を縫うようにして幅広の路を渡り切り、振り返る。
クレメンが唖然としている間に、渋滞はすぐに解消され、馬車はまた動き始めていた。衝撃から立ち直ったクレメンが私に向かって何か叫んでいるが、街の雑踏にかき消され、何も聞こえない。
「悪いわね。ちょっと一人で見て来るわ!」
馬車が引っ切り無しに行き交う大通りを挟んで、私はクレメンに両手を合わせた。
「こんな事がばれたら、俺、クビですよ!」
クレメンの情けない悲鳴が聞こえたような気がしたが、それを無視して、私は勢いよく走り出した。




