27 下町の少年(ヘザー視点)
カイルの父レアトが残した二つの論文。
一つは、王立図書館に納めた原本。もう一つは、妻になるはずだった女性に贈った複製。
複製の方には、暗号文が綴じ込まれていた。
そこで私とカイルが同時に考えたのは、盗まれた原本にも同じような暗号文が隠されているのではないか、ということだった。
根拠は単純。
私たちの手元にある暗号文が、とにかく難しすぎるのである。
レアトがカイルに宛てたものならば、読ませることを前提に作ったはずなのに、私たち二人が雁首揃えてうんうんと丸一日悩み抜いても、全くと言っていいほど見えてくるものが無い。
「あらゆる分野の専門家を百人ほど集めて、三十年くらいかけて片っ端から検証すれば、解読できるかもしれませんね」
「そんな非現実的な……」
「ええ。ですから、これはもう答えは一つです。この暗号文は、複製に入っていたものだけでは解けない仕様なのでしょう。原本の方に、これの解法……いわば鍵が記されているのかもしれません」
「でも、原本は無いわ……」
「お手上げです」
と言ったものの、カイルはなぜか深刻そうには見えない。
読めないなら、それはそれで構わない、といやにあっさりとした反応が返ってきた。
「父はそう悪い人間ではなかったようですし、私としてはそれがわかれば十分です。結婚したら、などという妙な条件が付いていたことから考えても、正直、それほど深刻な内容が書かれているとは思えないのですよ」
「そんな事わかるもんですか。実はカイルのお父様が凄い資産家で、金銀財宝がざっくざっくだったらどうするのよ」
「なら余計に興味がありませんね」
貴女の方が興味がありそうなので、差し上げますよ、と、カイルはそのままレアトの論文を暗号文ごと私にくれた。
気にしないにも程があるだろうと頭を抱えたくなったが、これも何だか彼らしい。
生来の気質なのか、生まれの複雑さゆえか、カイルは時々妙に浮世離れした雰囲気を漂わせることがある。
喧騒から一人外れたところに佇んで、俗物だらけの下界ではなく、天にも近い遠い空を、はるかに見渡しているような……。
(……のわりには、しっかり恋人はいたわけよね。しかもあんな凄い美人)
アルムグレーン公爵を黙らせ、カイルの窮地を救い、お幸せに、と余裕の一言まで言い捨てて立ち去った、鮮やかな振る舞いの美女。
あの後カイルは醜聞に巻き込まれるどころか、さすがマードック伯は女性の見る目も一流だ、あやかりたいものだ、と妙な称賛まで浴びていた。
それはあながち間違いではなく、確かに、エノーラという元恋人に関しては、炯眼があったのだろうと私も思う。
「綺麗な人よね」
「そうですね」
「好きだったの?」
「好きでしたよ」
「普通、そこは前の彼女じゃなくて今の婚約者を立てるべきところじゃないの!?」
「別に立ててはいませんよ。聞かれたことに対する答えを言っただけです」
「私の方が好き?」
「愚問ですね。でなければ今私はここに居ません」
「どうして私の時は素直に好きって言ってくれないのよ」
「私に何を言わせたいのですか、貴女は……」
溜息の中にも、ほんの少し、照れているような気配が伝わってきたので、これ以上問い詰めるのはやめることにした。
初めは読みにくかったカイルの表情が、このところ、手に取るようによくわかる。
私が彼に対して鋭くなったのか。それとも、彼が私に対して取り繕うのをやめたのか。
後者の方が比率が高ければいいな、と、私は隣を歩く婚約者の横顔をこっそりと盗み見た。計算され尽くした完璧な微笑より、怒ったり、驚いたり、素のままの貌の方がずっといい。
「……で、何処まで行くつもりですか」
カイルもちらりと私を見たので、目があった。私は慌てて視線を逸らした。
「本屋よ。駄目で元々、お父様の暗号文に挑戦してみることにしたの。そのために、たくさん資料が欲しいのよ」
「資料は学院の購買で買えば良いでしょう。こんな下町をウロウロせずに」
「だって、置いてない本も多いのよ。取り寄せたら時間がかかるし。片っ端から本屋を当たった方が早いじゃない」
はぁ、とカイルが再び溜息を吐いた。
「その下町散策好き、もう少し何とかなりませんか……」
「誰のせいよ」
「……やはり私のせいですか」
「そうよ。こんなに楽しい事だって教えてくれたの、カイルじゃない」
「……紐に繋いで部屋に閉じ込めておきたい気分です」
呟いた彼の目が、すっと一点に注がれた。
少し離れた位置を、背の高い女が歩いていた。年齢はおそらく二十歳前、私より若い。化粧が濃い目だが、意志の強そうな黒い目と赤い唇が印象的な、なかなかの美人だった。
「なに見ているのよ」
私が思わず文句を言うと、
「違いますよ」
女がよろけ、通行人の身なりの良い中年男にぶつかった。男は文句を言いかけたが、若い女に媚を含んだ目つきで見上げられ、平謝りされると、鼻の下を伸ばして立ち去った。
これだから男ってのは……と私がへそを曲げるよりも早く、カイルは走り出し、女の手を掴んで細い路地裏に引きずり込んだ。
何が何だかわからないまま私が二人に駆け寄ると、カイルにねじり上げられた女の手には、見慣れぬ黒い財布が握られていた。
「まだこんな事をしていたのか。一度捕まったくらいでは懲りないようだな」
「離せっ……」
もがく女から、カイルは容赦なく財布を奪い取った。
悪態をついて更に暴れようとする彼女を、冷たく一瞥する。こういう時のカイルは……正直、怖い。
「大人しくしろ。このまま腕を折るぞ」
「ちょ、待って。カイル、女の人に」
「スリです。以前は引ったくりでしたね。警察隊に捕まって、心を入れ替えることを期待していたのですが……残念ながら全く反省していないようです」
カイルが、いきなりむんずと女性の髪を掴んだ。そのまま乱暴に引っ張るのを見て、私は慌てた。どんな理由があるにせよ、女の髪を鷲掴みにするなんて、紳士がやっていい事ではない。
「待っ……」
て、と発音する形のまま、私の口は固まった。
女の長い黒髪がずるりと取れて、その奥から、短い髪が現れた。女性のものではあり得ない咽仏や、意外にしっかりとした肩の骨格が顕わになり、もともと半開きになっていた私の口は、さらにぽかりと間抜けな丸の形になった。
「お、男っ!?」
「覚えていませんか。前に、この先で引ったくりをしていた少年ですよ」
以前、私が足を引っ掛けて転ばせたあの少年。
離せ、触るな、とたいそう暴れまくっていた、あの……。
「……女装が趣味だったのね」
「んな訳ないだろ!」
女装少年は顔を真っ赤にして、唾を飛ばしながら怒鳴った。
……この私に唾をかけるとはいい度胸だ。
「金が要るんだよ! でなけりゃ誰がこんな格好するか!」
「金が欲しければ働け。人から盗むのではなく」
カイルがもっともなことを言う。私も同感だ。引ったくりをする体力と女装できる根性があれば、生活費くらい余裕で稼げるだろう。したがって同情の余地はない。
「仕方ねぇだろ! 全然たりねぇんだよ。学院に入るのに金が……」
「学院?」
あ、とばつの悪い顔をして、少年がそっぽを向く。
大人二人に囲まれて観念したのか、急に開き直って、その場に両足を投げ出して座り込んだ。
「あー。もう。好きにしろよ。警察隊にでも何でも引き渡してくれよ。今さらジタバタしねぇよ」
潔い台詞だが、女装姿というのが大いに情けない。なかなか綺麗な顔貌をしているだけに、妙に似合っているのが逆に笑い……いや失礼、憐れを誘う。
それよりも、学院という言葉の方が気になった。学院関係者としては、無視できぬ文言である。
「貴方、学院に行きたいの?」
私が聞くと、
「俺じゃねぇよ! 弟だよ、弟! すごい頭いいんだ、あいつ。俺と違ってさ。何とか学校に……」
喋りすぎた、とでも言いたげに、少年は唇をへの字に引き結んだ。
「……どうでもいいだろ」
学院に所属するための入学金、授業料は、決して安くはない。いや、貧乏人にはかなりの大金だ。優秀な生徒には奨学制度もあるが、それでもかかる費用はようやく半分になる程度である。
学院は、ある程度親が資産を持つ中流以上の家庭でなければ、まず行けない……。
「君の弟は、幾つなんだ?」
カイルが尋ね、少年は訝しげに眉根を寄せながらも答えた。
「十一だけど」
「君は?」
「十七」
「そうか……」
カイルが何やら思案に耽る。同情ならいらんから、と、少年は挑みかかるような目つきで私たちを睨んだ。
「さっさと連れて行けよ。もう逃げないから」
「悪いが私たちは忙しい。警察隊なら自力で行ってくれ。財布は落し物として届けておく」
「はぁ?」
少年が素っ頓狂な声を上げる。
私も驚いてカイルを見た。
「馬鹿じゃねぇの、あんた。スリを見逃す気かよ」
「学院に入るための金が欲しくて窃盗をしていたのなら、君は、たぶん、もうしないだろう」
「へ?」
「君の弟が学院に入学できる年になる頃には、色々と制度が変わっている。本当に優秀な生徒なら、入学金も授業料も完全に免除になる。金の心配をする必要はない」
「なに寝惚けたこと言ってんだよ。タダになるわけねぇだろ。すげぇ高いんだぞ、学院の授業料」
「知っているよ。私の友人がまさにその授業料が払えなくて、危うく追い出されるところだったからね。私はそういう矛盾点を潰すために学院に派遣されたんだ」
「? 派遣されたって、あんた一体……」
カイルは道端に放り出されている黒いかつらを拾い上げ、それを少年の頭の上に載せた。
「君は、盗みをして汚れた金を稼ぐより、普通に働いて、弟に精の付くものでも食べさせてやりなさい。学院の奨学生になろうと思ったら、それなり以上の実力が必要だ」
海藻のように広がった長い毛の塊を、少年は撫でつけて整えた。
「君にスリの才能はないよ。私に一目で見抜かれるくらいだからね。女装したのも、自信の無さの表れだろう。そうでなければ小細工などいらないはずだ」
「……う、うるせぇな。いちいち嫌な奴だな!」
少年は立ち上がり、長いスカートの埃を何度もわざとらしく払い、後ずさった。
「財布、ちゃんと警察隊に届けろよ。ネコババするなよ!」
捨て台詞にしては随分と真っ当なことを言い、一目散に逃げ出した。
後日、私は、この少年と偶然再会する。
彼はニールと名乗った。下町の肉屋で働いていた。肉屋の隣は大きな食堂になっており、そこでも料理人見習いとして修行中ということだった。
「別に、あいつの言うこと、信じたわけじゃねぇけどさ」
ふん、とそっぽを向いた横顔が、年相応でひどく可愛い。
少年は信じたのだ。カイルを。だから泥棒なんてやめて、真面目に汗水流して働いている。
「そうねぇ……。信じる信じないは、あんたの勝手だけど」
私は、ニールに、定期的に肉を買ってやるからディオフランシスの屋敷まで届けるように提案した。それを聞いた肉屋の主人は、ニールが大口の客を連れて来たから、と、彼の給金を少し上げることを約束してくれた。
「ディオフランシスって……信じらんねぇ。あんた、そんな偉いところのお嬢様だったのかよ」
「そうよ。ありがたく敬いなさい」
「嫌だね。俺は貴族なんて大嫌いだ」
「貴族の私に跪けなんて誰も一言も言ってないわよ。大口のお客様である私を崇めなさい」
「……いい性格した姉ちゃんだな」
「ついでに暇なときにあんたの弟も連れてきなさい。学院講師である私が直々に全教科鍛えてあげるわ」
「うへぇ……」
などと悪態をつきながらも、ニールはまんざらでもない様子だった。
数日後、肉の配達の傍ら、ニールが弟を連れて来た。兄が誇らしげに自慢するだけあって、確かに利発な子だった。
「なぁ、俺の弟、凄いだろ? 出来るだろ?」
「そうねぇ……」
あんたの方が凄いし、人として出来る奴かもよ、と言うと、少年は面白いくらい狼狽えた。
「何だよ。訳わかんねー。肉値切ろうたって、そうはいかないからな!」
誉めてやったのに、なぜ不機嫌になるのだろう。素直に喜んでおけばいいのに。
この年頃の男の子って難しいなぁ、と、少し教育者らしい感慨を抱いた私だった。




