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Anagram  作者: 宮原 ソラ
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3 初顔合わせ(ヘザー視点)


 マードック辺境伯が会いに来た、と、侍女サヴァナに告げられ、鼻の頭にインクを乗せたまま、私は凍りついた。

 一度は部屋から叩き出したクラリッサまでも喜々として舞い戻り、

「まぁどうしましょう!」

 と我が事のように嬉しそうだ。

「早速、お姉さまに会いに来て下さったのね! お姉さまを見初めて、すぐに婚姻届を出すくらいですもの。お姉さまにゾッコンなのですね!」

 ゾッコン、などという俗語、何処で覚えたのだ、この妹は。

 しかし、それにしても、こうも早く会いに来るなんて一体どういうことだろう。まさか本当に私を見初めて、妻に迎えるとでも言うのだろうか。

 鏡に映った自分の姿を見て、ないな、と苦笑した。

 私はクラリッサのような美人ではない。妹とは似ても似つかない赤毛だし、瞳はくすんだ青灰色だ。今はインクで見えないけれど、ごく近くでじっくり観察すれば、鼻の付近に微かに散っているソバカスにも気付くだろう。

 同じ薄いソバカスが、胸元にもある。これが気になって、年頃になっても胸の開いたドレスを着ることが出来なかった。流行を避けているうちに野暮ったい恰好がすっかり身に付いてしまい、今となっては、そもそもお洒落の仕方がよくわからない有様である。

「マードック辺境伯様、初めてお見かけしましたけれど」

 天井を仰ぎ、サヴァナがうっとりと目を細めた。

「ヘザー様、これは拾い物ですわ。すごくいい男でしたよ。背も高いし。顔は精悍というよりは秀麗な感じですね。でも、あれは着痩せするタチです。軍人経験でもあるのかしら。かなり鍛えていますわね、あの方」

 洗濯物の下着が風で飛ばされて、それを殿方に拾われても一向に気にしないと豪語するこの侍女は、男性を値踏みする目は非常に厳しい。

 その彼女がこれほど手放しで誉めるのだから、本当に良い男なのだろう。……少なくとも見た目だけは。

「だったら、なおのこと、私のような変な女をもらってはお気の毒。帰ってもらって。ついでに、どうぞ遠慮せずそちらから断って下さいと伝えて頂戴」

 私からこの結婚を反故にすることは出来ない。そんな事をしたら、行き遅れた孫娘の身を案じてあれこれと心を砕いてくれた祖父の好意を踏み躙ることになる。やっと厄介払いができると喜びを隠さない兄も怒り狂うだろう。

 ……兄については、怒ろうが何しようが、知ったことかと思わないでもないが。

 要は、辺境伯爵さまから断って欲しいのだ。私が世間に「可哀そうな女」扱いされるのは間違いないが、それがどうした、と開き直るくらいの鋼の心臓は持ち合わせている。

「さて。それじゃ私は論文の続きに取り掛かるわ。二人とも邪魔しないでよ」

「まぁ、お姉さま! せっかく来て下さったのに、お会いしないつもりですの!?」

「会わないのが互いのためよ。下手に顔を合わせたら、向こうも断りにくくなるかもしれないでしょ」

 わざわざ来てくれた婚約者を門前で追い払ってしまうような嫌な女が相手なら、遠慮も同情も不要と考えるはず。

 私には、大量の書物に囲まれたこの自分だけの城と、大好きな数学について熱弁を振るうことのできる小さな教室が一つあれば、それで十分なのだ。

 今更、夫なんていらない……。


 不意に、背後で、扉が開いた。






「いくらなんでも、いきなりお嬢さんの私室に伺うのは」

「なぁに。構いませんよ。どうせ一日中部屋に閉じこもって本ばかり読んでいるのです。少しは外の風に当たるよう、婚約者であるカイル殿からも叱ってやって下さい」

 ノックもせずに不躾にドアを開けたのは、兄だった。

 その厳つい体格の後ろに、兄より上背はあるものの、兄よりは随分と細身に見える青年が立っている。

 さらさらの茶褐色の髪は手触りが良さそうで、少しの間切らずに放っておいたのか、後ろの毛先が首の付け根近くまで伸びていた。もう少しすっきりと短くした方が彼は似合うなと、どうでもいい想像を巡らせて、そんな自分に私は内心ひどく狼狽えた。

 瞳の色は琥珀だ。これまた珍しい色合いである。黄色でもなく、茶色でもなく、ぱっと見て琥珀の印象を受けるのは何故だろう。

 ああ、そうか。虹彩の中に橙色が含まれているからか……。

「お前! その顔のインク! まだ落としていなかったのか!」

 兄に怒られた。

 改めて、自分の姿にハッとする。

 そう。私はインクまみれだった。ペンの書き心地が悪くなったので、力一杯ぶんぶんと振ってしまったのだ。先に詰まっていた物は取れたらしく、書き味は戻ったが、予想外に派手に青黒い液体が飛び散った。顔にも手にも。服にも。

 ところで。

「……誰?」

「何を寝惚けたことを言っている。マードック辺境伯カイル殿だ。お前の婚約者だろうが」

 偉そうにふんぞり返りながら兄は答え、クラリッサとサヴァナを伴って部屋を出て行った。後には、私とマードック伯が残される。

「ちょっと……!」

「はい」

 いや違う。マードック伯。私は貴方に話しかけたのではない。

 とりあえず鼻の頭のインクくらいは拭いたいと、室内をきょろきょろしていると、目の前に真新しいハンカチが差し出された。

「どうぞ」

「……」

 こんな綺麗なハンカチを、インクを拭くのに使えと?

 しかも婚約者とは名ばかり、今日初めて会ったこの男の私物を……!

 いやいや、これは好機到来かもしれぬ、と、私はそのハンカチを受け取った。

 彼に呆れられ、こんな変な嫁はいらないと言わしめる絶好の機会である。私は遠慮なく折り畳まれた布地を広げ、ごしごしとそれで顔を拭いた。

「むしろ広がりましたね」

 呆れるどころか面白そうに、辺境伯は言った。

 振り返って鏡を確認して、私は愕然とした。顔の中央が薄黒くなっている。こういう動物いたなぁ……と、余計な事を考えた。

「そういう種類の猫がいますよね」

 伯も同じことを考えていたらしい。……気が合うな。いや合っちゃ駄目なのか。

「猫顔で失礼いたします。既にある程度わかってきているとは思いますが、私はその筋では変人で通っていまして。そんな私が辺境伯様に嫁ぐなど、申し訳なく存じます。ここは一つ、辺境伯様から、このお話は無かったことにと、やんわりとお断りの文言でも頂けると……」

「断ります」

「はい。これで祖父も兄も諦めるでしょう……ん?」

「断るのを断ります」

「はい?」

 話がおかしな方向に転がりつつあるのを、私は感じた。

 辺境伯様は、私の手から既にハンカチではなくなったそれを取り上げ、ついで、棚の上に置いてある水差しを掴んだ。何をするのだろうと疑問符の飛び交っている私を尻目に、今度は窓を大きく開けた。

 水差しの水をじゃぶじゃぶと布地にかけて濡らすと、軽く絞り、私の方に差し出した。

「これで拭いて下さい。今度は多分とれますよ」

 伯の言うとおり、水拭きすると、顔の汚れはあっさりと落ちた。

 彼は、完全に用を為さなくなったハンカチを、躊躇う様子もなくポイと屑籠に放り込んだ。

「ど、どうも……」

 この状況では、何というか、礼を言うしかない。

「あの……。とりあえず、お掛け下さい。立たせっ放しで申し訳ありません……」

 椅子を勧めると、彼は素直にそれに従った。テーブルを挟んで向かいの椅子に、私も腰を下ろした。

「えっと。先程、断ると仰いましたが……」

「はい。私の方からこの婚約を解消する気はありません」

「な、なぜ」

「貴女が気に入ったからです」

 テーブルの上に突っ伏しそうになった。

 何故だ。どうしてだ。私は、彼を門前払いしようとした挙句に失敗し、ならばと、まるで嫌がらせのようにその持ち物を一つ駄目にした、極悪非道な女である。

 辺境伯に好かれて然るべき要素など一欠片も無かったと、断言できる。

「あの。私は見ての通りの行き遅れで、しかも美人に生まれついたわけでもなく、趣味は数学の問題解析と専門書漁りという、筋金入りの変人です。絶対にやめた方が良い不良物件です。もしディオフランシスとの遠戚関係をお望みなら、クラリッサをお勧めいたします。あの子は綺麗だし……」

「私は、貴女の方が綺麗だと思いますが」

「は……あ? 何を仰います。こんな赤毛女に」

「赤ワインみたいな色ですね。私は好きですよ。ありふれた金髪よりよほどいい」

「いえ、あの。でも変な趣味が」

「変ではないでしょう。学問にひた向きに打ち込めるのは、誇るべき長所です。性別を問わず、努力できる人間を私は尊敬します」

「おかげさまで行き遅れ……」

「その表現は正しくありませんね。結婚なんて、自分がしたいと望んだ時が適齢期なのですよ、きっと」

 祖父が、私に彼を勧めた理由が、少しわかった気がした。

 あの怜悧にして狡猾な老人のことだ。マードック伯とあれこれと語り合い、そして、彼の、偏見を寄せ付けない貴族らしくない気質と、穏やかに見えてどこか一本筋の通った性格を、早いうちに見抜いたのだろう。

 この人なら、殻に閉じこもっている孫娘を、外に引っ張り出してくれるかもしれない、と……。


「わ、私、ちょっと疲れましたので。そろそろお暇いただけるかしら」


 気位の高い侯爵令嬢らしく、たいそう生意気な口調で、私は言った。

 辺境伯は気を悪くした風もない。それは失礼しました、と、のほほんとすら見える貌で、微笑んだ。

「今日のところは初顔合わせということで、帰ります」

 立ち上がり、戸口まで歩き、ドアの取っ手に手を掛ける。それに力を加える前に、振り向いた。

 自分の部屋なのになぜか所在なげに突っ立っている私の元に戻ると、覗き込むように上体を屈めた。優しげな顔には似つかわしくない、少し無骨で大きな手が、私の赤い横髪をすくうように掻き上げた。

 頬に、触れるだけの軽い口付けが落とされる。


「また来ます。……では」


 完全に固まった私を楽しそうに眺めやり、彼は去った。

 負けた、と、胸に渦巻くものすごい敗北感を、侍女を呼ぶ大声に変えて、私は叫んだ。


「サヴァナ! サヴァナぁーっ!」




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