35 見果てぬ夢(ディオフランシス侯爵視点)
運命の女神は、神が一人しかいないはずのフェルディナンドにも、きっと、存在しているのだろう。
書斎に山と積まれた「数学倶楽部」の会報誌を、私が見つけたのは、偶然だった。
普段は自室に閉じこもって書き物ばかりしているヘザーが、ここ数年、会報誌の難問を解く時だけ、資料が大量に必要ということでよく書斎に顔を出しにくる。
亡き妻リーゼロッテも数学倶楽部の問題を好んで解いていた。血は争えないものよと感心しつつ、冊子の一つを手に取ると、挟んであった栞がひらりと落ちた。
元通りにしないと、孫娘はきっと激怒するだろう。この辺かと見当を付け、頁を開く。途端に、赤インクで堂々と書かれた「難しすぎる!」という文字が目に飛び込んできた。
「……なんじゃこれは」
また別の一冊を覗いてみると、それにも似たような走り書きがあった。今度は「性格悪し」と書かれてあった。
「ふむ」
どうやら、ヘザーがメラメラと敵愾心を燃やしている超難問の製作者がいるらしい。
「星の軌道」
それが、難問の作り手の筆名だった。
明るい夜であるヘザーとの相性の悪さに、思わず笑ってしまう。
「明るい夜に、星の軌道か」
不意に、ささやかな悪戯心が私の胸中に湧き上がった。
私はストルヴィアに手紙を書いた。ルミノクスを名乗り、貴方の問題は難しすぎる、解法を教えて下さい、と。
彼がどこの誰かわからないので、倶楽部の編集局宛てに出した。時間はかかるが、編集局から当該人物に届けられるだろう。
一か月が経ってから、ようやく返事が来た。ストルヴィアも編集局を通したらしく、身元の分かる記述はそれには無かった。
丁寧な、綺麗な文字だ。だが、筆圧はしっかりとして力強いので、男手とわかる。
不思議な懐かしさが込み上げてきた。私は彼の字に見覚えがあった。ストルヴィアはもしかして知人だろうかと訝しんだが、私の心を温かく満たす記憶は、随分と古いものだった。
私は机の引き出しを開け、そこから手紙の束を取り出した。
亡くなったとされるアラステア王太子からの、便り。彼が四十歳になるまで、私は、十五年間にも渡り、年に一度連絡を取り続けていた。
出奔を手助けした友として。忠実なる臣下として。そして、彼が一番可愛がっていた妹の、夫として。
「アラステア殿下……!」
同じだった。
全くと言っていいほど、ストルヴィアの字は、アラステア王子のそれと同じだった。
ストルヴィアとは、何者だ?
アラステア王子の子息、レアト殿なのか?
調べてみると、それは、クラウザーという男爵家の長男だった。まだ二十代と年若い。レアト殿なら五十歳を超えているはずだから、彼であるはずもなかった。
奇しくも、ちょうどその頃、ストルヴィアは跡目のなかった辺境伯爵家を継いだばかりだった。国王陛下への報告の帰り道、廊下を歩く彼を私は呼び止めた。
「マードック辺境伯」
振り向いた彼の、その琥珀の瞳を見て、息を呑むほど驚いた。
(レアト殿の御子だ)
間違いない。私はレアト殿に会ったことは残念ながらなかったが、アラステア王子の手紙から、ご子息が琥珀の瞳の持ち主であることは知っていた。
(リーゼと目の色が全く同じなんだ。まさか叔母から継ぐとはな)
懐かしい琥珀の瞳。
リーゼ以降、王族の誰にも生まれなかった。
十八年ぶりに見た……今なお忘れ得ぬ、妻の双眸。
「ディオフランシス侯爵?」
目を閉じれば、耳に飛び込んでくるのは、少し低めの、よく通る落ち着いた声。
それがまたアラステア王子と恐ろしいほど似ていた。
(リーゼに伝えてくれ。人と違うと萎縮する必要はないと。王女が数学好きでも別にいいじゃないか。私は、王女らしくより、あの子らしく生きて欲しい)
(伝えます、その言葉。リーゼに)
(リーゼだけではなく、この先、お前の下につく全ての者たちに。自らに誇りを持ち、努力している人間が、不遇や不平等に泣くことのないように)
(お約束します。必ず……!)
帰ってきて下さった、そう思った。
老い先短いこの命が終わる前に、祖国フェルディナンドに戻ってきて下さった。
強い光を放つメルトレファスの胎内で、誰にも知られず、掌中の珠のごとく磨かれて……期は満ちた。
「よう戻られた、カイル殿」
「え?」
「なに、年寄りの戯言じゃ。それより儂は急に用事を思いついた。ではまた会おう。さらばじゃ」
「は、ぁ」
私がどれほど喜びに打ち震えているか、わからないじゃろうなぁ。マードック辺境伯。
アラステア王太子の直孫である貴方が、そこに居てくれる……。
ただそれだけで、私は、あの日、国を出る王子を止めなかった自分の選択が、決して間違いではなかったと……心の底から安堵できるのだ。
(よう戻られた。殿下……)
アルムグレーンへの裁定が下された。
それは、ある意味厳しく、また同時に寛大な処置でもあった。
アルムグレーンは公爵位を剥奪された。フェルディナンド建国より続いてきた偉大な三家の一つが、ついに歴史上から消えたのだ。
だが、王は、そこに仕える罪なき人々が路頭に迷うような非情な手段は取らなかった。主を諌めなかった傍系らは排除されたが、家も、土地も、臣下も、ほとんどそのままに、公爵を準公爵へと降格させるにとどめた。
最後に、王は、アルムグレーンの名そのものを抹消し、イングラムと改めた。
イングラム準公爵家の復活である。
「カイルにイングラム準公爵家を継がせようと思う。どうだ?」
王がそう言ったとき、メルトレファス公は渋面を作り、私もまたわざとらしく髭を撫でて思案に耽るふりをした。
「何だ、二人とも。諸手を挙げて賛成してくれると思ったのに……」
王は年甲斐もなく口を尖らせた。
……王太子殿下のわかりやすい性格は、間違いなくこの方から引き継いだものであろうと思う。
王の極めて私的な部屋に、私たちはいた。扉一枚隔てた向こうは、王の居室、一人で気兼ねなく寝泊まりできる空間である。
謁見室や応接室のような見た目の豪華さよりも、居心地の良さを重視して誂えた部屋は、温かみに溢れている。全て王妃フェミア様の見立てだった。
フェミア様はクヴェトゥシェの王女殿下だが、もともと身分差意識の低い国の出身であるから、感覚は庶民のそれに近い。王と知り合ったのも、華々しい夜会ではなく、王立学院の図書館だった。
生物学系の専門書を読み漁っているフェミア様に、何故か王は一目惚れされたということだ。しばらくの間、フェミア様に、哀れを誘うほどに袖にされていたが、ついに男の執念は逃げる女を捕まえた。
「よく決心なされましたな」
私が感心すると、
「あんなにしつこい人は初めてです」
悪びれず答えた王妃様に、私は、国の未来は明るいと確信した。
そのフェミア様は一男三女を生み、「子供たちに愛のない政略結婚はさせない!」の信念のもと、二十七歳にもなる王太子殿下をいまだ独り身で放置している。
が、王子はどうやらイルミナの王女殿下に並々ならぬ関心を寄せているようで、臣としてはほっと胸を撫で下ろしているところであった。
「私は賛同いたしかねます」
私の取りとめのない思考を遮る形で、メルトレファス公が口を開いた。
「今、アルムグレーンが土台になったイングラムを引き継ぐということは、その大きな変化に伴う痛みも、恨みも、全てカイルが一人で背負いこむということです。私は、何も望んでいなかった彼に、無理やりマードック辺境伯位を押し付けました。これから改革を推し進める上で、絶対的な味方が欲しかったという、私自身の身勝手のために。これ以上、彼に負担をかけたくはないのです」
「ふむ……」
ユージン殿の告白に、王は、綺麗に剃りあげた顎を撫でた。
本人は髭を生やしたいらしいのだが、王妃に髭は嫌いだと一刀両断されてから、まめに手入れしているようである。
「痛みと恨みは、王室が引き受けるべきでしょう。長年アルムグレーンを放置してきた責は、王室にございます」
私は言った。
私自身、カイル殿にこれ以上何かを強いるつもりはない。孫娘と仲睦まじく、ただそこに居てくれれば十分だった。
欲を言うなら、ひ孫をこの手に抱きたいくらいか。
「イングラム準公爵位は、王室の預かりとしましょう。完全に変化に伴う混乱が収まるまで。その後、最も相応しい者へと譲り渡しましょう。例えば、金目やアレクサンドライト、明らかに王室の特徴を継いでいる……次世代の御子たちに」
「ディオフランシス候」
そのように、と、ユージン殿が力強く頷く。
私は髭を撫でながらにやりと笑った。……まこと、髭とは便利な小道具だ。生やせない王が気の毒である。
「とりあえず、王室家系図に、レアト殿、カイル殿の名を加えておきましょう。ただ、これ見よがしに新王族とひけらかす必要はないかと。そのような張り子の権威などなくとも、カイル殿は、十年、二十年と確実に実績を積み上げ、押しも押されもせぬ施政者の一人となりましょう。私どもは、それを高みの見物しておれば良いだけの話です」
私は、ちらとユージン殿に横目で視線をやった。
「そこのお若いメルトレファス公だけは、高みの見物ではなく、一緒に馬車馬のように働いてもらわねばなりませんが」
「元よりそのつもりです」
「ははは。若者はそうでなければ。老い先短いこの爺に、楽しい夢を見せて下され」
居心地良いソファの背に、私は深く沈み込んだ。
「さて。偉大なる数学者、クリス・ロベルト・イングラムを祖とするイングラム準公爵家を継ぐのは、誰の御子か……」
その日、不思議な夢を見た。
クリス・ロベルト・イングラムと同じく「クリス」の名を持つ少年が、三つ頭の鷲の彫り込まれた輝く杖を、玉座に座す人物より賜っているのである。
鷲は「財」を顕す珠ではなく、「知」を顕す杖を、しっかりと鉤爪に握り締めていた。
(なるほど。新しいイングラム準公爵は――……)
次回、最終話です。二話同時に更新します。




