最終話 血の系譜(ヘザー視点)
じ、と、どこか遠くで蝋燭の火の揺らめく音がした。
火事になったら危ない、消さなきゃ、と、朧な意識の片隅で、私はそんな事を考えた。
二度、三度、寝返りを打ち、隣に当然あるべき体温を探す。手がぱたぱたと空しく寝具を叩いた。
「カイル?」
隣にカイルはいなかった。一気に目が覚めて、慌てて彼の姿を探した。
窓の付近に、机に向かって書き物をしているらしい人影が見えた。大きな天板の上には、何枚もの羊皮紙が広げられている。
どうやら彼も起きて間もないらしく、裸の上にローブを引っ掛けただけの格好だった。焦がした麦穂のような色合いの髪には、珍しく寝癖まで付いている。手櫛だけでは直らなかったのかもしれない。
「カイル」
声をかけると、紙面からカイルが顔を上げた。
「ああ、すみません。起こしてしまいましたか」
朝日は昇ったばかりで、まだ辺りは薄暗い。時計を見ると五時にもなっていなかった。
「何してるの?」
私もローブを羽織り、ベッドから出た。昨晩の甘い余韻が体の隅々に残っており、足取りがやや覚束ないものになった。
カイルがすぐに傍らに来て支えてくれた。自分がそれまで掛けていた椅子に私を座らせると、彼自身は後ろから覗き込むような位置に立った。
「家系図ね」
机の上に広げられた紙束は、王室秘蔵の家系図だった。図書館に置いてあるような万民が目に出来る略図ではなく、葬り去られた暗部までも詳細に記した、限りなく正確な血の系譜である。
二十五歳で没したはずのアラステア王子の享年が、四十一歳に訂正されていた。そこから線が伸びて、レアト、そしてカイルの名が、新たに加えられていた。
代々の名の隣には、没年以外にも、金目、翠緋、と特徴が添えられていた。
「何かわかった?」
「見事に男ばかりですね。金目も、翠と緋の瞳も」
そうなのだ。二百年以上続くフェルディナンドの歴史の中で、この双眸を持つ者は、ただの一人も例外なく全員が男性だった。
「我が国が男系継承にこだわったのが、わかる気がします」
金目と翠と緋の瞳の発現を促す因子は、常に父方に。
母方の王族の血は、その確率を跳ね上げる。
実際には、他にも条件は幾つかあるのかもしれないが……父親が男系王族であることは、外せない最大の要因であると確信できた。
「おかしいと思ったんです。アルムグレーンの呪いの話を聞いたとき。なぜ、諸外国にも翠と緋の瞳が生まれないのかと。あんなに何度もフェルディナンドの王女が嫁いでいるのに」
アルムグレーンと各国の王家の共通項は、ただ一つ。
両者とも、王女は嫁に行っても、王子や王弟が入った形跡はないということ。
メルトレファス、エジンヴァラとの決定的な違い。
アルムグレーンは、王族男子を受け入れたことのない家系だった。
「蓋を開けてみれば単純よね……真実なんて」
「代々のアルムグレーンは、自家の男系の血を途絶えさせたくなかったのでしょう。しかし、それは、翠と緋の瞳の誕生とは絶対的に相容れないものだった……」
そういう意味では、嫡男を排斥してまでメルトレファス公爵様の御子を、と望んだ先アルムグレーン公の目の付け所は、間違ってはいなかったのだ。
大いに巻き込まれた私たちにしてみれば、迷惑以外の何ものでもないが……。彼は彼なりに正しい答えに辿り着いていたのだろう。
ただし、同意は、全く出来ない。
「この人。……アルウィン王子!」
じっと羊皮紙と睨めっこしていた私は、隅の方に伸びた系図に注目した。ちょっとした発見に思えて興奮してしまい、知らず声が上ずった。
「準公爵として臣籍に下っているわ。イングラム準公爵みたいに独身じゃない。ちゃんと結婚して、子供も残している。でも、この王子の子孫、アレクサンドライトも金目もいないわよね。なぜかしら?」
カイルはとっくの間に気付いていたようで、想像の範疇ですが、と前置きしつつ、推論を教えてくれた。
「おそらく、代を経ると遺伝の形質が消えてしまうのでしょう。偶然か必然か……歴代の準公爵は、ことごとく独身か、かなり下級の令嬢と結婚しています。アルウィン王子もそうですね。翠と緋の瞳は、母方に王族の血が入らない場合、わずか数代で淘汰されてしまうような極端に弱い因子なのかもしれません」
「独身か下級貴族と結婚……偶然かしら」
「偶然と思いたいですね。今回のようにアルムグレーンの介入があったなどとは考えたくはありません」
「あ……」
「偶然ですよ。そう思いましょう」
広げた羊皮紙を、カイルが畳んだ。もうこれ以上、調べる気も知る気もないのだと言わんばかりに、丸めた紙束を紐で縛った。
それを見ながら、私も、もういいな、と思った。
血統とか、血筋とか、そんなものにこだわる輩の気が知れない。私は、カイルがカイルだから好きになったのだ。
どんな紆余曲折を経ても、私の向かう先には……今は夫となったこの青年が間違いなくいるだろう。
「くだらないわ。誰が誰の子孫なんて、どうでもいいわよ」
「貴女は初めからそうでしたね。私の父親がどこの誰かわからなかった時から、潔いほど態度は一貫していました」
「そりゃそうよ。貴方をこの世に送り出してくれたことに感謝こそすれ、それ以外に私が気にするべき事なんて何も無いもの」
貴方だってそうでしょう?
私は笑った。手を伸ばし、滑りの良い夫の髪を撫でた。この感触が好きで好きでたまらない。
「王子の血筋とわかっても、カイルはちっとも嬉しそうじゃない。貴方がお父様のことで一番ほっとした顔を見せたのは、お父様がお母様を捨てたんじゃないってわかった時だったわ」
「よく見てますね……」
「そうよ。私に取り繕っても無駄よ。浮気だってすぐにバレるんだから」
「浮気?」
カイルがわずかに鼻白むような表情を見せた。もともと少し低めの声が、いっそうの重さを孕む。
「わざわざそれを口にするということは……、もしかして愛情を疑われているんですかね」
「壁に耳あり、ドアの鍵穴に目あり、を印象付けようと思って」
「なるほど。よくわかりました。どうやら疑われているようなので、これからその疑いを払拭すべく努力することにします」
「は?」
椅子の上から、ひょいと抱き上げられた。思わず時計を振り返る。針は五時半にかかっていた。薄闇は既に引き、朝日が眩しいほどに差し込んでくる。遠慮がちな蝋燭の炎が、もう何の役にも立っていなかった。
「ちょ、待って。朝! もう朝!」
足をばたつかせて抗議したが、その拍子にローブの前が割れて太腿が剥き出しになり、相手にただ目の保養をさせただけだった。
「朝ですね。今日も天気が良さそうです」
「そうじゃなくて! ちょっと何する気よ! 私、これからお風呂入って、もう一眠りするのよ。貴方だって学院……」
「残念でした。今日は私は休みです。言ってませんでしたっけ?」
「聞いてない!」
「まぁ、言い忘れたのか、聞き忘れなのか、大した問題ではありませんね」
ベッドに下ろされるのかと思ったら、そのまま、あろう事か、浴室に連行された。
「え。ちょっと、嘘っ……」
「入浴希望とのことなので」
「一人で……!」
「何事も経験です」
お祖母さまが眠っている市街の教会で、慎ましく結婚式を挙げてから、今日でちょうど一週間目。仲睦まじく過ごしているとの自覚はあったが、これまで、明るい中で抱き合った経験はなかった。
単に私が恥ずかしくてそれを避けていただけだったのだが、ついに夫は強硬手段に出たらしい。まさかいきなり陽の燦々と降り注ぐ水場に連れ込まれるとは予想だにせず、私は真っ赤になって狼狽えるばかりだった。
「や……んっ……」
「背中に触れたくらいでなんて声出すんですか」
「だって!」
背中を流して終わりになるはずもなく。
結局、嫌と言うほど未知の体験をさせられる羽目になった。
ちなみに、カイルからは、「本当にただ洗ってやるだけのつもりだった」と言われた。
なのに、変な声を出すから火がついた……、と。
それって私のせい!?
どこまでも飄々としている夫に、私が内心全力で悪態をついたのは、言うまでもない。




