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Anagram  作者: 宮原 ソラ
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4 初顔合わせ(ヘザー、カイル視点)

(※ヘザー視点)


 間もなく、サヴァナが部屋に戻って来た。

 その頃になると私も幾分落ち着いて、椅子に座って悠然と脚を組むだけの余裕も生まれていた。

 サヴァナに動揺を悟られるのは面白くなく、平静を装って近くの本を開いたが、それが逆さまだったため、かえって相手の失笑を誘う結果となってしまった。

「顔、真っ赤ですよ、ヘザー様。……色が白いからいっそうわかりやすいですねぇ」

「う、うるさいわね。風邪気味なのよ」

「あら。辺境伯様を呼び戻します? あの胸で温めてもらえば、一発で良くなりますよ。そんな風邪」

「ばっ……!」

 なんて侍女だ。それでも侍女か。仕える女主人に、これでもかというくらいの暴言の数々……!

「とりあえずお召し物を取り換えましょう。お洋服にまでインクを跳ね飛ばすなんて、前代未聞ですよ。本当に」

 これも捨てた方が良さそうですね、と、サヴァナが屑籠を持ち上げた。私はそれを慌てて奪い返し、中のゴミを漁って、丸めたハンカチを取り出した。サヴァナが目敏く見とがめる。

「男物ですね。どうしました?」

「辺境伯が、顔を拭くのに貸してくれたのよ」

「インクの汚れですから、洗っても完全には落ちないと思いますよ。新しい物を買ってお贈りしましょう」

「もちろんそうするわよ。これを洗って返すわけないでしょ」

「じゃあ、なぜ、そんな大事そうに。……ははぁ」

 サヴァナがにやりと笑った。

「大切な婚約者様の品だから、持っていたいのですね。可愛いですねぇ、ヘザー様」

「あんた、本当にうるさいわよ。クビになりたいの!?」

「クビと言われ続けて、はや十二年。さすがに慣れましたねぇ」

 サヴァナは私の着替えの手伝いを手早く済ますと、下働きの女中を二人呼んで、部屋の各所に撥ねたインク染みを掃除させた。カーテンにも小さな飛沫が飛んでいたので、それを外し、新しいものと交換する。

 クビと言われて十二年。決してクビにならない理由がここにある。彼女は優秀な女使用人だった。自ら動き、てきぱきと指示を出す。

 カーテンやらクッションカバーやら、大量の洗濯物を抱えて下働きの者たちが退出する時、その手の中に例のハンカチがあるのを見つけ、私は叫ばずにはいられなかった。

「あ。あ。それ! 大切な物だから失くしたら……」

「大丈夫ですよ、ヘザー様」

 うふふ、と笑いながら、サヴァナはひらひらと手を振った。

「私がちゃんと見ております。なるべく綺麗にしてみせますから、楽しみに待っていて下さいませ」






(※カイル視点)


 肖像画というものはつくづく当てにならないな、と私は思った。

 絵の中の表情に欠けた金髪美人は、実際に会ってみると、生き生きとした純朴そうな赤毛娘だった。

 二十四歳という年齢から、もっとろうたけた大人の女を勝手に思い描いていたのだが、彼女は私のそんな予想を良い意味で裏切ってくれた。

 鼻の頭にインクを載せた顔は、思いのほか初々しい。そのインクを拭き取ろうとして更に汚れを引きのばす仕草が、あまりにも可愛らしく、笑いを堪えるのに苦労した。

 一方で、背後には、あどけない顔貌には似つかわしくない数多の数学の専門書。彼女が汚れを拭っている間に机の上に目をやれば、「数学倶楽部」宛ての分厚い封書が視界に飛び込んでくる。

 差出人の「明るい夜(ルミノクス)」の筆名に、冗談だろうと危うく叫びそうになった。

 私も数学倶楽部に所属しているのでわかる事だが、この会で、ルミノクスはちょっとした有名人だった。

 彼(私は、ルミノクスをずっと男だと思っていた……)は、会報誌に論文を寄稿する常連で、その豊富な知識と巧みな論理展開には幾度となく舌を巻いたものである。


 その天才博士が、目の前の、そそっかしいインクまみれの女性……。


 彼女と一緒なら楽しく過ごせそうだと思った瞬間、ごく自然と、「自分から婚約は破棄しない」と宣言していた。

 伯父の策略にまんまと引っかかったようで、少しばかり面白くない気もしたが……。それよりも、彼女をもっと知りたいという欲求の方が強かった。


「兄さん、兄さん。この本はどこに入れる? ここでいい?」


 弟のセルディに話しかけられて、取り留めのない思考を一旦中断する。微分幾何学の専門書を片手に、途方に暮れたような顔をして、弟は書棚の前に突っ立っていた。

「本の題名が難しすぎて、どれとどれを纏めていいかわからない……」

「そこに置いといてくれ。後で自分で片付けるから」

「わかったけど、こんなにあるよ。……それにしても」

 巨大な書棚を見上げ、セルディが嘆息した。

「副理事室の本棚に数学の本が山盛りって。何か間違っている気がする」

「時間のある時に読もうと思ったんだが、つい持って来すぎてな……」

 この春、私は、フェルディナンド王立学院の副理事就任の辞令を受けた。国王陛下の甥にあたるメルトレファス公爵閣下の下で長年側近として働いてきた実績と、更には、数学博士の称号を取得している学歴から、たまたま空きの出たこの職位に異例の大抜擢をされたわけである。

 人事には、公爵閣下は勿論、彼を兄君とも慕う王太子殿下も、どうやら絡んでいたらしい。

 数年のうちに理事に昇格し、学院の改革に着手しろ、と、どさくさに紛れて厄介な密命まで受ける羽目になってしまった。

 あのお二方は、私がもともと何の力もない下級貴族の出身であるという事実を、都合よく忘れている気がしてならない。

 せっかく与えられた機会であるから、無駄にはせず、私が学生の頃に感じた矛盾点くらいは、一つ一つ潰してゆくつもりだが……。

「兄さんって、そのうち田舎に引っ込んで、馬の世話でもしながらのんびり暮らしたい、って言ってなかったっけ」

「……そんな事も言った気がする」

「しばらく無理そうだねぇ」

「全くだ」

 やるべき事は目白押しだった。

 まずは、学院副理事という、これまでの私の経歴とはかけ離れた役職に、一刻も早く馴染まなければならない。

 人脈も新たに広げる必要があるだろう。どんな改革を推し進めるにせよ、途中で無様に転ばないよう先に足場を固めるのは、常套手段である。

 そういう意味では、ディオフランシス侯爵家との太い繋がりは、非常に魅力的なものがあった。

(いや、それよりも)

 赤ワイン色の髪をした彼女に、ただ触れたい。

 乾いた地に降る恵みの雨のような淡い青灰色の瞳を、もっと近くから覗き込んでみたいのだ。

 自分で考えている以上に、これは深みに嵌まっているかもしれないと、漠然とした不安を抱きつつ……副理事着任二日前の夜は、ゆっくりと更けていったのだった。




サヴァナさんに激しく愛を感じる今日この頃。

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