26 色鮮やかに(エノーラ視点)
醜聞の臭いを嗅ぎつけて、一人、二人、とハイエナのような宮廷人たちが集まってくる。
アルムグレーン公は、よほどカイルのことが気にくわないらしく、唾を飛ばしながら彼の悪口を並べ立てていた。
そのほとんどが、彼が元下級貴族であるという事実に纏わるものだった。たかが男爵の息子ごときが辺境伯爵など図々しい、と。
話はどれほど脈絡なくあちこちに飛んでも、最後には必ずそこに行き着いた。
カイルはそれに対しては反論せず、無言のまま聞いていた。いや、聞き流していた。相手にするのも馬鹿馬鹿しい、と、その表情がありありと物語っている。
それよりも、彼は明らかに私の方を意識していた。彼が話したいのは、アルムグレーン公ではなく私だ。
かつて二年半を共に過ごした女。幾度となく寝た女。それが、なぜ、よりにもよってアルムグレーン公爵の傍らに、味方然として立っている?
彼は私を問い詰めたいはずだ。裏切り者! きっと罵りたいはずだ。
非難と軽蔑の眼差しを覚悟して、いま私はここに居るのに、カイルから感じる気配は、細波のようにごく静かだった。
何があった?
大丈夫か?
君は、そんな男の隣に立つべき女性ではないだろう。
彼の心の声が聞こえた気がした。
私に対する愛情はもう無いけれど、信頼は、まだ残されているのだろうか。
そう思ってもらえるほどには、私は、彼にとって「大切な女」だったのだろうか……。
「この私生児めが!」
アルムグレーン公が怒鳴った。
しん、と辺りが静まり返る。静寂の後に、人垣がざわめき始めた。
「私生児? マードック伯が?」
アルムグレーン公は、カイルのことを事細かく調べ上げていた。何人もの私的な密偵を使い、もはや執念を感じるほど詳細に。その報告書の中に、カイルの出自についての記載も当然あった。
上位貴族としては致命的と言っても過言ではない、カイルの弱点。
父親が異国人であり、母親はその異国人の子を未婚のまま産み落とし、あまつさえ、それを隠し通すために男爵家との身分差のありすぎる婚姻を強行した……。
これを暴露されたら、カイルは、どうやって取り繕う気だろう。
彼自身は何一つ咎が無いのに、まるで、呪いのように纏わりつく……変えることのできない過去。
「ああ、いや。今のは言葉のあやだ」
アルムグレーン公が狼狽え、勢いのまま口にした「私生児」の一言を否定した。
全くと言っていいほど変化の無かったカイルの貌に、微かな不審の色が広がる。アルムグレーン公は苦労してようやく掴んだ切り札を、何故か使いたくないようだった。
話題を逸らすためだけに、私の方を振り返る。
「ここにいる女性と、随分親密な付き合いをしていたようだな? マードック伯。辺境伯になった途端、ぼろ雑巾のように捨てられたと、私に泣きながら訴えて来よったわ」
「……」
「まったく酷い男もいたものだ。下級貴族が、自分よりも格上の子爵家のご婦人を誑かし、揚句に捨てるとは。しかもこちらのご婦人は、お前の子を堕ろしたとか……」
「……」
また、辺りが一瞬静まり、そしてざわめいた。
奇妙に冷静に、私もカイルも得意げに口元を歪めるアルムグレーン公を見つめていた。一人固い表情をしているのは婚約者の赤毛の女で、励ますように、カイルがその彼女の手を握り締める。
「アルムグレーン公」
カイルが一歩進み出た。
赤い髪の婚約者を守るために戦うつもりなのだろう。出自の秘密という、重すぎる手枷足枷にその身を縛られたまま。
彼が次の言葉を紡ぐよりもわずかに早く、私は、手に持っていた扇を開き、そして大きな音を立ててまた閉めた。
「これは何の茶番ですの?」
私は言った。自分でも驚くほど、声はよく通った。
「アルムグレーン公爵様。私、先程から貴方様の仰っていることが何一つ理解できず、大変困惑しております。捨てられたとか、堕ろしたとか……。一体何の話ですの?」
そんな事実ありませんもの、と、私はぐるりと人の壁を見回した。
「私がかつてマードック辺境伯とお付き合いしていたのは事実ですわ。お互い、いい大人ですし、独身ですもの。それくらい普通でしょう? でも、八か月も前の話ですのよ? ほんの三か月前に爵位を引き継いだばかりのマードック伯が、偉くなった途端に私を捨てたって、辻褄が合わないにも程ってものがありますわ。私、お芝居は大好きですけど、こんな三流喜劇の出演者になる予定などなくってよ」
(言いたい事があるなら、存分に聞きますので、おいでなさい)
かつてカイルにそう言われたとき、私は彼に甘えるのをやめた。私は彼を訪ねなかった。代わりに、何日も泣いて泣いて泣き続けて、自分の力でけじめを付けた。
アルムグレーン公爵の企みに利用される気など、さらさら無い。
これから何年、何十年も先、かつてエノーラという女を本気で愛した、本気で愛するに値するいい女だった、と、ただそう思われたいだけだ。
逃がしてみれば大魚だった、失敗した、と、そんな事を考えてしまうくらい……凛とした、美しい華でありたい。
「アルムグレーン公は、よほどマードック伯がお嫌いのようですわね。王太子殿下とメルトレファス公爵様のご好意がマードック伯ばかりに向かうからと言って、嫉妬は醜いと思いますわ。まして、無いこと無いこと、嘘ばかり」
「な、な……」
顔を真っ赤にしてどもっているアルムグレーン公を、私は扇で追い払う仕草をした。
もしかして不敬罪になるかしらと一瞬ひやりとしたが、別になってもいいやと開き直れるほどに、この時の私は、ひどく気が昂ぶっていた。
「本音を言いますと、私、マードック伯とはお別れしなければ良かったと、少し思っていましたの。だって、凄くいい男なのですもの。でも、いい男だから、やはり相応しいお相手はすぐに見つかってしまうのですよね。ディオフランシスの令嬢がお相手では、勝ち目ありませんもの。……引きますわ。未練がましいのは好きではありませんの」
未練がましく、深夜、泥棒まがいのことまでして男の家に忍び込んだ女が、何を寝言をほざいているのかと、自分で自分が可笑しくなった。
(カイル)
彼の様子をちらりと伺うと、琥珀の瞳には、恐れていた苦笑も嘲笑もない。ただ、あの懐かしい、気遣うような温かい色がそこにはあった。
(どれほど私が醜態をさらそうと、最後まで信じて庇ってくれたこの人を……、私が追い詰めてしまってはいけない)
カイルから卒業しなければならない時が来てしまったのだと、すとんと胸の奥に落ちてきた寂しい実感とともに、私は言った。
「私、今日はただ薔薇の花を愛でに来ただけですの。まさか、私の姿を見て、アルムグレーン公爵様がこんな妙な作り話を始めるなんて……本当に驚きました。マードック伯、それから、ディオフランシス嬢。不愉快な思いをさせたこと、心よりお詫び申し上げます」
努めて他人行儀に振る舞えば、
「貴女の方こそ。……こんな騒ぎに巻き込まれ、さぞ不快な思いをされたことでしょう。そこにいる非常識な公爵閣下に代わり、お詫びいたします」
カイルも心得たもので、淡々と調子を合わせてくれる。
私は扇を開き、それで顔の下半分を隠した。緊張のためか、紅を塗っていても乾いてきた唇を、こっそり舐めた。
「……もう行きますわ。まだお目当ての薔薇の花、半分も見ておりませんの」
ドレスの裾を翻し、私は、かつて愛した男とその婚約者に背を向けた。
二歩ほど歩き、立ち止まる。いま急に思い出したふりを装って、後ろを向いた。
「あら、いやだ。私ったら、うっかり言い忘れるところでしたわ」
別れた男に未練など無い、何も気にしていないのだと、この場に居合わせた者全員に印象付けるためだけに、私は晴れやかな笑みを浮かべて見せた。
「……お幸せに。辺境伯様、侯爵令嬢様。お似合いですわ」
今度こそ歩き始めた。
震えそうな足を励まして、ゆっくりと。最後の演技を終えて舞台から去る、主演女優のように、堂々と。
今の私は、周りの人々にどう見られているのだろう。
カイルの目に、どう映っているのだろう。
いい女になりきることは出来たのだろうか。
潔く、誇り高く、美しい華でいられただろうか。
(さようなら、カイル。……本当に愛していたわ)
見上げた空の青さが、目に染みた。
閉じた瞼の端から、一筋、涙が零れ落ちた。
一皮むけたエノーラさん。
色鮮やかに咲く華に見えたらいいな、と思いつつ。




