30 追跡(ニール視点)
何か、ひどく嫌な予感がした。
まだ早朝と言ってもいいような時間帯、俺は肉の配達にディオフランシスの屋敷に向かっていた。
いつもはもう少し遅い時間帯に訪ねるようにしている。朝は、掃除やら料理やら、これから始まる一日の支度のため、皆何かと忙しいからだ。
ただ、今日は、少しばかり特別だった。
昨晩、マリカから生ハムが届いた。マリカは、王都から遥か北に位置し、人口約千、人間よりも豚と羊の数の方が圧倒的に多いような、小さな町である。
ここの生ハムが、無名ながら、とんでもなく美味いのだ。
チーズも質の良いものを揃えている。俺の雇い主がこのマリカ出身で、定期的に極上の生ハムとチーズを仕入れていた。
俺は、それを、朝食の時間に間に合うようにディオフランシスの屋敷に届けに来たのだ。赤毛の生意気お嬢さまが喜ぶだろうなぁ、と、くるくるとよく動く表情を思い出して鼻歌なんて歌っている時、
(おー。朝帰りだ。やるなぁ)
偶然、ディオフランシスの屋敷から出てくるマードック伯を見つけてしまった。
「カイルさ……」
声を掛けようとして、俺は思わず言葉を飲み込んだ。
息を殺して、近くの塀の陰に慌てて隠れた。声を掛けるどころか、その視界に入るのも恐ろしいほど、カイルさんは切羽詰まった表情をしていた。
(何だ……。様子、変だぞ)
手には黒い本を一冊持っているだけだ。他には何もない。
屋敷の庭の片隅に待機させていた馬に、おもむろに跨った。潜んでいる俺の存在に気付くこともなく、立ち去った。
学院とも、自宅とも、違う方角へ。
(やべぇ)
表情だけではない。違和感の正体。
(剣だ)
腰に剣を提げていた。
もちろん、王都にだって治安の悪いところはあるし、一歩街の外に出れば夜盗の類だっていないわけではないし、護身に剣を持つのは珍しいことではない。貴族の中には、使えないのに、威嚇のためだけに武器を持ち歩く輩もいる。
(カイルさん。何だよ、何する気だよ……)
俺は、肉やチーズを載せた馬車を振り返った。
馬と荷台を繋げた金具を外した。馬は手綱は付いているが、鞍はない。追いつけるかどうかわからなかったが、とにかくそれに飛び乗った。
(頭悪いけど、俺、馬だけは得意だったもんな)
俺の親父は、貴族に仕える馬丁だった。腕は良かったみたいだから、今も親父が生きていれば、俺も弟もそこそこ良い暮らしが出来ていただろう。
だけど、親父は俺が十四歳の時に死んだ。親戚一同、揃いも揃って俺たち兄弟を引き取るのを嫌がって、結局、施設に預けられた。
十六の時、王立学院の試験を受けて受かったけど、金が無くて諦めざるを得なかった。だから、余計に、弟だけでも学院に入れてやりたかった。
(君も諦める必要はない。年齢による入学制限も取り払うつもりだ)
カイルさんはそう言った。
俺たちの、男だけの、約束。
「まだ叶えてもらってない……! 何する気だよ、カイルさん……!」
俺は駆けた。追いつけるなら、この先一生分の運を使い果たしても良いとすら、思った。
俺の一生分の運だけでは、足りなかったみたいだ。
正確に追跡できているかもわからないままに、街を抜け、平野を駆け、妙に小奇麗に手入れされた森の手前で、俺は止まった。
これ以上進むのは無理だった。先は私有地だったのだ。立て看板には、アルムグレーンの名と紋章が刻まれている。
公爵家の土地に無断で踏み込むなんて、その場で斬り殺されても文句は言えない。そもそも本当にカイルさんがここに来たかも……確証がなかった。
馬から降りて、その場を当てもなく行ったり来たりした。
乾いた黄土色の路上に、その時、黒い丸い物を見つけた。
(ん?)
ボタンだった。金属製で、中央にオニキスが嵌め込まれてある。地面の上に転がっていたのに、ついさっき磨いたように真新しかった。
貴族や軍人が好んで身に着ける丈の長いコートの装飾ボタンだ。カイルさんもよく着ている。生粋の庶民の俺には縁のない衣装だったので、実は密かに羨ましかった。
物欲しそうな顔を見抜かれたのだろうか。ある日突然、カイルさんが言った。
(お下がりになるが、何枚かいるか?)
(何だよ。ほどこしなら……)
(いや。単に古着を処分したいだけだ)
(そ、それなら、もらってやらんでもないけど)
カイルさんは俺を仕立て屋に連れて行った。古着とは思えないほど痛みの少ないそれを、俺の体に合わせて直し、譲ってくれた……。
(同じボタンだ。俺にくれたのと。ここに来たんだ……!)
森の奥から、真っ直ぐこちらに向かってくる馬影を見つけた。
一瞬、カイルさんかと思ったが、違った。人は乗っているが、もっと若い。もっと小さい。俺と同じ年くらいの少年だった。
馬の首に顔を埋め、半ばしがみつくような格好で、彼は馬に乗っていた。俺の姿に気付き、頭を上げた。死人のようなひどい顔色だった。
原因はすぐにわかった。左足が真っ赤に染まっている。膝の少し上に奇妙な丸い穴が空いており、そこから血が溢れ出していた。血は、まだ止まっていなかった。
「お、お前、どうし……」
何が何だかわからない。
が、とにかく放ってはおけない。止血の仕方なんかわからないが、袖を破いてそれできつく縛ってみた。
そこじゃない、もっと上! と、当の怪我人に怒られた。……こいつの方がその心得があるらしい。何だかなぁ。
「俺は、いいから。兄さんを」
「兄さんって」
「マードック辺境伯! カイル兄さんが危ない……!」
「カイルさん? え? お前、カイルさんの弟!? ちょ、待てよ。何が何だか……。どうなっているんだよ!」
詳しく話を聞きたいのに。
少年の体がぐらりと傾いた。馬から落ちそうになり、俺は慌ててそれを支えた。
気絶している場合じゃないだろう、どうせ失神するなら全部話してからにしろ、と横っ面を引っ叩いてやりたくなったが、よく考えれば、この怪我で馬から落ちずに駆け続けてきただけでも、大したものだ。結構、根性のある奴なのかもしれない。
カイルさんのことは気になったが、よくわからない状況で闇雲に探し回るより、まずは負傷者を一刻も早く適切な処置のできる場所へ連れて行こうと、俺の中で優先順位は決まった。
ぐったりとして動かなくなった少年の背後に飛び移り、俺は、勢いよく馬の腹を蹴った。
「ああ、もう! 訳わかんねーよ!」
医者のあてなんか無いので、ディオフランシスの屋敷に怪我人を連れ込んだ。
ヘザー姉さんは、カイルさんの弟と面識があったらしい。リオン、と叫んで、悲鳴を上げた。
普通のお嬢様なら、きっとそこでふらりと倒れて気を失うのだろう。が、彼女は良くも悪くも普通ではなかった。
むんずと俺の胸ぐらを掴むと、
「これまでに至る経緯を簡潔明瞭に説明しなさい!」
と迫った。
簡潔に、明瞭に、説明できたかどうかは甚だ怪しいが……、とにかく起きたことを順を追って話した。
「アルムグレーンの私有地……。そこにカイルがいるのね」
リオンが目を覚ましてくれれば一番良いのだが、意識のないまま治療に入ってしまい、まともに口がきけるのは何日先になるか、判然としない。悠長にその時間を待っている気は、活発なご令嬢には無いようだった。
彼女は厩舎から栗毛の馬を一頭引っ張ってくると、羽のような軽い動作でふわりとそれに飛び乗った。
馬上から、俺に向かって、
「ニール! あんたはこれからメルトレファス公爵様の元に行きなさい! 今の時間なら城にいらっしゃるはずだから。あんたが見たもの、全部あらいざらい公爵様に話すのよ!」
「へ? はぁ? 公爵様?」
待て、おい。城に行ったことすらない俺に、公爵様に会えだと?
ってか、公爵様って、何だ。誰だ。国王の甥? 左大臣? 内政の責任者? 冗談も休み休み言ってくれ。そんな、とんでもない雲の上の御方相手に、俺に一体どうしろと……。
「頼んだわよ!」
頼みやがった。このお嬢。
つい最近まで、ちまちまと泥棒なんてやっていた、俺みたいな最下層民に。
「ああ、もう。わかったよ。頼まれてやるよ。ところでお嬢さまは何処へ行くんだよ。あんたこそ城に行きゃいいのに」
「私は一足先にカイルのところに行くわ」
「だって居場所が」
「あんたがリオンを見つけたアルムグレーンの私有地、あそこにある物は一つだけよ。アルムグレーン家の廟。カイルがいるとしたらきっとそこよ」
「廟?」
「なんでそんな場所に呼びだしたのかは、知らないけどね。弟を人質に取られたら、カイルはどこへだって行くわよ。何だって渡すわよ。……それが、たった一つしかない実の父親の形見でも」
ばしっ、と音がして、馬が一声嘶いた。
着替える時間も惜しんだディオフランシス令嬢は、足をすっぽりと覆い隠す長いスカート姿のまま、手に乗馬鞭だけを持って、あっという間に駆け去った。
「嘘だろ……。一人で行っちまった……!」




